友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

如是我聞で始まる仏教

2007年02月24日 23時19分32秒 | Weblog
 本日は、大和塾の第2回市民講座「『如是我聞』から始まる仏教』を終えることができた。先回より10人ほど多い皆さんにおいでいただくことができ、会場一杯だったことが何より嬉しかった。講師を引き受けてくださった林証寺の副住職、生田亮さんには心からお礼を申し上げたい。

 それにしても生田さんは、短い時間の中でたくさんのことを、しかも非常に噛み砕いてわかりやすくお話しいただいた。仏教は私たちの生活の中に入り込んでいるのに、仏教を開いたとされる釈迦についてはある程度のことは知っていても、釈迦が何を説かれたのか、正確に知らないことが多いということがわかっただけでも今日の講座の意味はあったように思った。釈迦と書いたがそもそも釈迦とは釈迦族のことで、釈迦族の中の尊い人つまり釈迦牟尼世尊というのが正しいことも知った。

 仏教の真髄は、“内観”であると生田さんは言う。私たちはともすれば、あの人が悪いとかあの時にこんなことさえ起こらなければこうはならなかったというように、この不幸の原因を外に求めようとするけれども、本当は内にあることを知らなくてはならないと。そこで釈迦は、ことの本質は“私がどう考えるかにある”と悟る。人の苦しみは欲望にあるのだから、欲望を捨ててしまえば苦しみなどはなくなってしまう。「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と、最期の釈迦は言われたそうだ。

 仏教はキリスト教やイスラム教と違い、釈迦が話されたことを後にその弟子達が集まって、「私はこう聞いた」という形で経典ができたと、生田さんは話されたけれど、キリスト教の聖書も、旧約聖書は神の啓示の形であるが、新約聖書は弟子たちのイエスがこう言ったという記述であり、パウロなどはイエスに出会ったこともないローマ人でありながら、イエスの説かれたことはこうであったろうという彼の「信仰」からの記述である。そういえば、孔子の『論語』も後の弟子たちが「孔子がこう言われた」とまとめたものである。一人の先駆者が言ったことを経典という“思想”にまで高めてしまうところに人間の素晴らしさがあるように思う。だからこそ、信じるか否かは別にして人としての真実が凝縮されていると思う。

 大和塾では4月に、「教育」をテーマに第3回市民講座を開催する。より多くの皆さんのご参加を期待したい。
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