友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

どんな風に死ぬのか

2007年02月03日 20時18分26秒 | Weblog
木曜の夜、偶然にテレビで「壬生義士伝」を観た。私の子どもの頃の時代劇は、水戸黄門に代表される勧善懲悪ものばかりだった。主人公が悪い奴らをバッタバッタと切り倒していく、そんな映画だった。鞍馬天狗が杉作を助けるために馬で駆けつける場面では、映画を観ている人たちが必ず拍手をした。こうした映画ではほとんど「どんな風に死ぬか」はテーマにはならなかった。

「壬生義士伝」を観ていて、最近観た映画「武士の一分」を思い出した。共に東北の貧しい下級武士が、究極の時点でどう判断するのか、つまりどのような生き方を選ぶのかを描いている。どのように生きるかは同時にどのように死ぬかでもある。

「武士の一分」では、盲目となった木村拓也が妻を騙した男に殺されるかもしれないと覚悟の上で、果し合いをして、相手の腕を切り落とす。切られた藩一番の切れ者と言われた上級武士は、一切何も語らず自害してしまう。切った木村拓也は別れた妻と再会し、果し合いは迷宮入りなので何の咎めも無く、そのまま二人は生き続けたのだろうと推測できる。

一方、「壬生義士伝」の中井貴一は貧しい暮らしを助けるため脱藩し、新撰組に入隊する。金のために入ったことは皆知っているので、近藤勇を裏切る誘いを受けるがこれを拒否する。鳥羽伏見の戦いで、新撰組は大敗する。刀では大砲や銃には勝てない。敗北は目に見えている。逃走を勧められるが、中井貴一は一人で官軍に立ち向かって行く。彼は「義」のために新撰組に入ったのではなかった。死を覚悟して官軍に向かったのも、「義」のためではない。生活のために脱藩をした彼は、「一度裏切った」が、「二度の裏切り」はできないという、彼の価値観、その意地だけを支えにしている。

「武士の一分」の藤沢周平、「壬生義士伝」の浅田次郎、ふたりが小説の中で描きたかったものは映画とは違うかもしれないが、究極の場面に立たされた時、人はどんな風に生きるか、つまりはどんな風に死ぬのか、が問われる。
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