友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

甥っ子は日展作家

2007年02月16日 23時16分57秒 | Weblog
 先日、日展を観た。いつもなら甥っ子の作品を楽しみに出かけるのだが、残念ながら今年は入選していないと言う。甥っ子は彫刻家で日展にも何度か入選している。まさか自分の身内から日展作家が生まれるとは思わなかった。入選すればどこかの居酒屋で、親しい人たちが集まってお祝いの宴が行われる。何年か前に、この宴席で、私が学生時代にお世話になった恩師の息子が勤める大学の先生と一緒になったことがあり、そんな昔話をしたところ、その息子から電話があり、私が家庭教師をしていた恩師の長男と再会することもできた。

 日展は日本画も洋画も相変わらず見学者が多く、ゆったりと観られないほどだった。知人の作品を見つけては、「いつもながらうまいな」とか「昨年の作品から少し変ったかな」などと鑑賞させてもらった。甥っ子が出品している彫刻の部は、今年は展示の仕方が変っていた。その一品一品を観ていて、甥っ子の作品が通らなかったのも仕方ないように思った。今年の作品のレベルは高いと感じた。彫刻家は、画家のように作品を売って食べていくことはできないし、画家のように絵画教室で生活することもできない。彼は、パチンコ店に見られるような自由の女神やキリンとかゴリラのようなコマーシャルの置物の制作で生計を立てている。近頃は景気が悪いから経営は難しいようだ。

 芸術で飯を食うのは大変なことなのにどうしてそんな道を選んだのかと聞いたことがある。甥っ子は私が絵を描いているのを見ていて「かっこいいと思ったから」と言う。甥っ子が小学生の時、私は大学で絵を学んでいたが、まさかその時のことが彼の人生を決めることになるとは、恐ろしくもあり不思議な道筋でもある。私が美術を専攻したのは、高校3年の時に父親が死んだので、これで大学に行くことは無くなったと思ったその時、兄が「国立なら行ける」と言ったので、それじゃー美術をやろうと決めたからだ。その選択には何の根拠も無かった。絵描きになりたいというものではなく、とりあえず大学にいくなら好きにさせてもらおうか、そんな程度だった。

 日展の話に戻すが、彫刻の展示室で作品の解説を熱心にしてくださった作家がいた。率直な方で、何の飾り気も無く自分の作品と他の作品のことを話してみえた。私はそれを感心して聞いていたが、感動はその後にやってきた。解説が終わると人々はそれぞれに次の作品の鑑賞へと移っていった。一人になったその作家は、ひょっこんひょっこんと歩いてまたもとの位置に立った。ビックリした。多分、小児麻痺で身体が不自由なのだ。こんな身体の不自由な人が彫刻をつくることができるのか、彫刻は体力が要る、力が無くてはできない、それをこの人は見事にやってしまっていることに感激した。

 私は31歳の時に、左足と両手を骨折した。左足の膝は粉々に割れたので30度くらいしか曲がらない。短距離が得意で、体育科の先生と競っても負けないくらいだったのに、走ることはできない。左手は見た目には全く何事も無いのだが、手首が粉々になったので握力は小さく、手のひらを返すことができない。右手は中指と小指が根本で骨折しているので、棒のようなものをしっかり握ることができない。かろうじて筆や箸のような細いものは持てるが、太いものは力が入らない。私はもう絵描きではダメだとあきらめたが、この作家の姿を見て、なんと自分は甘ったかと思った。今から作家になることは無理だが、せめて甥っ子にはこの先も頑張って欲しいと思う。
コメント (1)
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