友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

お年頃である

2007年02月20日 22時54分00秒 | Weblog
 お年頃である。小6の孫娘からバレンタインの手作りチョコをもらったが、今日やっと食べきれた。特大のチョコが3本も入っていたので、もちろん感謝したがちょっと食べあぐねていた。「チョコにはコーヒーがよく似合う」と言う彼女の父親の言葉に従い、アメリカンコーヒーで甘いチョコレートをいただいた。

 その孫娘は、近頃忙しい。バレンタインチョコを渡せなかった子のために橋渡しをしたり、昨日と今日は女の子同士での「お悩み相談」とかをやっていた。その彼女が食事の後、妙にニヤニヤして、拳骨を見せて親指を人差し指と中指の間から出した。「これどういうことか知ってる?」と得意そうに聞く。そこは年の功だ。「ウン知ってる。SEXのことでしょう。それがどうしたの?」と聞いてみる。どうも彼女の友だちの中にSEXにとても関心の高い子がいるようだ。「キスしたのか、これしたのかと聞くの」と話す。「まだ小学生だから、そんな子はいないのとちがう」と私。クラスの男の子の中に自分のチンチンをケイタイで撮って、女の子に送りつけてきた子もいると言う。「そのメールを警察に持っていけば、その男の子は犯罪者で捕まるよ」と私。少し脅しておいた。それにしてもそんな変態な子がいるとは驚いた。
 
 子どもを取り巻く環境は、私たちの子どもの頃とはすっかり変わってしまった。情報は確かに氾濫している。50年前、私たちが子どもの時はどうかと考えてみると、程度の差かなとも思う。あの頃だって、どこかからSEX写真を手に入れて見せびらかしていた子もいた。エロ雑誌だってあったし、SEXの手ほどきをした本もあった。そんなことを知っているのも私はしっかり見ているからだ。でも同じ歳の人に聞いても全く知らないという人もいるはずだ。その手のものに過剰に反応して、取り締まれと言う人がいるが、その人はきっと関心が強すぎて自分が怖いのだろう。人はある年齢になればSEXするのだから、SEXがどういうことかをそれとなく教えてやることの方が「健全」な気がする。
 
 これは大人になってからだけれど、私は『チャタレー夫人の恋人』を読んで、SEXはこんなにも素晴らしいものかと思った。しかしこれも、逆な意味で幻想かなと今は思うことができる。子どもたちが大人になっていく過程でいろいろとつまずくことはある。子どもが起こしてしまった事件を新聞などで読むたびに、大人がその時、優しい一言をかけていればそんな事件にならなかったのではないかと思うことがよくある。子どもは大人以上に残虐なところがある。それはまだルールがよくわからないからだ。お前の考えていることはとんでもないことなんだよと、初めから悪者扱いでなく、何気なく伝えれば、犯行に及ばずにすんだかも知れない。子どもの行動は意外に単純なのだ。

 孫娘は自ら、「(自分は私たちの)3番目の娘だから、失敗しないように子育てしているんだよね」と言う。私は、二人の子どもに私の価値観を押し付けてきた。認めるか否かは彼女たちの自由である。テニスがしたいと言えばやらせたし、プールに行きたいと言えば行かせた。ローラースケートもよく連れて行った。やりたいことは自由にやらせた。しかし私がダメだということは絶対ダメだった。彼女たちが中学生になるまでは、「ヨソのウチではいいのに」ということは許さなかった。「ウチはウチ。ヨソはヨソ」と言って聞かなかった。また箸の上げ下ろしや生活習慣、言葉遣い、人との接する時の態度など、口うるさく言って聞かせた。父親である私が何を大事にしているかを伝えることが親の役目だと考えてきたし、私の父親が私を一人の人間として認めて育ててくれたように、私も子どもたちをそのように育てようと思ってやってきた。孫娘が中学を卒業するまでは、あの子の親のつもりで接してやろうと思っている。
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