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携帯電話

2006年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
便利なモノであるし、いまや日常生活には欠かせない携帯電話。

そんな携帯電話には、独特の世界があるようだ。

読んで字のごとく「携帯」する「電話」であるから、連絡は直接本人に出来る。
家においてある電話には家族と言う「不特定多数」の人を相手に電話をかける
ことになる。昔なら好きな女の子に告白しようとしても、「父親」と言う、
第一関門を突破しなければ、彼女の声を聞く事は出来なかった。

また、学校では粋がって偉そうにしているヤツの家に電話した時、
取次いでくれたお母さんの
「○○ちゃ~ん、電話よぉ~」
の声が受話器の向こうから聞こえてきたりして、結構恥ずかしいものだった。

しかし、携帯電話は直接本人にかかるのだから、言わば「会話」の姿に近い。
「○○さんのお宅ですか?」
「○○さんはご在宅でしょうか?」
こんな確認はいらないのだ。今でも、
「○○です。△△さんですか?」と一応は確認をとるが、それは昔のなごりの
ようなものだ。実際は電話に出た時の声で殆ど確認出来る。

たまに友人に電話をかけると「ハイッ!」と女性が出てきて吃驚する事がある。
大体は彼の奥さんなのだが、たまに違う時もある。詳しくは書けないが・・・

逆に困った事もある。携帯電話は「場所」を選ばないのだ。
家に電話をした場合、電話に出られないような「ハードな状況」にある事は
少ない。テレビを見ているか読書をしているか。また、風呂に入っているかも
知れないが、時間帯さえ考慮すれば迷惑な電話にはならないはずだ。

これが携帯電話だとどうだろうか?電話をかける相手が今どこにいるのか
わからないし、どんな状況にあるのかもわからない。
重大な局面に遭遇し、判断を迫られている時に
“ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ  ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ!”
なんて「笑点」のテーマソングが流れたら、気まずい雰囲気になるだろう?

そんな中、一番僕が気になるのは、すべての無駄を省いた「携帯電話的会話」だ。
確認したい事があって、電話をした。しかし先方はなぜか出ない。

「もしかしてお取り込み中?」なんていらない気を使いながら、
少し時間をあける。そしてもう一度かけてみるがやっぱり出ない。
「どこにいるんだろう?」って会話とは直接関係のない事まで心配しながら、
またまた時間をあける。
その間に、他の用事を済ませておく事にする。

“ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ  ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ!”

「おっ!電話だ。」少し忘れかけた時に、先方がかけてきてくれた。
画面で名前を確認してボタンを押し耳に近付ける。

相手「何?」
僕 「あっ えっ?」

何の前置きもなく始まった会話に、僕は少し軽い目眩を覚えた。
相手が年上ということもあり、使い慣れない敬語を使おうとしたのも
思考が停止した要因だっただろう。かかってきた時には、「確認の件」だと
わかったが、こちらが喋りだす前に「何?」はやっぱり省き過ぎだと思う。

しばらく会話したが、頭の中では一つの言葉がずっと鳴り響いていた。

「この電話、どっちからかけたんだっけ?」