梅雨の晴れ間。天気予報で、こんな言葉が出た。梅雨といっても、雨が降る地方が限定されている。一日の曇りだけで、東北に入梅が宣言された。その後も、雲は多いが梅雨らしい雨はほとんどない。九州や西日本で、豪雨となっている。梅雨の晴れ間、場違いな言葉になっている。初めて知る花、ストケシアが美しい。食卓にしゃれた夏野菜が並んだ。チーズをのせて焼いたズッキーニ。赤いミニトマト、ベランダで育てたバジルを付け合わせに。バジルの香りが食欲をそそる。
年齢とともにできることが少なくなって、生きがいも失われると思っていた。だが、二歳を迎えるひ孫の笑顔をみるだけで、生きる喜びは衰えない。神谷美恵子『生きがいについて』の中で述べられている。「フランスで語られているのは、青年時代は恋愛、壮年時代は仕事への野心、老年時代はどん欲」とあるが、果たして老年時代は、叶えられない欲求へのあくなき希求ということであろうか。少し首をひねる。生きがいを失って絶望した青年が、池で溺れかけている子どもを見つける。彼は、何も考えることなく、池に飛び込み少年を助ける。青年は自分の行為を通して、その子どもに救われる。生きがいを失い絶望していた青年は、自分役立てることができることに気づく。人のためになること、その社会性が生きがいであることに気づかせせてくれたのだ。
佐藤一斉の『言志四禄』に「老人のいましめ」の項がある。先人の考えを、聞いてみるのも、高齢になった者の行うべきことのひとつだ。訳文で示す。
「論語によると、老人になってから、戒めるものは「得」にあるということだが、「得」の字は何をさしているか知らなかった。が、自分はすでに老人であるから、自分の心でこれを証拠立てて見るに、昔、血気盛んな時には、欲心もまた盛んであった。今になっては、血気が衰え、欲念もややあっさりしてきたように覚える。ただ長生きしたいと思ったり、子孫が無事安楽に暮らして行けるように営んでやろうとする考えが、昔に比べてやや強くなっているから、「得」の字は或いはこの類を指し、必ずしも財産を得たり、物を得たりすることは指さないのであろう」とし、一斉は長生きをしたり、子孫の幸福などは天命に任せるほかはないと、説いている。天の命ずるままに生きる、ということはなかなか深い意味がある。
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