ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

YUJA WANGというピアニスト

2013年05月16日 | 音楽とわたし
えらいもん聞いてきた。
えらいもん見てきた。

YUJA WANG

中国生まれの25才。
うちの息子らのちょうど間に生まれた、まだピアノ歴20年の女の子。
ぴったり体にくっついたミニスカートで現れて、人間離れした高度のテクニックと、どないしたらあんな柔らかでかすかな、けどもしっかりと歌ってる音が出せるのか、
彼女の指が鍵盤の上でひらひらキラキラガンガンポトポト動いてるのを、はじめっから終わりまで、逐一見続けてたのに、それでもわからん。

なんちゅう子や……。人間ちゃうな、多分。

友人のジェーンから、突如「チケット余ったから、一緒に行かへん?」と誘われて行った、Yuja Wangのピアノソロコンサート。
カーネギーの大ホール満員のお客さまが、総立ちで、拍手をやめへんかったから、かわいそうに、疲れ切ってるやろに、アンコールを5曲も弾いたYuja。
わたしらの席は、2階の、舞台に一番近いバルコニー席。
彼女の背中を上から見下ろす。
けども、真後ろから見下ろしてるから、鍵盤と彼女の指が丸々見える。
これで25ドルって、めっちゃええんとちゃうかしらん。
音はもちろん、カーネギーやから、どこに座っててもすばらしく聞こえてくる。

ああ、ほんまにびっくりした。
あまりのことに、拍手しながら笑えてきた。

プログラムは、リバーマンという1961年生まれの現代作曲家、ラフマニノフのピアノソナタの2番、休憩を挟んで、スクリャービンのピアノソナタの2番と6番、そしてラヴェルのLa Walse。
どの曲も、わたしが一生かかったって、完璧に弾けることは無いやろな……。

彼女の超絶技巧と表現の幅の広さに、人生の年月を経た深みと慈しみが加わったら、いったいどないなことになるんやろか。
めちゃ楽しみなピアニストに出会た夜。


今夜の最後に弾いたラヴェルのLa Valse。
この曲は、わたしにとって超~特別な曲。
離婚を決めて、それをまだ、旦那以外の誰にも言うてへんかった時に、ピアノの師匠が、「この曲を2台ピアノで一緒に弾かへん?」と誘てくれはった。
ふたりで弾くにしても、相当大変な曲やったけど、人生の区切りにはふさわしいと思てチャレンジした。
舞台で弾きながら、壮大なワルツを踊りながら、「ばいばい、わたしのこれまでの人生」と思いながら演奏した。

ソロ用にアレンジされてるとはいえ、わたしの2本の腕でキチキチ精一杯やった第二ピアノパートを、彼女はふふん♪という感じでバラバラと弾いていく。
これは彼女が20才の時の演奏。


この3曲のうちの最初の曲は、ショパンが弾きとうて弾きとうてかなんわたしに、しぶしぶ師匠が許可してくれた初めてのワルツ。
今夜のアンコールの中の、4曲めに弾いてくれた曲。


彼女が弾くスカルラッティを、今度は生で聞きたいと思う。


これは、彼女がどれだけとんでもない速さで、けども一音も欠かさず、バランスも巧妙にとって弾けるかの証明。やっぱり人間とは思えん……。



わたしはただ、わたしらしく、わたしのままでいたい。

それが彼女の、今現在の強い思い。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケツの汚い人間に、いやいやであろうがなかろうが、結局は任せてんねんな、人生を

2013年05月16日 | 日本とわたし
室井佑月さんはいっつも、めっちゃ分かり易う、わたしがごちゃごちゃと頭の中で考えてることを、言葉にしてくれはる。
古いのんと新しいのん、ツィッターで見っけた。

こんなふうに、なんで他の、伝える力と立場を持ってる人が、もっともっと訴えはらへんのやろ?
おとなしいなあと思う。

今回の、大阪のアホ市長のこともそうやけど、
本人がとりあえず、言葉巧みに謝ったふりして、政局やの政党やのの行方のことばっかりに話を持ってかれて、それで終わり、ってなことになりそうな気配。
アメリカに怒る資格無いやの、昔はああやったこうやったやの、
ちゃうやろっ?!
たった今、わたしらが腹割って、心底真剣になって向き合わなあかんことは。

国も価値観も違う人に言うたから、わかってもらえんかった。
傷ついた人がいる『なら』、それは悪かった。
選挙に影響するのは当然やと思う。

海外で大騒ぎになって大慌てしてからも、そんなことばっか報道してるマスコミ。

なんでこんなトンデモな言葉が口から出てくるんか。
この国の『人として生きる権利』とはなんなんか。
昭和30年以降、その人権を守るために、人権を犯そうとする獣『権力』を頑丈な檻に閉じ込めてくれてる憲法を、学ばさんようにした文部省。
昭和32年生まれのわたしは、おかげ?で憲法のケの字も知らんと、のんきに半世紀以上も生きてきた。

なんで憲法を隠したかったか。
なんで憲法を、なんや古くさい、難しいもんとして印象づけたかったか。
なんで憲法を、ほんの一部の人間だけが知ってたらええ、ぐらいのもんにしたかったか。

人権蹂躙。

このことに、必死で、顔真っ赤にして怒らなあかんやんか!
まだ怒れるんやで、今やったら!
今度の選挙でまた、ムサシの機械で操作されてまう前に、なんかひとつでもええから、行動して見せなあかんと思うな。

全国の日本人のみなさん、大人も子どもも、自分がどう思てるのか、それをまとめてみませんか。
ちゃんとまとまらんでもええから、それを誰かに話しませんか。
台所でもええ、学校のクラスでもええ、熟の教室でもええ、校庭でもええ、地下鉄の中でもええ、喫茶店の中でもええ、フィットネスで運動しながらでもええ、
自分以外の人に、自分の声で、話しませんか。
自分の声で語られる自分の気持ちを、自分の耳と心で聞いてみませんか。


責任逃れる原発関係者は「お尻が汚い」と室井佑月氏
※週刊朝日 2012年10月26日号

「原発関係者全員、誰もケツ拭かない。ケツを拭かない国家に明日があると思いますか?」

これは、音楽雑誌に載った矢沢永吉さんの言葉だそうだ。
さすが永ちゃん。永ちゃんカッコいいっ!

そうだよ、誰かがケツ拭けよ。
なにが起きてもケツを拭かないとはなから決めている人たちに、物事の決定権なんてないに違いない。

前原誠司国家戦略相は、朝日新聞などのインタビューに、

「独立性の高い(原子力)規制委が安全だと決めたものを、また国で判断するのは論理矛盾。
規制委に申し出る事業者は原発を動かしたいのだから、安全が担保されたら再稼働する」と発言した。

いっぽう規制委の田中俊一委員長は、

「再稼働判断は事業者か国にしていただく」と答えた。

つまり、政府も規制委も、原発の再稼働において、なにか問題が起こったときの責任を押し付け合っているわけだ。

「最終決定したのは俺らじゃねーから」

今からそんな風に言いたいのが見え見えじゃ。
なのに、原発再稼働について、「じゃ、やめとこうか」とは絶対にならない、気持ちの悪い話し合い。

やっぱ、これは永ちゃんの言う通り、事故が起こっても誰もケツを拭かなくて済んだ、という現状がいけないのだ。



「もうすでに違ってる?」
※週刊朝日 2013年5月24日号

5月3日付の朝日新聞「プロメテウスの罠」を読んで、あたしはびっくらこいてしまったよ。

原発役人だった人々が、退職金1千万くらい多くもらって辞めて、その後、大手企業に天下りして顧問などに収まっているんだね。
マスコミが、更迭だと報じた人々の、その後だよ。 
更迭じゃなくて、栄転じゃん。
こんなことがまかり通っていいんだろうか。

歌手の矢沢永吉さんが、「原発関係者全員、誰もケツ拭かない国に、明日があると思いますか」といっていたが、ほんとだよ。
それが多くの国民の声だろう。

次の参議院選では、憲法改正が争点になるといわれているけど、自民党の改憲案だと、やたらと国の力が強くなる印象(他国に対してじゃない、自国民に対して)。
いいの? この流れで。

今でさえ、国の関係者の力は強いのに(失敗のケツ拭かないうえに栄転だもんな)、もっと強くしてどうするんだ。
やっぱ、今以上に強くしておかないと、ヤバいことがたくさんあるから? 
原発関係とかさ。

中部大の武田邦彦さんのブログに、「汚染水が増えるのはおかしい」というようなことが書かれていた。
冷却水は循環できているはずじゃない? 
未だに増えつづける汚染水に困っているのはどういうことなの? 
ほんとうのことが知りたい。

それから、ちょっと前の東京新聞に、「被ばく 生態系に異常 次世代への調査必要 サルの白血球数減少」という見出しの記事が載っていた。
原発事故の起こった福島の周辺では、蝶の奇形や、サルの白血球数減少といった異常が起きているそうだ。

記事には、「もちろん、それがそのまま人間に当てはまるわけではない」と書かれていた。
「しかし、生態系は人間の生活と不可分。調査から得られるデータを無視するわけにはいかない」とも。
当然だろう。

どうして、みんなは騒がないの? 
サルだよ、人間に近いサルの異常がわかったんだよ。
マスコミはもっとヒステリー気味になって、国をせっついていいはずだ。

まあ、「サルは野山に生えてるものを自由に食ってるからね」、そういう人もいる。
が、人間だって、ある程度しか防ぎようがないのが現状じゃん。

たしか日刊ゲンダイだった、福島在住のジャーナリストの「放射能汚染された山菜が、闇出荷されている」という告発が載っていたのは。

憲法改正するかしないか、そっちばかりがマスコミにフィーチャーされるのは、もうすでに国の意志が国民の意志を飛び越え、絶対だってことの証しかもしれない。
国というか、国を隠れ蓑にした一部の権力者たちの。

憲法って国民のものだと思っていたけど、そういう人たちに利用されるようじゃ、もうすでに違ってる?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする