法学館憲法研究所・伊藤真所長による、ひじょうに分かりやすい憲法の条項ひとつひとつの説明、日本国憲法の逐条解説の続きです。
前回最後に掲載した第24条を、わけあってもう一度、ここに載せさせていただきます。
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
13条の「個人の尊厳」を踏まえた上で、夫婦は対等な立場であることを謳ったものです。
明治憲法時代、「家」制度の下で、女性が個人として尊重されなかったことに対する反省から、あえて憲法に盛り込みました。
憲法は、「家族」についてこうあるべきとは規定していません。
「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という性別分業を押しつけることや、個人よりも家族が大切、つまり、個人より団体が大切という考え方を憲法は否定しますから、
家族を作ることも含めて、そのあり方はそれぞれの個人が自分たちで決めればいいとしたのです。
13条、14条と相まって、性別分業や男らしさ、女らしさといった行動規範にとらわれないで、各自が自由な選択ができる社会を、憲法はめざしています。
民法も、こうした個人の尊厳と両性の本質的平等の理念のもとにあるはずなのですが、非嫡出子の相続分差別、女性の再婚禁止期間制限、夫婦同姓の強制など多くの問題を残しています。
(2006年7月21日)
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上、及び増進に努めなければならない。
20世紀になって、福祉国家の理念の下に、社会的経済的弱者を保護し、実質的平等を実現するために保障されるようになった社会権の原則的規定です。
1項で、生存権を保障し、2項で、その実現のための国の義務を定めましたが、単に政治的道義的義務を定めたのではありません。
私たちの人権としての要求に応える、法的義務です。
そして、国がその要求に応じて生活保護費を支給する際に、「クーラーは贅沢品だから買ってはいけない」というように、その使い道の自由を奪い、「金は出すけれども口も出す」というのでは、本末転倒です。
あくまでも被保護者が人間らしく自由に生きることができるように自立を手助けすることが、その趣旨ですから、自由を伴わない福祉であってはならないのです。
また、自立支援といいながら、安易な自己責任論のもとに、国家の果たすべき役割を市民に押しつけることは許されません。
経済の自由な競争は、充実した生存権の保障があって初めて成り立つのです。
(2006年7月28日)
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
誰もが一人の人間として、一市民として、成長し発達して自己の人格を完成させていくために必要な、学習をする権利を持っています。
特に子どもは、必要な教育を大人に対して要求する権利を、本条で保障されています。
子どもへの教育は、子どもの学習権を充足させるためにあるのであって、子どもを大人たちの都合のいいように教育することは許されません。
ましてや、国家が支配しやすいような国民に仕立て上げるために、教育が手段として使われることがあってはなりません。
国家の役割は、教育条件の整備などに限定されるべきであり、教育内容に対する介入は許されない、と考えます。
また、親の経済力によって教育の質が違ってはなりませんから、義務教育の無償制も、単に授業料の無償にとどまらず、就学援助など、よりひろく実質的に考えられるべきです。
教育は、明日の主権者の育成という意味を持つのであり、その条件整備は、何よりも優先して実現されるべきだからです。
(2006年8月4日)
第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
労働に関する契約は、もともと労使間の自由に委ねられていましたが、経済的弱者である労働者に真の契約の自由などなく、低賃金や過重労働などの不利な条件を強いられてきました。
こうした歴史的経緯をふまえて、労働条件の設定に国が関与し、労働者の立場を保護しようという趣旨に基づく規定です。
国に対して労働の機会を要求し、それが不可能なときには、相当の生活費を要求することができます。
また、使用者の解雇の自由も、本条によって制約されます。
さらに、労働条件の劣悪化を許してはなりませんから、2項で特に、国に必要な措置をとることを要請しました。
本条は、職業安定法、雇用保険法、労働基準法など、多くの法律によって具体化されていますが、いわゆるニート対策はまさに急務となっています。
なお、勤労の義務が課されていますが、働く能力も機会もあるにもかかわらず、働こうとしない者は、生活保護を要求できないという意味に解されています。
(2006年8月11日)
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
契約自由の原則を労使間においても貫くと、現実の経済的力量の差ゆえに、労働者は使用者に対して不利な条件を強いられてしまいます。
そこで、弱い立場にある労働者を、使用者と対等な立場に立たせることを目的として、団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)を、労働基本権として保障しました。
国に対して、労働基本権を保障する措置を要求することができるほか、
正当な労働基本権の行使に刑事罰を科すことを禁じ(刑事免責)、不法行為や債務不履行として民事責任を課すことを許さない(民事免責)ところに意味があります。
もともとは労働者の生存権を保障するためのものでしたが、今日においては、13条が保障する自己決定権の現れとして、自らが服する労働条件の決定に主体的に参加していくための権利と位置づけることができます。
こう考えると、ある程度の収入を得ている労働者にとっても、労働基本権が重要な権利であることが説明しやすくなります。
(2006年8月25日)
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
フランス革命のころから重要な人権とされてきた、個人の財産権を保障しています(1項)。
この財産権は、人の生命や健康などに対する危害や災害を防止するために、各種の内在的制約を受けるほか、私的独占の禁止などの政策的制約を受けることもあります(2項)。
また特定の個人の財産を、道路拡幅など公共のために、強制的に奪うこともできますが、そこで生じた損失は、国民みんなで負担するのが公平だという趣旨の規定です。
したがって、土地や家屋などの市場価値や、それを失うことによる損失を含めて完全に補償されますが、
さらに、たとえばダム建設に伴い、生活の基盤を失う人の生活再建措置のあっせんなどもここに含まれるべきです。
また、社会を伝染病から守るために、事実上強制された予防接種によって生じた健康被害についても、なんらかの形で国民全体つまり国が負担するべきです。
(2006年9月1日)
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
教育を受けさせる義務、勤労の義務と並ぶ、数少ない国民の義務規定の一つです。
国民が、自分たちの権利を守るための組織として国家をつくったのですから、それを維持するための費用を自分たちで負担するのは当然のことです。
ただし、天皇や外国人も負担します。
また、納税の義務は、法律によって具体化されますから、84条とともに、租税法律主義を規定しているともいえます。
国民が納税者としての意識を強く持つことは、自分の払った税金の使い道について関心を持つことにつながりますから、それは同時に、主権者意識を高めることになります。
効率的に戦費を調達するために始まった所得税の源泉徴収制度が、いまだに続いているため、それが多くの国民の納税者意識を希薄にしてしまっているとしたら危険です。
自衛隊のイラク派遣やミサイル防衛に、どのくらいの税金が使われて、どのような意味があるのかをしっかりと監視することは、納税の義務に伴う国民の責任といえます。
(2006年9月8日)
↑以上の条文について、憲法をずっと学んでこられたじゅんこさんが、二三、コメントを残してくださったので、それらをここに付け加えさせてもらいます。
『伊藤真さんの説明は、わたしたち主権者としてのふるまいを示してくれていますね。ほんとにわかりやすいです。
2日は「ベアテの贈りもの」という、日本国憲法第14条、24条を起草したベアテ・シロタ・ゴードンさんの、ドキュメンタリー映画を観てきました。
映画の中でベアテさんは、
「24条に、女性の権利条項をいっぱい作ったけれど、当時の帝国官吏やGHQ民政局に反対されて、随分削除され、今の男女平等条項だけが残りました」と語っていました。
アメリカもまだ、女性の権利が確立されたわけではなかったから、日米男性陣には不評だったようですね。
その後、日本の女性たちが、24条を盾に闘った歴史も紹介されていて、現在のわたしたちが社会に出て働いたり、政治運動が出来るのは、ベアテさんや一部の女性たちのおかげなんだと、しみじみ感じました。
憲法を生活に活かすことが出来なければ、宝の持ち腐れになってしまいますね』
『わたしたちは、第2章・第3章だけでもいいから読んで理解して、為政者に護らせないといけないですね。
大日本帝国憲法下で、戦前のニッポンが戦争国家になったのだから、それを絶対に繰り返さないために、9条だけじゃなく第3章のわたしたちの権利を知っていないと、
外堀を埋められたら、憲法違反の法律によって縛られて、9条を守ることもできないし、また同じ過ちを繰り返してしまいますね。
GHQ案では、3つ(納税・労働・教育)の義務はなかったそうですよ。
義務好きな上から目線の帝国官吏たちが、後で付け加えたようですね。
憲法に義務を書き込むのは不自然ですよね。
民主的な憲法を押し付けられたと感じたのは帝国官吏の方で、だから未だに『占領軍による押し付け論』がまかり通ってますね。
憲法違反の法律や条例や通達はいっぱいありますが、わたしたちが憲法を知らないから、自分たちの首を絞めて生きにくい世の中にしてしまってますね。
昨日のGWが憲法記念日だったってことを、何人のニッポン人が考えたでしょうか?』
『住居の移転の自由は、憲法第22条で保障されていますね。
しかも、住めなくされてしまったのに、東電や国は責任を取らずに、被ばくしながら住み続けることは、第25条の、健康で文化的な最低限度の生活もできないということですよね。
しかも、25条第2項は
「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」となっていますが、
これを全く無視できるのは、ここでもわたしたちが、憲法を生活に活かしきれていないからですよね。
全国民が憲法違反だって叫ばないと、国家は何もしないでしょう』
憲法を知らずに大人になった日本国民。
そのひとりであるわたし。
なんでやろう。
なんでここまで知らんかったんやろう。
まるで、原発の実情を知らんかったのとおんなじや。
ここまで、自分らの命の尊厳に関わるぐらいに大切な物事を、ふわふわ無視して生きてきたのは、なんもわたしらが大ボケ過ぎただけではない。
ボケててもらいたいと思う人間たちや組織があって、その作戦にまんまとひっかかってきたからや。
ひっかからへんかった賢い人たちは、その罠の外から声を枯らして、それは罠や、そっから逃げなあかんと叫んでくれてたけど、
罠の中はお喜楽で、飴ちゃんやらハチミツやら甘いもんだらけで、フイッと不安になることはあってもそれは一瞬のことで、なんとなく自分が大丈夫やったらええやんという気になって……。
甘いもんの中毒は恐ろしい。
思い切って罠の外に出てみたら、なんのこっちゃない、せいせいした。
憲法のこと、原発のこと、第一次産業のこと、基地のこと、国というバケモノのこと、いろんなことをどんどん学べた。
これからもずっと、この世を卒業する日まで、わたしはこの勉強を続けていくやろう。
良い生き方ができるよう気づかせてくれたツィッターに、心から感謝。
前回最後に掲載した第24条を、わけあってもう一度、ここに載せさせていただきます。
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
13条の「個人の尊厳」を踏まえた上で、夫婦は対等な立場であることを謳ったものです。
明治憲法時代、「家」制度の下で、女性が個人として尊重されなかったことに対する反省から、あえて憲法に盛り込みました。
憲法は、「家族」についてこうあるべきとは規定していません。
「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という性別分業を押しつけることや、個人よりも家族が大切、つまり、個人より団体が大切という考え方を憲法は否定しますから、
家族を作ることも含めて、そのあり方はそれぞれの個人が自分たちで決めればいいとしたのです。
13条、14条と相まって、性別分業や男らしさ、女らしさといった行動規範にとらわれないで、各自が自由な選択ができる社会を、憲法はめざしています。
民法も、こうした個人の尊厳と両性の本質的平等の理念のもとにあるはずなのですが、非嫡出子の相続分差別、女性の再婚禁止期間制限、夫婦同姓の強制など多くの問題を残しています。
(2006年7月21日)
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上、及び増進に努めなければならない。
20世紀になって、福祉国家の理念の下に、社会的経済的弱者を保護し、実質的平等を実現するために保障されるようになった社会権の原則的規定です。
1項で、生存権を保障し、2項で、その実現のための国の義務を定めましたが、単に政治的道義的義務を定めたのではありません。
私たちの人権としての要求に応える、法的義務です。
そして、国がその要求に応じて生活保護費を支給する際に、「クーラーは贅沢品だから買ってはいけない」というように、その使い道の自由を奪い、「金は出すけれども口も出す」というのでは、本末転倒です。
あくまでも被保護者が人間らしく自由に生きることができるように自立を手助けすることが、その趣旨ですから、自由を伴わない福祉であってはならないのです。
また、自立支援といいながら、安易な自己責任論のもとに、国家の果たすべき役割を市民に押しつけることは許されません。
経済の自由な競争は、充実した生存権の保障があって初めて成り立つのです。
(2006年7月28日)
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
誰もが一人の人間として、一市民として、成長し発達して自己の人格を完成させていくために必要な、学習をする権利を持っています。
特に子どもは、必要な教育を大人に対して要求する権利を、本条で保障されています。
子どもへの教育は、子どもの学習権を充足させるためにあるのであって、子どもを大人たちの都合のいいように教育することは許されません。
ましてや、国家が支配しやすいような国民に仕立て上げるために、教育が手段として使われることがあってはなりません。
国家の役割は、教育条件の整備などに限定されるべきであり、教育内容に対する介入は許されない、と考えます。
また、親の経済力によって教育の質が違ってはなりませんから、義務教育の無償制も、単に授業料の無償にとどまらず、就学援助など、よりひろく実質的に考えられるべきです。
教育は、明日の主権者の育成という意味を持つのであり、その条件整備は、何よりも優先して実現されるべきだからです。
(2006年8月4日)
第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
労働に関する契約は、もともと労使間の自由に委ねられていましたが、経済的弱者である労働者に真の契約の自由などなく、低賃金や過重労働などの不利な条件を強いられてきました。
こうした歴史的経緯をふまえて、労働条件の設定に国が関与し、労働者の立場を保護しようという趣旨に基づく規定です。
国に対して労働の機会を要求し、それが不可能なときには、相当の生活費を要求することができます。
また、使用者の解雇の自由も、本条によって制約されます。
さらに、労働条件の劣悪化を許してはなりませんから、2項で特に、国に必要な措置をとることを要請しました。
本条は、職業安定法、雇用保険法、労働基準法など、多くの法律によって具体化されていますが、いわゆるニート対策はまさに急務となっています。
なお、勤労の義務が課されていますが、働く能力も機会もあるにもかかわらず、働こうとしない者は、生活保護を要求できないという意味に解されています。
(2006年8月11日)
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
契約自由の原則を労使間においても貫くと、現実の経済的力量の差ゆえに、労働者は使用者に対して不利な条件を強いられてしまいます。
そこで、弱い立場にある労働者を、使用者と対等な立場に立たせることを目的として、団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)を、労働基本権として保障しました。
国に対して、労働基本権を保障する措置を要求することができるほか、
正当な労働基本権の行使に刑事罰を科すことを禁じ(刑事免責)、不法行為や債務不履行として民事責任を課すことを許さない(民事免責)ところに意味があります。
もともとは労働者の生存権を保障するためのものでしたが、今日においては、13条が保障する自己決定権の現れとして、自らが服する労働条件の決定に主体的に参加していくための権利と位置づけることができます。
こう考えると、ある程度の収入を得ている労働者にとっても、労働基本権が重要な権利であることが説明しやすくなります。
(2006年8月25日)
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
フランス革命のころから重要な人権とされてきた、個人の財産権を保障しています(1項)。
この財産権は、人の生命や健康などに対する危害や災害を防止するために、各種の内在的制約を受けるほか、私的独占の禁止などの政策的制約を受けることもあります(2項)。
また特定の個人の財産を、道路拡幅など公共のために、強制的に奪うこともできますが、そこで生じた損失は、国民みんなで負担するのが公平だという趣旨の規定です。
したがって、土地や家屋などの市場価値や、それを失うことによる損失を含めて完全に補償されますが、
さらに、たとえばダム建設に伴い、生活の基盤を失う人の生活再建措置のあっせんなどもここに含まれるべきです。
また、社会を伝染病から守るために、事実上強制された予防接種によって生じた健康被害についても、なんらかの形で国民全体つまり国が負担するべきです。
(2006年9月1日)
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
教育を受けさせる義務、勤労の義務と並ぶ、数少ない国民の義務規定の一つです。
国民が、自分たちの権利を守るための組織として国家をつくったのですから、それを維持するための費用を自分たちで負担するのは当然のことです。
ただし、天皇や外国人も負担します。
また、納税の義務は、法律によって具体化されますから、84条とともに、租税法律主義を規定しているともいえます。
国民が納税者としての意識を強く持つことは、自分の払った税金の使い道について関心を持つことにつながりますから、それは同時に、主権者意識を高めることになります。
効率的に戦費を調達するために始まった所得税の源泉徴収制度が、いまだに続いているため、それが多くの国民の納税者意識を希薄にしてしまっているとしたら危険です。
自衛隊のイラク派遣やミサイル防衛に、どのくらいの税金が使われて、どのような意味があるのかをしっかりと監視することは、納税の義務に伴う国民の責任といえます。
(2006年9月8日)
↑以上の条文について、憲法をずっと学んでこられたじゅんこさんが、二三、コメントを残してくださったので、それらをここに付け加えさせてもらいます。
『伊藤真さんの説明は、わたしたち主権者としてのふるまいを示してくれていますね。ほんとにわかりやすいです。
2日は「ベアテの贈りもの」という、日本国憲法第14条、24条を起草したベアテ・シロタ・ゴードンさんの、ドキュメンタリー映画を観てきました。
映画の中でベアテさんは、
「24条に、女性の権利条項をいっぱい作ったけれど、当時の帝国官吏やGHQ民政局に反対されて、随分削除され、今の男女平等条項だけが残りました」と語っていました。
アメリカもまだ、女性の権利が確立されたわけではなかったから、日米男性陣には不評だったようですね。
その後、日本の女性たちが、24条を盾に闘った歴史も紹介されていて、現在のわたしたちが社会に出て働いたり、政治運動が出来るのは、ベアテさんや一部の女性たちのおかげなんだと、しみじみ感じました。
憲法を生活に活かすことが出来なければ、宝の持ち腐れになってしまいますね』
『わたしたちは、第2章・第3章だけでもいいから読んで理解して、為政者に護らせないといけないですね。
大日本帝国憲法下で、戦前のニッポンが戦争国家になったのだから、それを絶対に繰り返さないために、9条だけじゃなく第3章のわたしたちの権利を知っていないと、
外堀を埋められたら、憲法違反の法律によって縛られて、9条を守ることもできないし、また同じ過ちを繰り返してしまいますね。
GHQ案では、3つ(納税・労働・教育)の義務はなかったそうですよ。
義務好きな上から目線の帝国官吏たちが、後で付け加えたようですね。
憲法に義務を書き込むのは不自然ですよね。
民主的な憲法を押し付けられたと感じたのは帝国官吏の方で、だから未だに『占領軍による押し付け論』がまかり通ってますね。
憲法違反の法律や条例や通達はいっぱいありますが、わたしたちが憲法を知らないから、自分たちの首を絞めて生きにくい世の中にしてしまってますね。
昨日のGWが憲法記念日だったってことを、何人のニッポン人が考えたでしょうか?』
『住居の移転の自由は、憲法第22条で保障されていますね。
しかも、住めなくされてしまったのに、東電や国は責任を取らずに、被ばくしながら住み続けることは、第25条の、健康で文化的な最低限度の生活もできないということですよね。
しかも、25条第2項は
「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」となっていますが、
これを全く無視できるのは、ここでもわたしたちが、憲法を生活に活かしきれていないからですよね。
全国民が憲法違反だって叫ばないと、国家は何もしないでしょう』
憲法を知らずに大人になった日本国民。
そのひとりであるわたし。
なんでやろう。
なんでここまで知らんかったんやろう。
まるで、原発の実情を知らんかったのとおんなじや。
ここまで、自分らの命の尊厳に関わるぐらいに大切な物事を、ふわふわ無視して生きてきたのは、なんもわたしらが大ボケ過ぎただけではない。
ボケててもらいたいと思う人間たちや組織があって、その作戦にまんまとひっかかってきたからや。
ひっかからへんかった賢い人たちは、その罠の外から声を枯らして、それは罠や、そっから逃げなあかんと叫んでくれてたけど、
罠の中はお喜楽で、飴ちゃんやらハチミツやら甘いもんだらけで、フイッと不安になることはあってもそれは一瞬のことで、なんとなく自分が大丈夫やったらええやんという気になって……。
甘いもんの中毒は恐ろしい。
思い切って罠の外に出てみたら、なんのこっちゃない、せいせいした。
憲法のこと、原発のこと、第一次産業のこと、基地のこと、国というバケモノのこと、いろんなことをどんどん学べた。
これからもずっと、この世を卒業する日まで、わたしはこの勉強を続けていくやろう。
良い生き方ができるよう気づかせてくれたツィッターに、心から感謝。