わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸23(日展について)

2012-01-20 17:57:11 | 現代陶芸と工芸家達
日展(にってん)とは、日本美術展覧会の略称で、日本における 総合美術団体です。

我が国で工芸家の公募による、作品の発表の場は、数多くありますが、その中で、日本伝統工芸展と

日展は二大公募展と言われ、発表の場であると共に、登竜門の役割を果たしています。

伝統工芸展と日展では、作品の傾向がやや異なり、大方の工芸家達も、住み分けが行われている様です。

1) 歴史

 ① 日展の前身は、1907年(明治40)に開設された、文部省美術展覧会(文展)に遡ります。

   政府の美術振興策の一環として行われた、日本最初の官設展(官展)で、美術界に大きな影響を

   与えたました。(日本画、洋画、彫刻科の三科が併設されます。)

 ② 1919年(大正8)帝国美術院が創設され、帝展(帝国美術院美術展覧会)と発展し、更に、

   1935年(昭和10)、当時の松田文相による改組を経て、1937年新文展へと継承されて行きます。

   1927年に、第四科として、待望の「工芸美術科」が設けら、工芸家の応募が認められます。

 ③ 第二次世界大戦後の1946年(昭和21)からは日展(日本美術展覧会)と改称します。

   更に1949年、戦後の民主化政策進行の仲で、日本芸術院と日展運営会の共催による半官展となり、

   1958年には、純粋な民間団体「社団法人日展」を設立して、第1回日展を開催します。

   第4回日展からは「書」が参加して、文字通りの総合美術展と成ります。

   その後、新世代の進出を促す目的で、1969年に組織を改組します。

 ④ 日展は国立新美術館で開催

   日展東京会場は、99年間にわたり東京上野の東京都美術館で開催してきましたが、

   日展100年目を迎える節目の年である2007年からは、老朽化による改修工事と展示スペースを

   広くする為、東京、六本木に開館した「国立新美術館」に会場を移し、新たなスタートを

   切りました。東京会場展終了後は、全国主要都市で巡回展が開かれ、50万人を超す多くの

   入場者があります。

2)  現代日本を代表する作家達が活躍する場としての日展

   今日では、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書と幅広く、日本の美術界を代表する巨匠から、

   第一線で意欲的に活躍している中堅、新人を多数ようして、世界にも類のない一大総合美術展

   として、全国の多くの美術ファンを集めています。

   民間団体と成った後も、官展色は残りここで活躍する事は、芸術院会員や文化勲章受章者の候補と

   成る可能性を含んでいるとも、言われています。

3) 日展の特徴と制度

 ① 展覧会主催者側に選ばれた「審査員」によって審査 されます。

 ② 日展には、「一般公募者」、「会友」、「出品委嘱」、「会員」、「評議員」、「参与」と

   階級が存在します。この階段を登る事によって、権威付けが行われています。

   ) 一般公募者 : 入選すと展示されます。(入選率は17%程度と言われています。)

   ) 会友: 10回の入選、又は、特選が1回の者

     (特選は、一般公募者に授与される唯一の賞と言えます。)

   ) 出品委嘱: 会友が更に「特選」を得ることで、「出品委嘱」となり以降無鑑査と成ります。

      この委嘱者達の中から、新審査員が選出され、日展の「内部運営」に参加する事になります。

      尚、1916年(大正5年)の第10回展に至ってから、特選者が無審査対象になりました。

   ) 会員: 新審査員は「会員」となります。会員を対象とする賞は「会員賞」のみです。

   ) 評議員: 審査委員をもう2回(計3回)歴任すると、「評議員」への推挙対象に成ります。

      日展の最高賞に当たる「内閣総理大臣賞」や「文部科学大臣賞」の授与対象に成りのは、

      評議員の作品のみです。これらを受賞すると、数年以内に、「日本芸術院賞」受賞の

      可能性が高く、受賞の暁には「日本芸術院会員」に推挙されます。

   ) 参与: 日展には定年制があり、80歳で日展の運営から引退し、「参与」という

     “名誉称号”が与えられます。

   ) 顧問: 日展の運営トップとなる「常務理事」以上の役員が引退すると「顧問」になります。

  以上の様に、日展の制度を権威主義、階級主義と捕らえて、批判している人も少なくありません。


 以下次回に続きます。
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現代陶芸22(加藤唐九郎2)

2012-01-19 16:08:05 | 現代陶芸と工芸家達
陶磁器に付いての博識家であり、筆も立ち(著書や雑誌への投稿)、口も達者(各地での講演会、

話上手、話好き)で、且つ活動家(古窯跡の発掘、多くの陶磁器関係の組織の設立)、更には

陶磁器公募展の審査委員としての心眼、何よりも、作家としての実力(各公募展への出品と受賞、

多くの陶芸展への招待出品)など、瀬戸の一陶工から日本全国の著名な陶芸家として、唐九郎は

活躍の場を広げて行きます。順風満帆であった唐九郎に、1960年(昭和35年)60歳の時、「永仁の壷」

事件が起こり、全ての公的職務を辞任する事に成ってしまいます。

 ・ 注: 「永仁の壷」とは、1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、

   鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして、国の重要文化財に指定されます。

   加藤唐九郎が編纂し1954年に発刊した『陶器辞典』に「永仁の壺」の写真を掲載し、自ら解説を

   執筆し、この作品を鎌倉時代の作品であるとしています。しかし直ぐに、この作品は現代物では

   無いかと疑問の声が上がります。再度の鑑定の結果、1961年に重要文化財の指定を解除されます。

   その根拠に成ったのが、文化財保護委員会での、エックス線蛍光分析を行った結果、釉薬に

   含まれる元素の比率が、鎌倉時代の物とは異なると結論され、位相差顕微鏡による調査でも、

   表面には経年変化が認められなかった事が上げられました。

   更に、唐九郎自身が、自分が作った事を認め、現代作である事で決着が着きます。

  ◎ その結果、文部技官で文化財専門審議会委員の小山富士夫は、責任を取って辞任し、

    加藤唐九郎も人間国宝(重要無形文化財保持者)の認定を解除されてしまいます。

 ② 唐九郎の陶芸作品

  ) 事件以降、公の仕事から製作一筋の生活に成って行き、この事件以降、唐九郎の作品は

    出来が良くなったと言われています。
 
  ) 事件以前の作品群は、瀬戸の古陶復元に重きを置いていた様です。

    即ち、人間国宝の認定と成った、織部を中心に、織部黒、黄瀬戸、志野、鼠志野、絵唐津など

    広範囲の焼き物に挑戦し、一箇所に留まる事は無かったと言われています。

    作品は、茶陶を中心に、茶碗、水指、懐石用の向付、輪花鉢、どら鉢、茶入などが多いです。

  ) 事件以降でも、製作意欲は失われず、製作を続けます。

    1964年の東京オリンピック記念「唐九郎展」では、黄瀬戸の「どら鉢」が現代作家では

    前代未聞の、百万円を超える値段で取引され、世間の注目を集めます。

    尚、黄瀬戸釉には、備長炭(ウメ樫の炭)の灰が最良との事です。

  ) 唐九郎と「紫匂」

    1979年、彼の代表作とも言える、志野茶碗「紫匂」(むらさきにおい=立原正秋命銘)を

    製作します。 この作品は、釉を通して胎土がほのかな紫色に発色しています。

    胎土に鉄、マンガン等の諸々の金属が、自然に含有しているのではないかと、推測されて

    います。当然それらは秘密事項です。

  ) その後も各地で展示会を催しています。

    1980年には「作陶七十年展示」を富士美術館で、1982年には、「唐九郎の世界展示」を東京

    伊勢丹デパートや名古屋の丸栄で開催しています。

 ③ 唐九郎は幼少期から、反骨、反逆精神が盛んであった様です。

  ) 当時の瀬戸では、古くから作る業種が厳格に守られており、陶器を焼くのは、加藤姓、

   磁器染付は川本姓、水甕(かめ)や擂鉢は本業屋と親子代々決っていた様です。

   飯茶碗焼き、皿焼き、丼焼きなども専門があり、親子代々変わること無く引き継がれる制度です。

  ) この様な状態の中で、唐九郎は業種(ジャンル)を超えて挑戦しています。

   即ち、陶器、磁器の垣根を越え、本業焼、瓦、茶陶など次々に挑んでいます。

  ) 自分の窯も何度も作り替えています。例え前回、旨く焼けた窯であっても、あえて壊して

     造り替えています。(一般には、旨く焼成出来た窯は、余りいじらないものです。)

  ) 「炎の人」「炎の野人」「八方破れ」「奇想天外な人」などのイメージが付き纏う、人で

     有った様です。それ故、自由奔放に自分の人生を、大いに堪能したのではないでしょうか。

以下次回に続きます。
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現代陶芸21(加藤唐九郎1)

2012-01-18 22:56:40 | 現代陶芸と工芸家達
今まで取り上げた多くの工芸家達は、板谷波山や川喜田半泥子、石黒宗麿などを除き、殆どの方が、

焼き物の窯元や、陶器に関係する家に生まれています。これは当然の事で、焼き物の家に生まれなくて

工芸家に成るのは、余程の(生家が)資産家で無ければ、焼き物に手を染める事が不可能でした。

加藤唐九郎も、父親が焼き物と関係するをしています。

(祖母は瀬戸焼きの名家、加藤家の窯屋の総本家です。)

陶芸の世界では、その地(窯場)の伝統技術の継承と、場合によっては、その最盛期の優れた作品の

復元が、作家にとっての目標に成る事が多いです。ある期間この時期が必要なもので、これを乗り

越える事(土台にして)により、新たな発展に向かう工芸家もいます。唐九郎もこの様な経過を辿り

ます。

1) 加藤唐九郎(かとうとうくろう): 1898(明治31)年~19838(昭和60)年

 ① 経歴

  ) 愛知県東春日井郡水野村(現、瀬戸市水野村)に、半農半陶の窯屋の加納桑治郎の

     長男として生まれます。幼名は庄九郎といいます。

  ) 1906年、台風によって父の陶器工場が大破しますが、2年後工場を再建し、製陶一本の家業に

     成ります。この頃から、祖母「たき」の庇護の下、名人職人に成るべく育てられます。

  ) 1914年、16歳の時、父の丸窯の権利を譲り受け、本格的に製陶業を始めます。

     名前も庄九郎から唐九郎に改名します。その後、経営の失敗し、会社役員にも成りますが、

     これもうまく行きませんでした。 1918年結婚を期に、瀬戸系の古窯の研究調査を始めます。

     又、加藤姓になります。その後も製陶業を営みますが、1927年の金融恐慌で、経営者としての

     製陶業をあきらめ、陶芸の個人作家を目指します。

  ) 1929年、それまで瀬戸の窯跡調査や収集品を、整理陳列する目的で、官民一体の「瀬戸古窯

     保存会」が結成され、常任理事になります。大日本窯業新聞に「瀬戸古窯誌」を連載します。

     又、仕事場(窯)を瀬戸市窯神町より、瀬戸市祖母懐へ移します。

  ) 1930年、益田鈍翁の銘になる志野茶碗「氷柱」を作ります。又、美術愛知社展に入選します。

    この年、柳宗悦、濱田庄司、河井寛治郎等が、来訪しています。

  ) 1931年、第十二回帝展で「黄瀬戸魚紋花瓶」が初入選します。又、日蓮六百五十年記念祭に

     三島の鉢六百五十個を、大石寺に奉納しています。

  ) 1932年、法隆寺に茶碗を納入しています。更にこの年は、瀬戸古窯の調査、京都裏千家などの

     講演会や座談会、雑誌への投稿等で活躍します。特に唐九郎が手掛けた「瀬戸物祭り」は

     今に続く催し物に成っています。

  ) 1933年以降も唐九郎の活躍が目立ちます。即ち著作には「黄瀬戸」(宝雲舎)、「陶器大辞典」

  全六巻(宝雲舎)、「新撰陶器辞典」(日本工業図書出版)、創元社の全集「茶道」の十五巻「茶器編」

  などの他、雑誌「新工藝」、「茶わん」、「やきもの趣味」、「和比」などへの投稿、各地への

  講演会などをこなし、更に本業の焼き物作りに励みます。

  1950年戦後初の個展「唐九郎作瀬戸黒茶わん展」を、東京銀座の黒田陶苑で開催します。

  1952年「第一回現代日本陶芸展」(朝日新聞社主催)に出品。以後続けて出品します。

  1954年「第一回日本伝統工芸展示」に出品。その後も出品を続けます。

  この間、日本陶磁器協会理事、日本工芸会理事、日本伝統工芸展審査委員、朝日陶芸展審査委員

  など、公務の要職に就いています。この状態は、1960年に起きた「永仁の壷」事件で一変します。

以下次回に続きます。

 参考資料「追悼 加藤唐九郎展」(昭和62年)
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現代陶芸20(三輪休和)

2012-01-17 22:50:19 | 現代陶芸と工芸家達
三輪家は、大和の三輪村の出身で、寛文3年(1663年)頃、毛利藩の焼き物師として、召抱えられた、

三輪忠兵衛(初代休雪)が、萩城下の椿郷に御用窯を開き、主に茶道具(茶陶)を製作したのが、

起源と言われています。

萩焼は、秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元が連れ帰った、李勺光、李敬一兄弟は、毛利家が国替えで

広島から萩に移る際、椿郷で窯を築いた事が始まりで、この流れを汲む家柄が、坂高麗左衛門です。

それ故、萩焼には宗家筋の坂家と、三輪家が並存しています。

萩焼は特別、強い特徴のイメージが持ち難い焼き物です。土を始め釉や意匠など様々あるのですが、

萩焼を代表する特色が、はっきりしない為と思われます。又日用雑器の陶器を作っていない為かも

知れません。

1) 三輪休和(十代三輪休和) : 1895(明治28)年 ~ 1981(昭和56)年

 ① 経歴

  ) 山口県阿武郡椿郷東分村無田原で、旧萩藩御用窯、三輪家九代雪堂の次男として生まれます。

    後を継ぐべき長男は、焼き物に見切りをつけて、大陸中国へ出かけていったそうです。

    この窯場も、萩藩が無くなってから、その後ろ盾を無くし、衰退の一途を辿っていました。

  ) 1910年には家業に従事し、翌年には茶道の稽古を始めます。

     1912年に、父の隠居により、十代休雪を継承します。以降、藁灰による白釉の研究に励みます。

     1934年には、陶磁器研究の為、朝鮮半島を訪ねています。

  ) 同年、商工省主催の輸出用工芸展に出品し、東京、大阪、パリ万博に展示されます。

  ) 休雪の最初の個展は、1944年、大阪美術倶楽部で開催しています。

     以降、朝日新聞主催の「現代日本陶芸展」に招待出品しています。

     1956年には山口県指定の無形文化財(萩焼)に認定されます。

  ) 1967年に隠居し、休和と号し、弟に十一代休雪を襲名させます。

     1970(昭和45)年に、萩焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

 ②  萩の土と茶陶

  ) 御本手の茶碗: 御本手とは、陶器の表面に淡い紅梅の様な赤味が、ぽつぽつ点在している

    ものです。肌理の細かい土を使うと、出易いと言われています。

    (この様な焼き物を、姫萩といいます。)

   ・ 本来は、安土桃山~江戸初期に我が国より、朝鮮に見本を送り焼かせた物を言います。

  ) 一般に萩の土は、大道土(だいどうつち)を使います。大道土は山口県周防市大道で採取され、

    砂礫混じりの可塑性に富んだ青白色の粘土です。休雪はこの土に見島土(萩沖の見島で

    採取した、鉄分が多く、粘りの少ない土です)を多く混入し、更には粗目の砂も加えています。

    萩焼の中で素地に荒砂を多量に入れ、荒々しく豪放な趣のあるものを「鬼萩」と呼んでいます。

  ) この土を朝鮮式の蹴轆轤を使い厚手に挽きます。削り作業の際、器の表面が「カンナ」によって

    「ささくれ立つ」のが普通です。これに藁灰釉や長石釉を掛けて、焼成すると、釉が縮れた

    「カイラギ」状態になり、土の中から気泡が発生して、釉面に貫入(ひび)やピンホールが出来ます。

  ) 茶器や食器として使用していると、茶渋や汁垢が浸み込み、茶人が喜ぶ「雨漏り」や

     「萩の七化」と言われる現象になって現れます。

  ) 尚、大道土は1600℃以上で完全に焼き締まる土との事で、1300℃程度では半焼きの甘い

     焼き物(強度的に弱い)となってしまいます。その為、食器には不似合の為、萩では日用品

     としての焼き物が発展しなかったと言われています。又、この半焼け状態では、釉と土の

     縮率の違いが大きく、貫入や「カイラギ」が出来る理由でも有ります。

④ 休和(休雪)の作品

  ① 作品の種類としては、萩井戸茶碗、刷毛目茶碗、萩水指、萩掛花入、香合、茶入など殆どが、

    茶道具です。割り高台の茶碗も多く作っているのも特徴の一つです。

  ② 釉は白釉を改良し、「休雪白」と呼ばれるより白濁釉の美しい、白萩釉を生み出しています。

以下次回に続きます。
    
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現代陶芸19(中里無庵)

2012-01-16 22:10:56 | 現代陶芸と工芸家達
中里無庵(十二代中里太郎衛門)といえば、唐津焼きの名家の生まれで、古唐津の研究から、唐津焼の

復興に尽力した陶芸家です。

唐津焼きは、昔から、東の瀬戸もの、西の唐津ものと言われる、陶器の産地です。

しかし、明治から大正時代には、他の窯場と同様に、ごたぶんにもれず、作品は売れず、活気が無くなって

いました。古唐津の再現で、再び脚光を浴びる様にした人物が、十二代中里太郎衛門です。

 ・ 1955(昭和30)年、唐津焼で無形文化財(人間国宝)に選定されています。

   特に叩き壷の製作で著名です。

1) 中里無庵(なかざとむあん): 1895(明治28)年~1985(昭和60)年

 ① 経歴

  ) 1895年、十一代中里天祐の次男として誕生します。(名前は重雄、無庵は得度後の号です)

   天祐は、唐津藩窯の最後の御用陶工でした。細工物の置物の、達磨造りが得意で有った様です。

   当時の献上唐津と呼ばれた、青地白象嵌、白地黒象嵌の雲鶴文の作品が作られていた様です 

   しかし、焼き物では「飯が食えない」状態であったと言われています。

 ) 1912年、佐賀県立有田工業学校の製陶科に入学します。

   卒業後も、家の貧窮を救う為、轆轤修行を続けます。

 ) 1927年、生家の家業を継ぎ、十二代中里太郎衛門を襲名します。

   翌年には、倒焔式石炭窯を築き、更に翌年に初窯を焚きます。

   この頃から、委託を受けて、長崎、佐賀の桃山時代と江戸初期の古窯を発掘し、古唐津の美を

   発見します。

 ) 1930年頃、小田志山、弓野山、椎の峯など唐津の古窯跡を発掘し、出土した唐三彩の魅力に

    執りつかれ、その再現に日夜努力を重ねます。

 ) 1931年、商工省主催の第十八回、工芸美術展に、「刷毛目菓子鉢」を出品し入選します。

   当時、九州地区でなく、中央展に入選する事は稀で、一躍注目を集める様になります。

 ) 発掘調査や土探しは、その後も続けていますが、1946年頃までに古唐津の再現は、「斑唐津」

    などほんの一部のみで、釉の生掛け方法や、絵唐津の絵の具や描き方も、未解明な状態でした。

   その為、瀬戸の加藤土岐萌(かとうはじめ)氏に、陶芸技術の指導を受けます。

 ) 1955(昭和30)年、唐津焼きで、無形文化財保持者に成ります。

   1969年には、京都紫野大徳寺本山で、得度し無庵の号を受け、同日長男忠雄に、十三代太郎衛門を

   継がせます。

 ② 無庵と叩き技法

   叩きの無庵として、活躍するのは、昭和40年代からです。

  ) 昭和初期の古窯発掘の際、叩きの技法がある事は、知っていました。

    しかし、口伝や古文書などは無く、窯跡からの発掘品のみが、「ヒント」に成っていました。

  ) 昭和30年代まで、叩きの甕(かめ)造りの技法が伝承されていましたので、この技法を参考に

    叩きの技法の再現に努力します。しかし、甕造りと古唐津の叩きの技法は大きく違っていた

    事に気付きます。

  ) 叩きは紐造りで行いますが、その紐の太さの差や、積み上げ方法の差、轆轤の回転方向、

    それに伴う、用具(道具)の違いなどが上げられます。

   a) 紐の太さ、甕つくりでは太く径が10cm程度で、古唐津では径が細く2cm程度です。

   b) 甕造りでは、巻き上げ方法で、古唐津では、一段づつ積み上げる、輪積みの方法が取られ

    ています。輪積みの方が丁寧な造り方です。

  ) 古唐津では、積み上げた紐を、右回転(時計方向)で水挽きした後、叩きでは左回転

    (反時計方向)で、叩きの作業を行っていました。即ち、轆轤挽きと叩く人は別人であった事が

     判明します。但し無庵は両方とも、右回転で一人で作業しています。

 ③ 叩き壷の造り方。

   叩きの利点は、叩く事により、土を締め割れにくくする事と、肉厚を薄くし、更に叩き板の文様が

   器に残り、一種の連続模様に成る事です。

  ) 底の部分を造る
 
    轆轤(無庵のは木製盤)上に灰を振りかけ、底に成る土を置き、掌で叩き薄く伸ばす。

    更に、底打用の板で叩いて薄くし、必要な底の径に切り取る。

  ) より土を造り、輪積みの方法で数段(5~6段)積み上げ、両手に水に濡らした布を持ち、

    水挽きし、表面の凸凹を無くし、綺麗な形にした後、ドライヤーを使いやや乾燥させます。

  ) 更に、より土を積み重ね、水挽き後、やや乾燥させてから、叩き板と当て木を使い下から上に、

    内外から叩き締めます。その際、少しずつ全体の形を作ってゆきます。この作業を繰り返し

    口縁近くまで、形を造ります。

  ) 口造りは、肉を薄く轆轤挽きし、内又は外側に捻(ひねり)返します。

  ) 最後に、高台脇を竹へらで、切り取ります。

  ) 重要なのは、乾燥具合です。ほど良い乾燥具合出なければ、土も十分締まらず、文様もでません。

     右手に当て木を持ち、内側を支え、左手で叩き板を持って、外側から叩きます。

     かなりの力を必要とするそうで、晩年体力の落ちた無庵の作品は、肉厚に成り重さも重く

     成ったと言われています。

    尚、叩きは壷が中心ですが、水指も同様の方法で造っています。

以下次回に続きます。
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現代陶芸18(金重陶陽2)

2012-01-15 21:26:08 | 現代陶芸と工芸家達
日用品の雑器を主に造っていた備前焼が、桃山時代にその美を見出され、取り上げられたのは、

無釉の土の持ち味を活かした、焼き締め陶器が、侘び茶の茶器にマッチした為です。

明治~昭和初期の時代は、その時代に、備前焼が即応出来なかった為に、衰退した状態でした。

3) 金重陶陽の陶芸

 ① 細工物からの脱却。陶陽が轆轤を始めたのは37歳(1932年)頃からと言われています。

   それまでは、細工物しか造らなかった為、手捻りや型物が主でした。

   轆轤の挽き方も工夫しています。一般に成型には「こて」を使う事が多いのですが、陶陽は

   両手に、水で濡らした木綿の布を持ち、器の内外から土を引き上げる、「カコ挽き」と言う方法を

   取っています。「こて」を使うと、作品に硬さが出るのを嫌っていた様です。

   尚、轆轤に取り組む切っ掛けは、大擂鉢(すりばち)の注文を受けたからとも言われています。

 ② 土の吟味。備前焼は焼き締め陶器で、例外を除いて施釉しません。土は鉄分の多い、腰の強い

   「ねっとり」した質感が有ります。それ故、備前焼は土と焼きが最重要に成ります。

  ) 自分の土を探す事から始まります。同じ備前の土と言っても、場所場所によって微妙に変化

     します、しかも量も十分とはいきません。

  ) 掘り出した土は、乾燥もさせず篩(ふるい)通しも水簸(すいひ)もせず、足(踵)で踏んで

     練り上げます。十分時間をかけて練る必要があります。

  ) 練り上げた土は、5mm程度の厚さにスライス(薄切り)し、中に含まれる砂粒や小石を、

     指で取り除きます。この作業を何度も繰り返します。

  ) 土は十分寝かせてから使う。寝かせる期間が長ければ長いほど、造り易くなり、切れや割れ

     などの傷が少なくなります。(最低でも2年間は寝かせていた様です。)

 ③ 焼成技術の改良。

  桃山時代では共同の大窯と言い、長さが30~40mもある窯を一ヶ月以上掛けて焼成していました。

  しかし、陶陽の時代には、個人の登り窯が中心になっていました。

  ) 備前で使われている、登り窯も陶陽の工夫が随所に見られます。

     例えば、燃料の節約の為、焚き口に蓋を設けたのも、陶陽の考案で、燃料が格段に節約できた

     そうです。又、陶陽の窯には「秘密の部屋」があるのではないかと、話題になるほど失敗作は

     少なかったと言われていました。

    ・ 現在の備前の登り窯は、陶陽の考案した窯が、モデルとなっていると言われています。

  ) 窯詰めにも工夫を凝らしています。偶然に頼るのではなく、科学的な方法を模索します。

    a) 「サンギリ」の工夫: 窯の一部のみでしか取れなかった「サンギリ」を、多く取る為に

      焼成後に、木炭を投入する事で、還元を強くし、人工的に造る事に成功します。

     ・ 注: 「サンギリ」とは、窯の中で、「おき=薪のもえかす」が被り、独特の焦げ肌が

       還元焼成で、暗灰色に成ったものです。桃山時代以来、大変珍重されています。

    b) 重ね焼きによる新たな模様の創作

      窯焚きを担当していた、弟の素山が軍隊に招集され、陶陽が窯を焚く必要に迫られます。

      その為、一窯で二窯分を焼成する為、窯の改良と、重ね焼きをする事で、対処しました。

      (無釉の備前焼では、割合容易な事です。)その結果「牡丹餅」と呼ばれる作品が

      出来上がります。 尚、桃山期の備前焼には、この重ね焼きと見られる作品も見受けられる

      そうです。

     ・ 注: 「牡丹餅」とは、大型の器物の上に、小型の物を載せて焼成すると、重なり部分に

      火が直接当たらず、器形が赤く模様として残るものです。

 ④ 陶陽の作品

   茶道具の茶碗や茶入、徳利、ぐい呑み、鉢なども製作していますが、一番優れた作品は、花生と

   水指だと思われます。

  ) 花生は削りの鋭さ、箆目(へらめ)の決め方、きりりと締めた口造りにあり、緊張感があります。

  ) 水指は豪快で、耳の付け方、蓋の摘みなど、バランスの取れた形で、品格に溢れ(あふれ)

    茶室の空間に、存在感を占めるものと成っています。

  ) イサム・ノグチ(建築家)が1952年に陶陽の元を訪れてから、茶花用でない、まったく別の

    花器を作る様になります。備前焼を現代陶芸として活かそうと言う気概を感じます。

 ⑤ 交友関係

   交友関係が広がる切っ掛けは、三重県の素封家、川喜田半泥子の知遇を得た事が大きかった

   様です。1938(昭和13)年、東京銀座の資生堂で、個展を開いた際、半泥子が現れます。

   半泥子の紹介で、荒川豊蔵、萩の三輪休雪を紹介されます。その後、石黒宗麿、加藤唐九郎、

   宇野三吾らと、交友関係が広がって行きます。

以下次回に続きます。
  
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現代陶芸17(金重陶陽1)

2012-01-14 21:51:18 | 現代陶芸と工芸家達
第二回重要無形文化財(人間国宝)に指定された工芸家に、備前焼の金重陶陽がいます。

備前焼と言えば、現在では、陶芸をしている人にとっては、憧れの焼き物であり、焼き物愛好家の

一般の人にとっても、人気の高い焼き物といえます。

しかし、明治~昭和初期頃に、備前焼きは最も苦難の時代を迎えていました。

その備前焼を、現在の隆盛に導いたのが、金重陶陽で「備前焼中興の祖」とも言われています。

1) 備前焼の時代風景

 ① 窯元六姓と呼ばれ、室町末期に共同大窯を取り仕切る「座」があり、備前の陶工はこのいずれかの

   「座」に属せねば仕事が出来ませんでした。昭和の始め頃まで存続していた様です。

 ② 備前焼の黄金期は、桃山時代と言われています。

   侘び茶の流行とともに、花入、水指、鉢、徳利など焼き締めの茶陶の生産が、活況を呈します。

 ③ 幕末から明治にかけて、多くの工芸が技巧に走る様に成ると、備前焼もいわゆる細工物(さいくもの)

   を造る様になり、布袋様、鳥獣の像などの置物が多くなり、いかに精緻に造るかに専念します。

   その為、一時的には人気を博しますが、所詮細工物という事で、飽きられてしまいます。

   尚この細工師を「デコ師」と呼んでいました。

 ④ 大正10年代に、煎茶が流行し始め、煎茶用の宝瓶(ほうびん=取っ手の無い急須)、香炉、花台

   などが造られます。その為、一時備前焼は日の目を見ますが、それも一時のブームで終わって

   しまいます、 尚、宝瓶は陶陽の発明した物と言われています。

2) 金重陶陽(かなしげとうよう): 1896(明治29年)~1967(昭和42年)

 ① 経歴

  ) 岡山県和気郡伊部で、細工師の父金重楳陽(ばいよう)の長男として生まれます。

     尚、金重素山は、陶陽の実弟です。

  ) 陶陽も父の手ほどきで、細工師の道に進みます。15~6歳頃から、一人で窯焚きをし、
     
     作品も、売り歩いていた様です。得意な作品は、動物や花鳥の置物などでした。

  ) 1916(大正5年)、耐火製の棚板を造り使用します。

     従来作品は「匣(さや)鉢」内に収め、匣鉢を積み重ねて、焼成していました。

     これでは、匣鉢の一番上の作品しか、灰が掛かりません。

     棚板を使う事により、多くの作品に灰が掛り、窯変の見事な作品が多く、生まれました。

     尚、現在では、備前焼と言えば、灰を被った作品をイメージしますが、当時はむしろ灰が

     被らない様にしていた様です。

  ) 1922年、名古屋の松坂屋で、十五代永楽善五郎と、最初の作陶展を開きます。

     1926年、大正天皇に「飛獅子」の置物を献上しています。

     1928年、昭和天皇に閑谷(しずたに)焼きの「鬼瓦に鳩」の置物を献上します。

  ) 桃山陶の復興を志すのは、昭和3年(1928)頃からで、結婚と子供の誕生が契機に成った様です。

     備前焼の本当の美しさは、桃山時代に有ると気付き、「桃山に帰れ」と唱える様に成ります。

    a) 千家官休庵(武者小路千家)の宗匠について、本格的な茶道を習い始めます。

      茶を知る事で、茶碗や水指などの大きと、備前焼の欠点を知る様に成ります。

    b) 当時、「新備前」と呼ばれた備前焼は、茶道具として使われる事は、殆ど有りませんでした。

      岡山の茶人にその理由を聞きだし、教えを乞います。

     ・ 茶碗の底が「ザラザラ」している為、茶筅(ちゃせん)の痛みが激しい事、茶巾の

       滑りが悪い事などが上げられました。

    c) 陶陽は対策を採ります。土の吟味から取り掛かります。備前の土は「ヒヨセ」と呼ばれる、

      田圃の上部を取り除いたその下の土を使います。桃山時代の土と現在の土の違いを見出し、

      桃山期間の土を求め歩きます。又、口縁には滑りを良くする為、「ゴマ=灰」を掛ける。

      見込み(内側の底)には、景色と同時に良く焼きつるつるにします。高台付近には、

      緋襷(ひだすき)で、趣を添えるなど、茶人の不評を取り除く様に、努力を重ねます。

3) 陶陽の陶芸

以下次回に続きます。
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現代陶芸16(石黒宗麿)

2012-01-13 21:53:50 | 現代陶芸と工芸家達
第一回人間国宝に推挙された中に、鉄絵陶器の石黒宗麿(いしぐろそうま)がいます。

特に釉の研究で、大きな功績を残しています。

1) 石黒宗麿: 1893年(明治26年)~1968年(昭和43年)

 ① 経歴

  ) 富山県射水郡作道村で、医者の子として誕生します。

  ) 作陶を手掛けたのは、兵役から除隊後の20~23歳頃と言われています。

    父の楽焼窯で、楽焼を覚え轆轤の修行もした様です。

  ) 1918年(大正7年)東京の美術倶楽部で、稲葉家売立入札会で、曜変天目(稲葉天目現、国宝)を

    見た事が切っ掛けに、陶芸に打ち込む様に成ります。翌年には渋谷区松濤に窯を築きます。

    (余談ですが、生涯曜変天目の再興に挑戦しますが、成功する事はありませんでした。)

    彼の生涯は、この曜変天目を再現する為に、色々な釉の調合の研究(東洋陶磁器の釉の研究)は、

    数々の釉の復興と、変化に富んだ鉄釉や、鉄釉鉄彩の開発と成っていったとも言えます。

  ) その後、埼玉県小川町、金沢市郊外、京都の蛇ケ谷などに、転居を繰り返します。
 
  ) 1928年唐三彩試作に成功。1930年小山富士夫との二人展を、大阪大丸で開催します。

     1937年、パリ万国博覧会に出品し、銀賞を受賞します。

     1940年、「木の葉天目」に成功します。同年清水卯一(後日取り上げます)が入門します。

     その後も、多くの展示会に出品し、数々の賞を受賞しています。

  ) 1947年、日本陶磁振興会を組織します。

     1952年、無形文化財記録保持者(鉄絵陶器)に選定されます。

 ② 石黒宗麿の陶芸

  )東洋陶磁器の釉の研究は特に広範囲に及び、「木の葉天目」「柿天目」「鷓鴣斑(しゃこはん)」

   など中国陶技を習得します。各種の変化に富んだ鉄釉や鉄釉鉄彩のほとんどは、1941年頃には、

   ほとんど再現が終わっていた様です。

  ・ 注:木の葉天目に使う葉は、椋(むく)の葉で、灰に成って形が崩れない様にするのがコツです。

  ・ 注:鷓鴣斑とは鶉(うずら)より大きく雉(きじ)より小さい、キジ科の鳥で中国南方や

    タイなど生息しいる鳥です。

  ) 鉄釉の他、釣窯(きんよう)、唐三彩、白地鉄絵、龍泉寺の砧青磁など、唐や宋の中国磁器が

    原点に成っていた様です。

  ) 我が国の焼き物では、唐津焼に優れた作品を残します。斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津、

    瀬戸唐津などです。

  ) 作品は壷、平鉢、抹茶茶碗、汲み出し茶碗など意外とシンプルの形の作品が多いです。

     明治以降の「染付け」や「赤絵」磁器は手掛けていません。

   ・ 又、展示会用に大きな作品を作るのが、一般的の中、大作はほとんど見られません。

     その為、目立ち難く、一般には余り高い評価が、与えられていませんでした。

 ③ 交友関係

  ) 1927年、 京都の蛇ケ谷に転居した後、小山富士夫と知り合います。

  ) 1946年、 小山富士夫と荒川豊三らと、日本農村工業振興会を設立します。

  ) 1954年、 小山、荒川、金重陶陽、加藤土岐萌、加藤唐九郎と伊豆山桃李郷で、桃里会を結成

    します。

  ) 1961年には、柏会を結成します。(富士夫、豊蔵、陶陽、土岐萌、宇野三吾)

  ) 1966年、人間国宝五人展(豊蔵、陶陽、土岐萌、濱田庄司、宗麿)を開催します。

以下次回に続きます。
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現代陶芸15(荒川豊蔵2)

2012-01-12 22:05:14 | 現代陶芸と工芸家達
昭和5年、名古屋の旧家で、桃山時代の「筍絵志野筒茶碗」を見せて貰った事から、美濃大萱(おおがや)

の山中で同じ手の陶片を見つけ、この地で焼成された事を確信します。牟田洞(むたぼら)に窯を築き、

三百余年途絶えていた、初期桃山志野の再現を果たします。

2) 荒川豊蔵の陶芸

 ⑤ 志野の釉について

  ) 釉は長石の単味を使用との事ですが、長石は鬼御影と呼ばれる、花崗岩が風化したもので、

   これを砕いて釉にします。長石にも種類が多く、正(カリ)長石、曹長石、灰長石など

   があり、更に産地や崩壊(風化)度によっても、性質が左右されます。

   尚、1250℃程度で熔ける物は、正長石ですので、志野釉には正長石が使われていると思われます。

  )但し、長石を細かく砕く祭も、唐臼で数日かけて挽き、形と大きさが不揃いの方が適します。

    長短、大小、丸、角張るなど、ばらついている事が肝要なのだそうです。こうする事により、

    高温で熔けた際、縮緬(ちりめん)の様な釉肌で、光を乱反射し、艶のある焼き物に成ります。

   粒が揃い過ぎると、平凡な釉肌になってしまいます。

  ) さくさくした「もぐさ土」に、長石釉を厚く掛けると1250℃前後で熔解します。

   この釉は珪酸を多く含む為、粘りが強く土の表面から出る細かい気泡を閉じ込めます。

   気泡を含んだ釉は半透明の白に成ります、その為、下絵で描いた鉄絵も透けて見えます。

 ⑥ 紅志野、鼠志野、練込志野について

  ) 紅志野: 一般に志野焼きは真っ白いのが特徴です。紅志野は、鉄分の少ない泥土で化粧し、

     その上に文様を彫って素地を現し、長石釉を厚掛け焼成すると、赤く発色します。

     尚、彫り文様の無い作品も多いです。

  ) 鼠志野: 紅志野と同じ方法で、鉄分の多い泥土を使うと、鉄分の多い所は鼠色に発色します。

  ) 練込志野:鉄分の多い土と、少ない土を練り込んで素地を作ります。地色の差がそのまま

     模様として現れます。

 ⑦ 豊蔵の作品

  ) 豊蔵の志野と言えば、紅、鼠志野もありますが、やはり白い志野釉の下から、透かして見える

    火色や小麦肌のものが一番で、釉全体に「ひび割れ」があり、釉に湿り気と艶があって、

    焼け縮れている物です。縮れ具合も、細かいものから、荒いもの部分的なものなど、窯出しを

    して初めて解かると言われています。(縮れ具合は、ある程度窯次第と成ります。)

  ) 器形は茶碗が圧倒的 に多く、底の丸い形のものと、垂直の胴体で底が角張る形が多いです。

    他に水指や香合などがあります。

  ) 人間国宝の対象と成った、瀬戸黒は、志野焼きと同時に焼成しますが、窯詰めの際、

     志野の作品の前に置きます。即ち、窯の中では、志野釉より低い温度で熔ける為と、

     引き出し黒(色見穴から、鉄はさみではさみ出し、急冷する事により、鮮明な黒を発色する

     方法)で発色させる為です。筒型茶碗以外にも、茶入や花生なども作っています。

  ) 「水月窯」での作品

     大萱以外でも作品を作っています。岐阜県多治見にある登り窯は、一家の生活を支える為に、

     日用品の陶器を作っています。赤絵、染付け等の、絵付けを主体とした作品で、織部の様な

    歪んだ形や、極端に色彩のコントラストが強い作品は、作っていません。

荒川豊蔵は、その人柄から多くの人と良き縁を結び、運にも恵まれ、生涯優れた作品を造り続けました。

以下次回に続きます。
  
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現代陶芸14(荒川豊蔵1)

2012-01-11 22:46:16 | 現代陶芸と工芸家達
荒川豊蔵と言えば、後日述べる予定の、加藤唐九郎とともに、桃山陶器の再興の祖と言われています。

又昭和30年の第一回重要無形財(人間国宝)に指定された、四人の内の一人です。

1) 荒川豊蔵(あらかわとよぞう): 1894(明治27年)~1985年(昭和60年)

 ① 経歴

 ) 岐阜県土岐郡多治見町で、父梅次郎の長男として生まれます。

    豊蔵の母方は、多治見市高田で製陶業を営み、陶祖、加藤与左衛門景一の直系です。

 ) 1906年、神戸の貿易商の店員に成る。

 ) 19122年、京都東伏見にある初代宮永東山の陶磁器工場の工場長に成ります。

    京都では旧大名家や、名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得ます。

    (それまでの、陶芸暦は定かではありません。作品を造る事より、マネジャーやプロデゥース
     
     的な仕事であった様です。)

 )  1913年、 岐阜県可児郡久々利村大平で、古窯跡を発掘します。

 ) 1927年(昭和2年)宮永東山窯を辞して、北大路廬山人の窯場の鎌倉「星カ岡窯」に移ります。

    1925年、 星岡茶寮で使う食器を研究する為に、東山窯に訪れた北大路魯山人と出会います。

    魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深めます。その縁で鎌倉に出向く事に成ります。

    魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かします。

 ② 古志野との出会い

  ) 1930年魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月、魯山人と豊蔵は古美術商

   の横山五郎から、名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と、志野筍絵茶碗を見せて貰います。茶碗の

   高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持ちます。

  ) 2日後の4月11日、多治見に出かけ、以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査した

    ところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれた事を確信

    します。同時にその他の古窯跡も調査しています。

  ) 1933年、星岡窯を辞して多治見の大萱古窯跡近くに穴窯を築きますが、初窯で三晩四日かけて

    焚き続けたが温度が上がらず、失敗に終わります。

    翌年には、最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに、志野、

   瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作し続けます。

 ) 1935年 ようやく満足する物ができ、志野の「ぐい呑み」と「瀬戸黒の茶碗」を持って鎌倉の

    魯山人を訪ねます。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促がしますが、豊蔵はこれを

    辞退し、以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する様になります。

 ③ 人間国宝、 文化勲章受章

   1941年、大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催します。

  1946年(52歳) 多治見市の虎渓山永保寺所有の山を借り受け「水月窯」を作ります。

   「水月窯」は連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活の為の日用食器の量産を行っています。

  1955年(61歳) 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されまする。

  同年、日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催し、大成功を収めます。

  1971年(昭和46年)(77歳) 文化勲章受章。

  1984年(昭和59年)(90歳) 大萱窯の地に荒川豊蔵資料館を開館します。

  1985年8月11日(昭和60年)(91歳)  死去。

2) 荒川豊蔵の陶芸

 ① 桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に

   桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねます。

   遂には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。

 ② 志野の土は、「もぐさ土」と呼ばれる粘り気の少ない、やや黄味がある「ぼろぼろ」した土を、

   単味で使います。

   一般には水簸(すいひ)してから使用しますが、荒川豊蔵は、水簸をしませんでした。

   理由は、土の個性が失われるのを、防ぐ為と言われています。

  (水簸しないと、「ひび」が入り易くなり、土が均一に成らないと言われています。)

  更に、山から掘り出した土を、現代の様に、電気の動力を使わず、水車を使い唐臼で搗(つ)いて

  いました。即ち桃山時代と同じ工程で、土造りを行っています。

 ③ 轆轤も手廻しの木の円板で、人間の手と足のバランスで、自由自在に作品を作っています。

   電動轆轤の様に、均一なスピードは逆に作品造りには無用な物で有った様です。

 ④ 半地上式の窖(あな)窯は、豊蔵自ら設計、築窯したもので、長さ4m余り、幅は太い所で2m程度
  
   であったそうです。(荒川の自叙伝で記されています。)

   窯詰めの方法にも苦労した様です。これを三昼夜、又は四昼夜を赤松の薪で焚き、1250℃まで

   温度を上げています。

 ⑤ 志野の釉について

以下次回に続きます。
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