友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛に期待するな

2007年02月23日 22時39分34秒 | Weblog
 人は、自分が理解し愛していると思っている相手から、思わぬ言葉、たとえば「あなたは私のことを何もわかっていない」「誤解している」「あなたは自分勝手に考えている」などと言われた時には、相当に落ち込んでしまう。相手のことを思って、一生懸命に務めているつもりでも、痴呆症の人は自分の世界だけで判断する。それは判断などというものではなく、単に欲しいか欲しくないか、そんな単純なことかもしれないが、痴呆症の人を世話している普通の人は、どうしても自分の判断で相手を見ているから、一生懸命に務めていることが無視されると悲しくなる。哀しいならまだいいが、怒りになってしまう。人が正常か否かは、実は本当はわからない。
 
 一生懸命に相手のために務めているのだから、それでいいはずだが、それで納得できないのが人間の悲しいところだ。痴呆症の人を例にあげたが、普通の人同士でもこんなことはいつでもいくらでもある。好きな人のために食事まで用意していたのに、「今日は食事しないから」などと言われれば、バカにしていると思う。あらゆる時間と労力とお金を注ぎ込んだ相手から、「あっそう」と感激も無く言われれば、裏切られたような気持ちになる。期待が大きければ大きいほど、相手に対する哀しみなり憎しみなりは大きくなる。

 私の古い友だちに、いろいろな女性に次々に声をかけるが、決して深みに入らない男がいる。彼はとても優しいし、真面目だ。まだ乳飲み子の時に養子に出されたことからか、母の愛をいつも強く意識していた。私が「人間は欲望の固まりだ。理性は欲望を隠すためのものだ」などと言った時、彼は怒って私に殴りかかってきたことがあった。その時は、どうして彼が怒ったのか理解できなかったが、彼は真実で純真なもの、穢れなきもの、美しいものに母の愛を求めていたのだろう。友だちである私が「人の本質は欺瞞に満ちている」と言うのは、彼には耐えられないことだったに違いない。古い友人が、深みに入ることを恐れたのは彼の優しさからである。相手を傷つけないための配慮だ。相手が傷つかなければ自分も傷つかない。

 私は、愛の求道者だ。だから愛に期待するな。愛することに見返りなど求めるな。自分が好きならどんな破局が待っていようと愛したい自分の欲望に従え。そうなりきったのかは不確かだが、そう考えてきた。しかし、多分、私はどこかで安易な道を選んできたと思う。

 明日は、午前10時から、北名古屋市の健康ドームで、大和塾の市民講座『「如是我聞」から始まる仏教」が開かれる。入場無料。どなたでも参加できるので、まずは仏教とは何か、考えることからはじめましょう。
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