わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸13(日本伝統工芸展、人間国宝)

2012-01-10 21:36:35 | 現代陶芸と工芸家達
1) 文化財保護法の制定(昭和25年、1950年)

 ① 昭和20年の敗戦により、我が国の伝統的文化は、壊滅的打撃を受けます。それは単に伝統文化が

   壊れた為ではなく、国民全てが食糧難になり、食うや食わずの状態で、文化に関心を寄せる

   人が少なく、人的欠乏となった事と、伝統文化を支える物質が欠乏していた為です。

 ② 昭和25年頃に成ると、朝鮮戦争の影響で特需景気が起こり、世情も安定してきます。

   しかし同年、法隆寺の本堂が消失する事件が起き、俄かに文化財の保護が叫ばれる様に成ります。

 ③ 杉原信彦(国立近代美術館勤務)や小山富士、山辺知行氏などが尽力し、制定にこぎつけます。

 ④ 文化財保護委員会の下に、総務部と保存部が設けられます。保存部には史跡、名勝、天然記念物を

   担当していますが、その中に無形文化部があり、更に芸能担当と工芸担当がありました。

   工芸部を担当したのは前記、杉原、小山と山辺氏です。

 ⑤ 当時の無形文化財の要件は、特に価値の高い物、国が保護しなければ、衰亡の恐れのある物で、

   単に立派な物は排除されています。仕事の第一は、当時手に入り難い漆や金などの資材を斡旋し、

   適当な処置を講ずる事で有ったそうです。

 ⑥ 昭和27年、無形文化科が、天然記念物科から分離独立します。

   小山富士夫氏が陶磁担当で、杉原氏が染織担当に成ります。その後、漆芸に岡田譲氏、金工に

   蔵田蔵氏が各々担当します。

 ⑦ 翌年には、5万円の予算が付きます。(当時の価値は不明ですが、かなりの高額と思われます。)

   無形文化財の宣伝(PR)と、将来保護対象は、公開(展覧会)する事に成りますので、

   その方面に予算を使えば良い事に決めます。

 ⑧ 開催場所は、最初高島屋、次に松屋、最終的には三越デパートに決まります。

  )東京と大阪にある一番良いデパートとして、最初に高島屋に話を持ち掛けますが、文化財とは

    どの様なものを指すのか、不明であった為か、費用の掛かる展示会は出来ませんと、高島屋から

    断われてしまいます。

  ) 次に松屋に頼み、了承を得ますが、「電産スト」が起こり会場建設が間に合わなくなり、

    年度内に展示会を開く事が出来なくなります。

  ) 国庫補助金の5万円は年度内に、使いきれない場合には、国庫に返納する事になります。

    その為、今度は三越デパートへ打診に行きます。三越は高島屋、松屋の後でしたが、心良く

    引き受けてくれます。但し条件として、一度上野の博物館で開催し、この催しに箔をつけから

    三越で開催したいと希望します。そこで急遽上野国立博物館の表慶館二階で、細々と展示会を

    開きます。昭和28年3月の事ですた。

2) 「無形文化財・日本伝統工芸展」が昭和29年3月に、日本橋三越の七階の催場で行われます。

   この展示会は、看板の様に無形文化財(国指定)の人しか出品できませんでした。

   (当時約40人程の人がいた様です。)

    尚、日本伝統工芸展は、翌年以降三越デパートで開催されるに至っています。

  ① この展示会では、荒川豊蔵氏の茶碗が10万円の高値で売れた事が話題に成ります。

    買い手は、五島慶太氏で現在五島美術館に、展示されているとの事です。

  ② 重要指定文化財の指定

   文化財保護法は、国が保護しなければ、衰亡のある恐れがある物が対象でした。

   その考え方は「おかしいのでは」と言う声が上がり、保護法を改正し、重要文化財(人間国宝)は

   指定性に成ります。

  ③ 昭和30年2月の第一回目の指定は、荒川豊蔵(志野、瀬戸黒)、石黒宗麿(鉄釉陶器)、

    富本憲吉(色絵磁器)、浜田庄司(民芸陶器)の四名で、第二回目(同年5月)には、金重陶陽

    (備前焼)が選定されます。

  ④ 第二回日本伝統工芸展は昭和30年の秋に開催されますが、完全な公募性ではなく、推薦制度に

    成っています。

3) 日本工芸会の設立

   陶磁器業界では、個人がばらばらで活動し、展示会を開くにも、事業主体が無いので、文化財

   保護委員会と文化財保持者が集まり、協議を行います。

   その結果、「社団法人・日本工芸会」が、高松宮様を総裁にして発足します。

   会長には、細川護立氏(文化財保護委員)を、理事長には西沢笛畝氏(専門審議会、工芸技術部会

   会長)をあてます。

  ① 第五回展では、「日本工芸展」と呼び名を変え、一般公募性に成りますが、翌六回展からは、

   再び「日本伝統工芸展」に戻っています。

4) 展示会の特徴

  ① 第一回展より、出品者全員の作品は、審査の対象になっている事です。

    正会員、鑑審査員、重要無形文化財の保持者、文化勲章受章者であっても、無審査には

    成りません。

  ② 鑑審査員の構成は、一党一派に囚われず、学識者、作家との混成になっています。

  ③ 審査の対象は以下の七部門です。

    陶芸、染織、漆芸、金工、木竹、人形、その他(硝子、七宝、載金、玉、牙類)です。

    尚、第三回展より刀剣の部門は、刀剣協会へ円満所属換えしています。

   ・ 第一次審査、第二次審査を経て、入選と日本工芸会総裁賞、工芸会会長賞、同奨励賞、

     文部科学大臣賞などの、各賞が決定されます。

  ④ 伝統工芸展の会場は、東京の他、名古屋、大阪、金沢、京都、岡山、高松、広島、福岡などで、

    巡回展示されています。又中国人民友好協会などの主催で、北京、上海などでも巡回展示が

    行われています。

以下次回に続きます。
  
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現代陶芸12(北大路魯山人)

2012-01-09 21:19:08 | 現代陶芸と工芸家達
陶芸界の奇人変人と言えば、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん、又はろざんじん)が挙げられます。

人物の評価は、決して良くはなく、むしろ悪評の方が圧倒的に多い様です。

 例えば、陶磁器の展示会で、自分の作品以外は、「愚作だ!」と批判し、持っていたステッキで、

 作品を打ち砕いたと、言われています。又、荒川豊蔵(後の人間国宝)が発見した、志野焼きの

 窯跡を、あたかも自分が見つけた様な振る舞いもします。

 更には、新鮮で旨い食材を客に提供する為、赤字となり料理屋の経営から追放されたりもしています。

 しかしながら、作陶した食器類は近年大変好評を博し、人気が上昇しています。

 その理由として、20万とも言われる作品数の多さ故、比較的安価に購入できる事と、料理を盛る

 器が主な作品である事です、美術品では無い事で、多くの人に使われている事が挙げられます。

1) 北大路 魯山人:1883年(明治16年)~1959年(昭和34年)本名は北大路 房次郎。

  篆刻(てんこく)家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家などの、様々な顔を持って

  いました。

 ① 京都市上賀茂(現在の京都市北区)に、上賀茂神社の社家、北大路清操の次男として生まれる。

   生後7日目に、口減らしの為、養子に出され、数人の養父母の間を、タライ回しにされた様です。

 ② 6歳の時に竹屋町の木版師、福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業します。

   この木版との出会が、篆刻家へのだ一歩になっています。

   京都、烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)にも丁稚奉公に出ます。

 ③ 1903年、書家に成る為に上京します。一字彫の懸賞に応募して、次第に受賞(賞金稼ぎ)する

   様に成ります。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現わします。

 ④ 1905年、町書家、岡本可亭(画家、岡本太郎の祖父)の内弟子となり、1908年から中国北部を

   旅行し、書道や篆刻を学びます。

   帰国後の1910年に、長浜の素封家、河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む

   環境を提供され、ここで魯山人は福田大観の号で、小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の

   傑作を当地に残しています。

 ⑤ 長浜をはじめ京都、金沢の素封家の食客として転々と生活する事で、食器と美食に対する見識を

  深めていき、1921年には会員制食堂、「美食倶楽部」を発足させます。

  自ら厨房に立ち、料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していきます。

 ⑥ 1925年3月に東京の永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を借り受け、会員制の高級料亭を

   開店します。

2) 陶芸作家として活躍

 ① 1927年には宮永東山窯から、荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所「星岡窯」を設立し

   本格的な作陶活動を開始します。

 ② 1928年に日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行います。

 ③ 1936年、星岡茶寮の経営者、中村竹四郎から解雇を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放

   されてしまいます。その原因は、傲慢な態度と物言と、経営者との意見の違いが有った様です。

   尚、同茶寮は1945年の空襲により焼失してしまいます。

 ④ 鎌倉の「星岡窯」で、荒川豊蔵を窯場の長として、作品造りに励みます。

   大量の食器類は、魯山人自ら全てを製作した訳ではなく、彼の指示の下で、荒川豊蔵以下の

   スタッフが手がけたもので、魯山人自身、轆轤作業は苦手で、出来ないと言う方が正解です。

   あまりに多作の為に、税金払うの忘れて、税務署に踏み込まれた事も有ったそうです。

   彼の作品は前に述べた様に、料理を引き立て美味しく食べて頂く為の平皿、碗、向付などが、

   主な種類です。その器面に書や絵などを、一気に自由奔放で豪快な絵柄を描いています。

 ⑤ 1946年、銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも

   好評を博します。また1951年に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させます。

   1954年にロックフェラー財団の招聘で、欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際に

   パブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しています。

   1955年に、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しています。

   1998年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人終の棲家である星岡窯内の家屋が焼失します。

3) 魯山人の性格と人間性

  ① 6度の結婚(1908年、17、27、38、40、48年)は全て破綻し、2人の男児は夭折しています。

  ② 傲岸(ごうがん)、不遜、狷介(けんかい)、虚栄などの悪評が常につきまといます。

    毒舌でも有名で、柳宗悦、梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄といった戦前を代表する芸術家や

    批評家から、世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒ています。

    逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王、吉田茂(首相)などから愛されもいました。

  ③ 魯山人は、主に自らが主宰する料亭「星岡茶寮」が発行するミニコミ誌「星岡」などで

   多くの美術論、時評をぶち上げていますが、その殆どが古美術を礼賛し、同時代の美術作家を

   こき下ろしています。

  ④ 美食家の魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく批判しています。

基本的には、性格や人間性に問題があり、一人善がり(独善的)であった為、その実力も正当に

評価されなかった一面も、有るのではないかと思われます。

以下次回に続きます。
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現代陶芸11(川喜田半泥子)

2012-01-08 22:53:56 | 現代陶芸と工芸家達
大いなる「素人(しろうと)」を自認する陶芸家に、川喜田半泥子(かわきたはんでいし)がいます。

本業は、百五銀行の頭取であり、実業家(三重合同電気会社社長)、政治家でも有ります。

「東の魯山人、西の半泥子」と称されます。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)号は「半泥子」

の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等があります。

半泥子の趣味道楽は大変広汎に及び、書画、茶の湯、俳句、音曲、陶芸など数え切れない程です。

しかも、単に鑑賞するのみではなく、自らそれらを手がけ、実際に作ったりもしています。

特に陶芸に関しては、三十数年にわたり、数多くの作品を作り上げています。

1) 川喜田半泥子の経歴 1878(明治11)~1963(昭和38)年

  ① 大阪市東区本町に生まれた半泥子(幼名善太郎)は、15代続く伊勢の豪商の家に生まれます。

    1歳の時に、父と祖父に死に別れ、1歳で16代を相続します。

  ② 1901年、分家の川喜田四郎兵衛の長女と結婚し、1年後には百五銀行の取り締まり役に付きます。

    更に1919年には、百五銀行五代目頭取に、1945年には会長に就任します。

    注: 百五銀行 1878年12月、旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく

      第百五国立銀行として設立し、三重県津市に本店を置く地方銀行です。

  ③ 川喜田家は膨大な蔵書や、茶道具の他、戦前の重要美術品を23点も所持していました。

    その為、幼少の頃から、美や芸術関係の目が養われていたと思われます。

2) 半泥子の陶芸
 
  ① 若年の頃から楽焼で作品を造っていた様ですが、大正14年に津市千歳山の邸内に「千歳窯」を

    築きます。最初は、小さな窯ですたが、1933年(昭和八年)には、本格的な登り窯を築きます。
    
    しかし、終戦と同時に、この邸宅も、米軍に接収され、同市広永に疎開し、「広永窯」として、

    再開します。生涯の約30数年を茶陶の製作に使い、膨大な数の作品と成ります。

  ② 半泥子の作陶は、道楽であっても、決して「お遊び」ではありませんでした。

    築窯、窯焚き、轆轤作業、絵付けなどを、自ら行い、陶芸に対して努力を重ねます。

  ③ 日本各地の窯場や、中国や朝鮮は基より、ヨーロッパ、アメリカ、カンボジア、ジャワ、

    バリ島など、世界各地を旅行し、焼き物の勉強を続けています。

  ④ 彼は自分の事を、「無茶法師(むちゃほうし)」「莫迦耶慮(ばかやろう)主人」「大愚庵主

    (だいぐあんじゅ)」等と称して、自分を低く見せる振る舞いをしますが、自由奔放に製作に

    没頭し、人に崇められる事を極端にきらいます。

    あくまでも、自分は「素人」としてみていた感があります。

  ⑤  公募展に出品せず。当時の工芸家は、官展である帝展や文展に応募し、賞を得る事により

    名声が上がり、作品も高値で販売されるのが一般的でした。しかし半泥子は、公募展には

    出品せず、自分の作品は人に貰われる事はあっても、販売する事は無かったそうです。

    主な作品は、茶陶である水指、茶入、茶碗類が多いです。

  ⑥ 但し、1937年(昭和12年)に無茶法師作陶展を東京で、1946年(昭和21年)には半泥子作陶展を

    大阪で開催しています。その他広永一門展を数度行っています。

  ⑦ 1955年、米軍が撤退後、接収されていた千歳山に邸宅を再興し、広永から移り住みます。

3) 半泥子の交友関係

   実業家でもありましたので、政財界の他、茶人や工芸家など多方面の人と、交友関係を結びます。

  ① 表千家の久田宗也が、毎月半泥子の元に、出稽古をしていたそうです。

    その関係もあり、作る作品も茶陶が多い様です。

  ② 1929年京都大丸で開催された、当時無名に近い、小山富士夫の個展の全出品を買い上げます。

    この縁で、小山との交友関係が発足します。

  ③ 1939年、金重陶陽(備前)、荒川豊蔵(志野)、三輪休雪(萩)と「からひねり会」を

    結成します。

半泥子は、本業があり、職業として陶芸を行う必要も無く、自由気ままに作陶出来た事は、羨ましい

限りだと思われます。

以下次回に続きます。
    
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現代陶芸10(楠部彌弌)

2012-01-07 22:35:23 | 現代陶芸と工芸家達
彩埏(さいえん))と言う独自の技法で、現代陶芸に大きな功績を残した人に、京都の楠部彌弌がいます。

1) 楠部彌弌(くすべやいち): 明治30年(1897)~昭和59年(1894)

  平安神宮への参道の神宮道沿いに「楠部彌弌作陶之地」の石碑が立っています。

  ① 楠部彌弌の来歴
   
   ) 京都市の粟田口と呼ばれる、東山区三条通で、陶器貿易商の父千之助の四男として

     生まれます。先祖は伊勢大神宮に収める、神具や祭器の専門職で、陶(すえ)物を作って

     いた様です。 明治維新後に、大量の京都粟田焼が欧米に輸出される様になり、貿易商を

     営む様に成ったと言われています。

   ) 美術学校に行き、絵画の勉強を望みますが、両親の意向で京都市立陶磁器試験場の

      伝習生と成ります。助手には、東京高等工業学校の窯業科を卒業したばかりの、河井寛次郎

      や、同期には、陶芸家八木一艸(いっそう)や、河村喜太郎らがいました。

   ) 父の家業を継ぐ事を拒否し、粟田神社参道脇の、古い粟田焼窯元の跡地に転居し、

      作陶に励みます。

   ) 赤土社の結成

      1920年(大正九年)赤土社の設立を宣言します。「因習的な様式に囚われず、永遠に

      滅ぶ事のない、美を探求し、新しい光をもたらす運動」と位置付けます。

     a) 第一回展を、大阪の高島屋で開催します。

       会員は、楠部、八木、河村、新谷芳景、河合栄之助達でした。

     b) この活動も長く続かず、数年で自然消滅してしまいます。

   ) その後、民芸の柳宗悦と知り合いになり、民芸運動に誘われますが、創作性を強く

      意識した作品造りを目指し、この申し出を断ります。

  ② 帝国展や文展での活躍

   ) パリ万国博覧会(1924年)で「百仏飾壷」で入賞します。

   ) 日本美術工芸展(1926年)の出品作「黒絵偏壷」が、宮内庁買い上げに成ります。

   ) 工芸部が創設された、第八回帝展で、初入賞を果たします。

      それ以降各種の展示会で入賞を重ね、たびたび宮内庁買い上げになっています。

      1926年には、帝展無審査に推挙されます。

      1945年以降は毎年の様に、日展審査委員になっています。

   ) 1952年(昭和37年)には、日本芸術院会員に推挙されます。

  ③ 楠部彌弌の陶芸技法     

   ) 彼の代表する陶芸技法に、釉下彩埏(ゆかさいえん)があります。

     釉下彩埏:彩埏とは「土に水を加えて軟らかくする事」を意味します。

     即ち、各種の呈色剤を混入した磁器土を、水を加えて軟らかくし、何度も薄く塗り重ね 

     浮き彫り風にして、文様を出すもの方法です。施釉後に焼成する事により、所定の色に

     発色します。一度に仕上げ様とすると、失敗しますので、根気良く作業を続ける必要が

     あります。1960~1980年代に、この技法の作品を多く作っています。

     作品の種類としては、花瓶、飾皿、香炉などが多いです。

   ) 1950年代には、色絵や金彩、青華の作品(水指や茶碗)も作っています。

 以下次回に続きます。
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現代陶芸9(清水六和)

2012-01-05 22:36:15 | 現代陶芸と工芸家達
板谷波山が活躍した同時代に、清水六和(しみずろくわ)がいます。

「東の波山、西の六和」と称され、陶芸界に大きな影響を与えた、京焼きの清水六和(五代清水六兵衛)

 です。

1) 六和の経歴: 1875~1959年

 ① 京都五条坂の名門陶家、四代清水六兵衛の次男として生まれます。

 ② 明治二十年代に、京都府画学校に入り、絵画教育を受けます。(学校教育として絵画を学ぶ事は

   当時としては、珍しい事でした。)この事が後年大きな影響を与えます。

 ③ 六和が最初に作品を、発表するのは、明治28年の第四回内国勧業博覧会(京都)に応募して、

   入選を果たします。しかし、清水家からの出品は父四代六兵衛を含め、ことごとく落選して

   しまいます。この審査結果は六和に大きな衝撃を与え、以後陶芸に専念する様に成ります。

 ④ 大正2年(1913年)四代六兵衛が隠居し、六和は五代六兵衛を襲名します。

   同年第一回農商務省展で、「音羽焼柏模様花瓶」を出品し、三等賞を受賞します。

   注: 音羽焼については、後述します。

   翌年の第二回農商務省展では、「薄赤碓縫模様花瓶」を出品し、三等賞を受賞し、第十九回

   新古美術品展で、名誉銀碑を授与しています。

 ⑤ その後にも、第二、三、四、五、七、九回農商務省展で、一等、二等などの賞を受賞し、十回

   からは、無審査になります。大正12年には、東京高島屋で、個展を行います。

 ⑥ 第一回聖徳太子奉讃展(大正15年)では審査員に、帝展に美術工芸部が設置された際には、

   板谷波山と共に、審査員に推挙されます。更に、帝国美術院会員に成ります。(昭和6年)

   以降、各種の展示会の審査員を歴任します。

2) 「五条会」の設立

  六和は京都の陶芸界の発展を目的として、清水五条坂に新進の陶芸家達を集め、「五条会」を

  設立します。(昭和6年) 近藤悠三、森野嘉光、浅見隆三、清水正太郎(六代六兵衛)など

  40数名が参加します。

3) 六和の陶芸

 ① 六和の三大新技法と呼ばれるものに、大正時代の「音羽焼」と「大礼磁」、昭和の晩年に完成した

   「新雪窯」があります。

 ) 音羽焼(おとわやき): イタリアのマジョリカ(錫釉を使った彩画陶器)を研究した際、

    創案したと言われています。一般にマジョリカは線描きした中に釉を流し込みますが、

    無線七宝の技術を応用し、絵の具を盛り上げて描いた後、表面をカミソリで平滑し、焼成して

    います。顔料(絵の具)が流れない様に、マット釉を使用しています。

    命名の由来は、工房の傍を流れる、音羽川にちなんで付けました。

 ) 大礼磁(だいれいじ): 素地に「ニッケル」を加え、桃色(ピンク)色の素地の磁器で、

    これに、白磁土を盛り上げ絵付けした作品です。

    又素地に「ウラン」を混入して、黄色の素地とする黄櫨よう(おうろうよう)も製作して

    います。尚、黄櫨とは「ハゼの木」の事です。

 ) 新雪窯: くすんだ灰白の釉肌に、斑文の濃淡が広がる抽象絵画の様な、斬新な作風です。

    昭和29年に、焼成方法を工夫して作り上げました。

 ② 六和の陶芸は、京焼きの美を現代感覚の中に、復興させる働きをしています。

   又、古典的な、仁清や乾山風の華麗な装飾的な作品も、手掛けています。

以下次回に続きます。
 
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現代陶芸8(板谷波山)

2012-01-04 22:56:40 | 現代陶芸と工芸家達
明治、大正、昭和に渡り、活躍した陶芸家に、板谷波山(いたやはざん)がいます。

特に、大正、昭和初期にそれまで沈滞していた、陶芸界に活力を与え、先達に成ると共に、後進の

指導育成に貢献した、近代陶芸家の巨匠と言われる人物です。

1) 板谷波山: 1872~1963年 文化勲章を授与(昭和28年)

 ① 経歴、年譜

  ) 1872年茨城県真壁郡に、醬油製造業の三男として生まれます。

  ) 明治22年東京美術学校が上野に開校し、彫刻科(木彫)に入学します。

  ) 同27年に同所を卒業しますが、職も安定しませんでしたが、明治29年9月に、石川県工業

   学校の彫刻科の主任として、金沢に赴任します。

  ) 同31年には、彫刻科が廃止され、陶磁科の教諭にさせられます。

     しかし、彼は陶磁器については、全くの素人で経験も皆無でした。

     その為、実技の指導と言うより、図案の指導に当たっていた様です。

  ) この間、九谷焼きの窯場に通い、陶磁器製作の技術を身につけます。

     およそ五年間ほど、陶芸の勉強をした後、明治36年東京に出て、陶芸家として自立します。

  ) 東京府北豊島郡滝野川村田端に、住居と工房を築きます。その間資金に困り、窯の完成までに、

     一年三ヶ月を要したとの事です。初窯は明治39年で、成功を収めます。

  ) 田端で製作された作品は、「波山焼」と呼ばれていますが、轆轤成型は石川県小松出身の

     現田市松(げんだいちまつ)が担当し、彫刻文や色彩、施釉、焼成は波山が担当し、

     二人三脚で製作に励み、市松の死までの、約53年間続いたとの事です。

2) 波山の業績と功績

  ① 明治40年(1907年)東京勧業博覧会に「磁製金紫文結晶釉花瓶」を出品し三等賞を受賞します。

    この作品は、初窯の成功後、続けて2回窯焚きに失敗しますが、3回目での窯焚きで随一無傷に

    焼き上がった作品との事です。

  ② 明治44年の東京勧業博覧会で、委員に推され、出品した作品は、東京府の買い上げと成ります。

   同年、第2回窯業品共進会では、妙技一等金碑、大正4年農商務省主催の「農展」では二等賞を

   2点、三等賞を1点受賞します。

  ③ これらの活躍により、大正博覧会、東京府工芸図案陳列会に推薦されます。

    その間に、白磁、彩磁、マジョリカ陶、梨地釉、葆光(ほうこ)彩磁、蚕殻磁、氷華磁、

    金紫磁などの創作を発表し続けます。

  ④ 昭和2年(1927)、第八回帝展で、新たに第四部(美術工芸)が設けられ、五代清水六兵衛と

    共に、審査員に成ります。

  ⑤ 「東陶会」の設立。 昭和2年波山は、関東の陶芸家達は、組織化されておらず、別々に

    行動していた為、関東一円の陶芸家の有志を集い、組織として活躍する場を設けます。

    第一回東陶会展覧会は、同年日本橋三越デパートで行われます。

    会員として、波山、沼田一雅、二代宮川香山の三人を顧問とし、井上良齋、宮之原謙など

    総勢25~6人ほどでした。

    この展覧会は大好評を得て、即日完売の状態になります。以降、瀬戸や京都を凌ぎ、隆盛を

    極めます。

  ⑥ 昭和9年には、帝室技芸員に、12年には、帝国芸術院会員、28年には美術家として、

    最高の栄誉である、文化勲章を受章します。

3) 波山の技法

  ① 彫刻:波山の技法の一つに、器面に彫刻が施してある作品が多いです。(東京美術学校彫刻科

    を卒業しています。)波山は、常にスケッチを描き、新しい図案を創設していきますが、

    スケッチを元に、器面に鉛筆で下絵を丁寧に描きます。この図に沿って、彫刻刀や針金を

    曲げた物や、古い板金を加工した刃物で、掘り進みます。

    片面を掘り終わると、ワニスを塗り、彫刻面が崩れるのを防ぎます。

    一つの作品を仕上げるのに、一ヶ月以上掛かる場合もあった様です。

  ② 生涯で一番緊張した作品は、大正12年頃、久邇宮(くにのみや)家から、ご成婚儀式用に

    大花瓶「葆光彩磁鳳凰瑞花文花瓶」(高さ30cm)の製作を依頼された時で、通常8~12時間

    程の素焼きに30時間を費やし、成功させたそうです。

  ③ 「葆光彩磁」の完成

    「葆光」とは、光沢を隠す事で、物の線界を軟らかく、薄く描く事を意味し、独特のマット釉

    (つや消し釉)を用い、淡い幻想的な色彩を醸し出しています。

  ④ 彩磁: 磁器土は、天草陶石や瀬戸の蛙目などを調合しています。

    素焼き後の釉下顔料のコバルト(青色)やクローム(灰緑色)は、普通の様に水に溶かず、

    塩化コバルトや硝酸コバルトの様な液体顔料にする為、素地の周囲や裏側まで浸透します。

   他の部分が汚染されない様に、いちいち油やラッカーで塗り潰し、素焼き後に再度、作業を進める

   と言う、手の込んだ技法を採用しているとの事です。

4) 人脈

  ① 東京田端に窯を築いていた頃、東京高等工業学校窯業科の嘱託として一時教鞭を取ります。

    この時の弟子が民芸家の河井寛治郎や、濱田庄司達です。

  ② 支援者やコレクターには宮内省、住友吉左衛門(住友財閥)、長谷川家(山形銀行)、

    出光佐三(出光興産)など多くの著名人がいます。

以下次回に続きます。
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現代陶芸7(帝国美術院展)

2012-01-03 21:55:47 | 現代陶芸と工芸家達
国内の陶芸(工芸)家の発表の場は、超著名人は、万国博覧会などに、出展する事が出来ましたが、

一般には前回取り上げた、内国勧業博覧会や東京府工芸品共進会(明治22年)などに限られていました。

1) 東京美術学校の設立

  明治22年、岡倉天心は、将来我が国の美術を担う有能な青年を指導する目的で、上野に美術学校を

  開設します。(天心は、開校時には、事務局長でしたが、翌年には校長になります。)

 ① 前身は、1876年(明治9年)、工部大学校付属「工部美術学校」が設立され、お雇い外国人による

   ヨーロッパ式の教育が行われたが、1883年に廃止されます。

  その後、1885年(明治18年)に文部省の図画調査会において、官立美術学校の設立が提案され、

   アーネスト・フェノロサ、岡倉天心、狩野芳崖等が中心となって「図画取調掛」が設立されます。

   更に、その後1887年(明治20年)10月に「東京美術学校」と改称し、1889年2月に現在の上野校地

  (旧教育博物館跡)に移転し授業を開始します。その後、「東京藝術大学」が開校、2年後(1952年)に

   東京美術学校は閉校になります。

 ②  開校時には、絵画科(日本画)と彫刻科(木彫)が、後に美術工芸科(彫金)と漆工芸科が

  増設されます。しかし陶磁器を扱う科目はありませんでした。

 ③ 明治26年に、図案科が併設されます。

  これは、工芸の輸出を左右するのは、図案の良し悪しによって決まると認識したからです。

  従来の伝統的図案からの脱却をめざします。

2) 文部省美術展覧会(文展)の開設

 ① 明治中期、日本画の組織は旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」が対立していました。

  更に、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」が対立していました。

  これを調停する目的から、文部省が各派を統合する形で、国家主導の大規模な公募展、

  即ち、官展として開始したのが「文部省美術展覧会」(文展)です。

 ② 1907年(明治40年)に第一回展が開催されますが、審査員の選定が問題となり、1913年(大正2年)

   には、フランスに留学経験がある新進の芸術家達(石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、坂本繁二郎

   その他)は、洋画部門として二科会が、袂を分かち「二科展」を開始しています。

   1916年(大正5年)、第10回に特選および推薦の制を設け、審査を経ることなく出品し得る特権を

   与えたます。これを「無鑑査」と言います。

   1919年(大正8年)には「帝国美術院」の発足にともない、「帝国美術院展覧会」(帝展)と

   改称されます。

3) 帝国に第四部美術工芸の併設

  明治40年、文展が開設されても、陶芸を含めた工芸全般は、応募する事が禁じらていました。

  理由は、他の絵画や彫刻に比べ、その美術的価値が著しく劣っている為と、作家個人の独創性に

  欠けていると見なされた為です。(当時の業界では分業によって、作品が作られていた為、

  必ずしも、個人が全てを製作した訳ではありませんでした。)

 ① この様な工芸に対する差別を無くす行動を起こすのが、板谷波山や清水六和達です。

   (彼らに付いては、後日お話しします。)

   しかしながら、陶磁器などの工芸は、中々帝展に参加する事は、許されませんでした。

   その為、大正十五年には、東京府美術館の開館を記念した、聖徳太子奉賛美術展や、日本工芸

   美術会が展示会を執り行います。
 
 ② 1927年(昭和二年)の第八回帝展に第四部美術工芸が併設併設され、工芸家が応募出来る様に

   なります。しかし美術工芸の審査委員9人の内、3人は画家が選ばれています。

   これは、図案の良し悪しを審査する為と見なされています。

   以降、工芸家の発表の場として、定着してゆきます。

 以下次回に続きます。

   
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現代陶芸6(内国勧業博覧会)

2012-01-02 21:43:28 | 現代陶芸と工芸家達
日本が初参加した、1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿の「大久保利通」が殖産興業の

為に、内国勧業博覧会を推し進めたと言われています。

これ以前にも、1871年(明治4)の京都博覧会、明治5年の文部省博物局が主催した、湯島聖堂の博覧会が

開かれています。名宝や珍品を集めて観覧させる「見世物」が主体で、出品物は必ずしも、殖産興業

を目的とはしていませんでした。

1) 内国勧業博覧会

 ① 明治十年(1877年)第一回内国勧業博覧会が東京上野公園を会場として開催されます。

   開催期間:1877(明治10)年8月21日~11月30日場所:東京上野公園入場者数:454,168人

 ② 外回りの回廊型の本館の他、恒久施設として美術館を建て、その中心に噴水池を造り、

   正門には大時計が取り付けられていました。

   回廊型のパビリオンを中心とする会場構成は、以後の内国勧業博にも、踏襲されていきます。

 ③  約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、

   全国から集められた出品物は、大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に

   分類され、素材、製法、品質、調整、効用、価値、価格などの基準で審査が行われました。

   優秀作には賞牌や褒状等が授与され、物品調査と産業奨励が同時に行われていたと言えます。

  ・ 全国の工芸家は、この博覧会が作品発表の場と成って、技を競う様に成ります。

   第1回内国勧業博覧会は、日本の産業促進に大きな影響を与えます。

2) 国内の博覧会は以下の如く行われています。

  1871年(明治4): 京都博覧会

  1872年(明治5): 湯島聖堂博覧会

  1877年(明治10): 第1回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:454,168人

 ① 1881年(明治14): 第2回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:823,094人

   出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等も、第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぎ、明治天皇も

   皇后と行幸し、熱心に観覧しました。

   尚、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを

   目的として、種別に陳列します。また前回と同様の物の出品を禁じます。

 ② 1890年(明治23):  第3回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:1,023,693人

   世界各国に招待状が送られ、外国人客の誘致に力を入れ、出展品の販路拡大をはかります。

   不景気、インフルエンザの流行、連日の雨、帝国議会衆議院選挙などの影響から、全体の

   入場者数は伸び悩んだ様です。

  ・ 建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加します。

  ・ 東京電灯会社が会場内に、日本で初めての電車である、路面電車を走らせます。

  ・ 褒賞の審査の対象は、民業のみで、民業振興する意図が明確に出ています。

   褒賞や審査の結果次第では、商品の売れ行きに大きな影響が出る為、出品者も力が入った様です。

   尚、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を認知促進する為に、政府は、出展物に限り

   出願手数料と登録料を徴収しない事にしたので、出願数が急増します。

 ③ 1895年(明治28): 第4回内国勧業博覧会 京都市岡崎公園 入場者数:1,136,695人

    博覧会開催が利益を産む事から、誘致活動が行われ、第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を

    活性化したい京都に決まります。 会場の動力源は、それまでの石炭から電力に変わります。

   ・ 会場外の正式な交通機関として、日本初の市街電車が登場します。電力は疎水の水力発電で、

    電力時代の幕開けを象徴するものでした。

   ・ この博覧会を期に道路や旅宿の整備が進み、京都の観光都市としての基礎が作られます。

 ④ 1903年(明治36): 第5回内国勧業博覧会 大阪市天王寺今宮 入場者数:4,350,693人

   日清戦争(1894~95年)の勝利により、各企業が活発に市場を拡大していた事、鉄道網が日本全国に

    整た事などがあり、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の

    内国勧業博覧会となります。

    会場には、将来の万博を意識して建てられた参考館は、それまで認められていなかった

    諸外国の製品を陳列しており、英、独、米、仏、露など十数か国が出品します。

   ・ その中で新しい時代を強く印象付けたのは、アメリカ製の8台の自動車でした。

     内国博覧会といえども、念願の万国博覧会に近づいていると言えよう。

 ⑤ 大阪市は莫大な経済効果を受け、博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、万国

   博覧会の日本開催へ期待が高まり、1907年に予定された第6回を万国博覧会に、という声も

   上がりますが、日露戦争後に財政難に陥ると、第6回は延期、ついには中止されてしまいます。

   その後、府県による博覧会は開かれますが、国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の

   大阪万博まで待つ事となります。

 ⑥ 大阪大会以降の、主な博覧会

  1907年(明治40): 東京勧業博覧会 上野公園、1914年(大正3年): 東京大正博覧会、上野公園

  1922年(大正11年): 平和記念東京博覧会 上野公園 などです。

  明治大正の博覧会場は、主に東京か京都でしたが、大阪、名古屋、仙台などでの開催例もあります。


 参考文献: 國雄行 『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005

     吉田光邦編 『図説万国博覧会史  1851-1942』 思文閣出版 1985


以下次回に続きます。
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現代陶芸5(宇野仁松)

2012-01-01 21:33:13 | 現代陶芸と工芸家達
万国博覧会で活躍し、海外で人気を博した工芸家に宇野仁松がいます。

1) 宇野仁松(うのにんまつ): 1864~1937年

 ① 京都五条坂の焼き物師、和田宗平(号晴雲山)の長男として生まれます。

   父の仕事を見習いながら、十代で二代目清風与平に、次いで三代目与平に師事し、21歳の時

   五条坂の陶器神社の前に、店を構え独立し、営業する様になります。

   尚、与平の下では、白磁、青磁、辰砂などの陶芸技術を学びます。

2) 仁松の作風

 ① マット釉の創造: 仁松は石灰釉による、失透性の釉を造る事に成功します。

   今までに無い釉であった為、この釉を使った作品は評判を得ます。

   ・ 従来釉は、各種木灰と長石を原料にして、調合されていますた。

 ② 無地の作品: 京都の粟田焼きの様に、細かい文様を付ける事も無く、単純明快な無地や、

   窯変ものを製作します。その事がかえって、外国人の人気を得ます。

   艶消しの暖かい白マットが施された、技巧に走らない花瓶などは、従来に無い作品で有った為、

   明治三十年代に、米国で大流行し、その後長期に渡り、大量の作品がアメリカに輸出される様に

   成ります。主な作品は、室内装飾としての花瓶、人物や動物の彫刻的な置物などで、米国以外にも

   フランスからも、器物の図面が送られ、多くの注文を受け、盛んに輸出されます。

 ③ 当時の欧米では、花瓶の底に穴を開け、燭台(蝋燭、ランプ、電燈)などの他、火屋(ほや)

   として使われていた様です。火屋とは行灯(あんどん)の様に、光源を包む物です。

   その為、製作時から底に穴を開けた花瓶も、多く製作されています。

 ④ 仁松の作品群の中で注目すべき作品は、青磁、均窯、辰砂(しんしゃ)が挙げられます。

  ) 磁器の磁土は、天草陶石(熊本県)を、半磁器は、美濃の木節と蛙目を調合し、陶土は、信楽の

    土を使っていた様です。

  ) 青磁釉は、長石と石灰を調合し、鋼(はがね)から造った酸化鉄を加え、還元焼成しています。

   均窯釉では、鉄分を多く含む長石に、石灰を加え、更にアルミナを混ぜて釉に厚みを付けます。

   辰砂釉は、石灰と長石、酸化銅を調合します。素焼きした素地に酸化銅(又は炭酸銅)を塗り、

   その上に前記辰砂釉を掛ける方法があります。

  ) 辰砂色の斑文(まだらもん)を出すには、前記辰砂釉のフリットを下に塗り、更に均窯釉の

    フリットを全面に施し、還元で焼成します。    

3) 万博での活躍

  1900年パリ万国博覧会で、仁松の作品は銅碑を受賞し、1904年のセントルイス万博、翌年の

  リジェ(ベルギー)万博、更に翌年のミラノ(イタリア)万博で、連続金碑を受賞し、その評判は、

  世界各国に広がり、バイヤー(買い付け人)も大勢押し寄せます。

  その為、仁松の窯場では、常時30~40人の職人達が働いていたとの事です。

  ① 二基の登り窯(松薪で焼成)を有し、年に十回は焚いたそうで、一窯で約3000点もの作品が

    窯出しされています。それも、器や装飾が単純な為、この様に大量に製作が可能であったと

    思われます。更に仁松自身が、轆轤技術の指導、釉の調合、釉掛け、焼成を厳しく指導し、

    一貫した生産が行われた為でもあります。

  ② 明治四十年前後に、辰砂釉の上に、緑色の艶消し釉を掛けて焼く技法を開発します。

    この方法て造った花瓶を、竹の籠(かご)で包む工夫をすると、外国から大量の注文を

    受ける様に成ります。

  ③ 上記輸出の繁栄も、第一次世界大戦(1915~1918年)までの事で、それ以後は、国内販売に

    力が移っていきます。

以下次回に続きます。
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