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先日の「高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫」の続編です。
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の廻船の船頭でした。1782年、嵐のため江戸に向かう廻船が漂流し、アリューシャン列島のアムチカ島に漂着。その後ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から9年半後の1792年に根室港入りして帰国するというすさまじい体験をしました。
帰国した時の彼の肖像画が残っています。髪は三つ編みにして後ろに垂らしそれを黒い絹布で包んでいます。首にはエカテリーナ2世からいただいた金メダルをかけています。この金メダルは格別の勲功のある平民に贈られるもので、賜ったのはロシア本国でもたった二人しかいなかったそうです。洋服はロシアから持ち帰ってきたもので銀モール製のコートとお揃いのズボンをはいています。これを見た日本人には、さぞ異様な姿に映ったことでしょう!顔の印象としては、垂れ目、大きな鼻、特徴的な眉毛だったそうです。
高田屋嘉兵衛との大きな違いは、彼がロシアへの漂流民だということです。当時、日本は鎖国をしていましたので外洋に乗り出せるような大きな船の建造を認めていませんでした。嘉兵衛よりも18歳も年長であり、遭難した時期(高田屋嘉兵衛は抑留された時期)も、30年も前のことです。暴風雨に会い、舵をなくし、止む無く帆柱を切断した船は、洋上の木の葉でしかありません。あとは、海流の流れるままに、ということで実に8カ月の間、漂流しつづけ、やっとアリューシャン列島の小島にたどり着いています。どうしてそのように長く洋上で生きていることができたのか。実は、江戸に届けるために多くの米(140俵ほど)を積んでいたのです。雨水を貯め、16人の船員が、少しずつ、少しずつ食べてしのいだのでしょう。しかし米を炊きつける練炭がなくなり、生米を食べるしかなくなって、ついに壊血病になって一名が亡くなっています。
毎日、毎日見る同じ海、同じ顔ぶれ、揺れる船の上の狭い空間で過ごす日々は、精神的にも極限状態ではなかったでしょうか。この間、特に船内で事件らしきものが何もおきなかったのは、船頭・光太夫のリーダーシップによるところが大きかったのでしょう。
島(アムチカ島)は、高い山のない平坦な島で、樹木はなく岩山だけの島でした。島には先住民のアレフトとロシア人の狩猟団がいました。その年のうち、寒さと弱った体力により、さらに4人の仲間を失います。2年後にロシアからの迎えの船が来ましたが、皆の見ている前で、接岸に失敗し大破してしまいます。そしてさらに2年後、協力して船を修復し、やっと島を出ることができました。乗船者は、ロシア人25名、日本人9名と、光太夫が日本から連れてきた猫一匹です。この島で暮らした4年間でロシア語をマスターしたといわれています。(つづく)

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