我が家のオリーブと青い空 本文とは関係ありません。
(前回のつづき:アムチカ島を脱出し、キリル・ラクスマンに出会う)
アムチカ島からロシア人と共に脱出した光太夫たちは、日本に帰りたい一心で、帰国嘆願書を届けるために、いわれるまま、カムチャッカからオホーツク、そしてヤクーツクへとソリで向かうわけですが、彼らを一番苦しめたのが極限の寒さと、壊血病ではなかったでしょうか。
アムチカ島では、漂流で痛めた体が寒さに耐えきれず6人の命をすでに失っていますし、ヤクーツクを出発するころには、さらに5人減って6人(諸説あり)となっています。特に、このヤクーツクは北半球で最も気温が低いところと云われ、厳寒期にはマイナス50度以上になりますし、夏には30度以上になることもあるそうですから、年間を通しての寒暖の差は、80度にもなります。冬季には、新鮮な食糧が手に入らないため、壊血病で命を無くす者が多発しました。
ビタミンCを含まない食事を約60~90日間続けると、体内のビタミンCの蓄積総量が許容限度以下になり、出血性の障害をもたらす壊血病を発症すると言われていますが、このビタミンCと壊血病の関係があきらかになったのは、1932年のことです。ただ、新鮮な野菜や果物、特にかんきつ類を摂取すると発症が少なくなるというのは、当時でもわかっていたようですが、ただでさえ極寒の地での冬場の食料の確保は大変だったようで、飢饉の年には大勢の餓死者を出したといわれています。
ところで、ここまで見るとロシア人は漂流民に概ね寛大であったということがわかります。アムチカ島では、漂流民を拒むことなく受け入れて、行動を共にし、船で脱出していますし、ヤクーツクからイルクーツクまで行動を共にしてくれたホトケーヴィチ(ホッケイチ)も命の恩人ではなかったでしょうか。何よりも一番の功績は、あのキリル・ラクスマンを紹介してくれたことです。
イルクーツクは、バイカル湖西岸内陸にあたり、このころ、中国、朝鮮、満州などの人々が交易に訪れる繁華な土地でした。そして光太夫たちはラクスマンに会うわけですが、彼がいなかったら、光太夫たちは永遠に日本に帰ることができなかったでしょう。
過去、多賀丸の漂流民、それ以前にも大阪廻船や薩摩廻船の漂流民がいたことを聞かされますが、これら多くの漂流民が、望郷の念に抱かれながらも、帰るすべも無く帰化し、この地で亡くなっています。ただ一人として日本に帰ったものはいなかったのです。
ちなみに、記録に残っている最初の日本人漂流民は、伝兵衛という人で、カムチャッカに流れ着き、ヤフーツクへ移って、その後モスクワでピョートル1世に拝謁し、1705年、サントペテルブルグの日本語学校の教師を命じられています。漂流の時期は、光太夫よりも85年も前のことです。
ラクスマンは、フィンランド出身の自然科学者で、光太夫よりも14歳年長でした。彼のかつての師が長崎に留学していたので、日本に特別の興味を持っていたといわれています。地質の研究が認められて帝都・サントぺテルブルグ科学アカデミーの会員となり女帝エカテリーナ2世や政府高官との知遇を得ていました。
(そして、遂に帰国へ と続く)
三重県亀山市関宿で見たムクゲ 本文とは関係ありません。