昨日は、当時12才やったセヴァンちゃんの、大人への訴えを聞いた。
そして今日は、16才の心ちゃんの、大人への問いかけを聞いた。
間違うた復興。
原発事故はまだ収束もしてない。
危機的な状況が続いてて、汚染も広がってる。
地震もまだまだ続いてて、ちょっと大きめのんがくるたんびに、まずあそこは大丈夫か、とヒヤッとする。
いざという時は、子どもたちの安全を確保するための、対策(マニュアル)が整備されてるんか?
今度はちゃんと避難できるんか?
現実をいったい、どれだけの人間が知ってるんやろ。
新聞もテレビも、近辺の市民にはもちろんのこと、日々起こってる、変化してる状況を、全国規模で伝えてるんか?
『経済復興ばかりが重視され、それに対して批判もせずに、
福島県自らが、大丈夫です、元気です、未来に向かって頑張っています、などと言ってしまっていることが、
世間の目を現実からそらさせ、子どもの対策を後回しにさせてしまっているということに、早く気付いてほしい』
『被害を小さく見せたり、目に見える復興ばかりをクローズアップし、
風評被害という言葉を真っ先に走らせたこの国の意図を見ずして、本質をとらえることはできません』
ここんとこ、思てても、はっきりと口に出せんかった。
言うてええんかな、と思たりした。
けど、心ちゃんに励まされた。
ふらふらしてる場合か!
泣け!怒れ!
こんなとこで子ども育てられるかって叫べ!
『測ってみっぺ!いわき 放射能測定引き受けます 不安な声を聞かせて下さい 安心に繋がる出会いになりますように……』ブログに掲載されていた、藤波心ちゃんのスピーチです。
間違った復興劇
2013.04.07
藤波心ちゃんのスピーチです。
2013年3月16日(土)錦町公園(宮城県仙台市青葉区)で開催された『福島原発事故を忘れない 女川原発再稼働を許さない!3.16みやぎアクション』集会での藤波心さんのスピーチです。
途中、右翼の街宣車が近くを通ったので、思わずそちらを振り向いてしまい約4秒ほど映像が乱れてしまっています。本当に申し訳ありません...。
撮影・編集:秋山理央
大人としての生き方が問われている今、どれだけそれを意識しながら生きることができるかと言ったら、
日々の忙しさの中でそこまで考える余裕がない、という声もあるかと思いますが、
それにしても、これでいいのかなと、思わずにはいられません。
現在の状況を見ていて、とても胸が痛むのは、間違った復興に加担することが、
結局は、大事な子どもたちの未来を守らないことを、助長させてしまっているのではないかということです。
原発事故は、まだ収束もしておらず、危機的な状況が続いているということ。
そして、トラブルが発生するたびに、私たちは、更なる危険に晒される可能性があるという状況である、ということ。
そういった現実を、きちんと広く市民に伝えて、最善の危機管理体制がとられ、
いざという時は、子どもたちの安全を確保するための、対策(マニュアル)が整備されているのでしょうか。
このような未曾有の出来事が起こりながら、トラブル隠しの体制はそのまま。
しかも、原発事故の責任追及もされないままの、ごまかしごまかしの国のやり方に、どこか慣らされてしまっているのではないでしょうか。
せめて子どもの未来についての最善の対策ぐらいは、国としての最優先事項として、真っ先に体制がつくられていくのであろう、という希望的観測は見事に破れ、
経済復興ばかりが重視され、それに対して批判もせずに、福島県自らが、大丈夫です、元気です、未来に向かって頑張っています、などと言ってしまっていることが、
世間の目を現実からそらさせ、子どもの対策を後回しにさせてしまっているということに、早く気付いてほしいと思うのです。
原発事故から、もう2年が経ちました。
なにも進まないこの状況に、声を上げるエネルギーも奪われ、このような声は特別なもののようになってしまい、
「まだ言っているの?」、「凄いね~」、などと言われることが多くなりました。
あの時、みんながひとつになり、そこでの出会いもたくさんありました。
しかし、今も同じように、同じ方向性で、子どもの未来を守るために、このままではいけないと声を上げるエネルギーは、残念ながらあまり存在はしていません。
本当にもう、みんな疲れてしまっているのです。
しかし、細々とでも伝え続けなければ、子どもたちの未来がどうなってしまうのかしらと、
この現実を前に、悲しい気持ちで過ごしている母親たちがここにいるということすら、消しさられてしまいます。
同じように思っている、ほかの母親たちの声を代弁する意味でも、こうして伝え続けたいと思っています。
福島はもう大丈夫。元気です、とアピールする流れに乗ってしまうことは、
本当はまだまだそのような状態ではない、子どもたちが守られていないのだということを、いくら私たちが伝えても、
それを隠してしまうことに繋がってしまうのではないですか?
未来に希望を抱くことは大事なことであり、元気に明るく前を向いて進んでいきたいという気持ちは、みな同じだと思います。
いつまでもそんなことばかりを言っていても、動いていかない、と言われてしまうかもしれません。
しかしそれは、あくまでも、きちんとした対策が取られてこそ、子どもの未来を守ってこそのことではないのでしょうか。
復興の邪魔をしたい訳ではありません。
共に未来を築いて行きたい、という思いは同じです。
しかしながら、それと同時に、きちんと対策を求めていかなければ、大事な子どもたちは守られないままです。
肝心なことが抜け落ちたまま、『子どもに恐怖心を与えることはよくない、不安なことばかり煽らないで』というバッシングは、
この事態の本質を見失っている、としか思えません。
子どもを持つ親の口からも、このような言葉が聞こえることがあり、事故後に、教育現場の対策の遅れを危惧して動き始めた時に、
『人はいつか死ぬんだから、今を楽しく過ごさせてやりたい。
交通事故に遭うことだってある。
今まで通りに部活を頑張らせたいのに、あなたたちが騒ぐことで練習の時間が削られてしまう。
心配なら出て行きなさい』という言葉を投げられたことがあります。
こういった考えの背景には、認識の差が存在するのだと思いますが、
まずは、目の前の我が子の安全を確保することを、最優先に対策を求めることすら、特別なことのようになってしまっている。
これが、この国の現実なのです。
この国は、しっかりと市民を守っていると思うのであれば、それは個人の捉え方なので自由ですが、
被害を小さく見せたり、目に見える復興ばかりをクローズアップし、風評被害という言葉を真っ先に走らせたこの国の意図を見ずして、本質をとらえることはできません。
それは、何を目的としているのか、そして、それにまんまと乗せられてしまうことによって、どういった事態を招くことになってしまったのか。
もう一度、原点に立ち返って、よく考える必要があるのだと思います。
無邪気な子どもたちに、明るく元気に未来への希望を語らせ、『復興』を語らせる場面を大人が作り、
そして、そういった場面は、メディアが積極的に捉え、さも復興が進んでいるかのようなパフォーマンスショーに力を注いでいる間にも、
子どもたちは、守られることなく、被曝を繰り返しています。
その復興は、本当に子どもの未来のためですか?
大人の都合による、こうあってほしいという方向付けや、アピールではありませんか?
リスクを最大限に抑えて、子どもの健康被害を出さないために、どんな対策をしたというのでしょうか。
具体的な対策を!と、様々なことを求め続けても、大丈夫大丈夫と、本気で向き合うこともされません。
どんなにアクションを重ねても、一向に前に進みません。
本当にそれでいいのでしょうか。
外部からの支援というのは、なんとかここの人たちに、再び元気に立ち上がってほしいという、そういったものだと思っています。
何を持って復興と言うのか。
どういった方向付けが、復興を支えることに繋がるのか。
ここの肝心なことを抑えなければならないのだと思います。
まずやらなければならないことは、子どもたちの未来を守ることであり、
経済を元気にすることと同時に、それができないのであれば、それは正しい方向性ではないと思います。
原発事故は収束しておらず、今も子どもたちが被曝しながら、ここに居る事実は存在しています。
大したことがないと、原発事故の影響を過小評価しなければ進まない『復興』を、子どもたちに語らせる場面が多々見られます。
それは、教育の現場でも普通にある場面で、何が子どもたちに求められているのかを、全て見ることはできません。
しかしそれは、あまりにも残酷なのではないでしょうか。
頭を冷やして考えてほしいと思います。
子どもに復興を考えさせることができる、今の状態でしょうか。
その前に、きちんと対策が取られていて、安全が確保されていますか?
あまりにも悲しい現実を見る場面が、ますます増えている日々。
正常な感覚を失わないためにも、しっかりとがっかりし、悲しみ、虚しさを味わうことも大事です。
このクレイジーに、慣れてしまってはならないと思います。
悲しいから悲しいと、今の状況を綴ります。
きちんと放射能のことを、原発のことを語り続けなければならない。
変な盛り上がりは異様です。
今こそ、しっかりと、タブーに向き合う時なのではないでしょうか。
そして、原発の話はちょっと……という、なにか後ろめたい感じの捉え方が、今尚存在することにも、違和感を覚えます。
ここは、原発事故によって、子どもの未来が危機に晒されてしまった所です。
私たちが大事にしてきた暮らしは、奪われてしまったのです。
それについて声を上げることは、当然のことであり、二度と同じことがあってはならないという思いは、むしろ、ずっとずっと持ち続けなければならないのではないのでしょうか。
どんなに時が経とうと、このような声は上げていく必要があると思っています。