友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

NHKドラマ「だんだん」

2009年02月18日 20時39分32秒 | Weblog
 NHK朝の連続テレビ小説『だんだん』はそんなに興味が湧く作品ではないが、生活の習慣になっているから、つい見てしまう。『だんだん』の主人公は双子の姉妹だが、まだ乳飲み子の時に両親は離婚してしまい、ひとりは父親に、もうひとりは母親に引き取られた。父親の方は再婚して弟もできた。母親の方は祇園に戻り、母と娘は舞妓となって暮らしている。全く別々に育てられた二人が出雲大社で出会うことから、このドラマは始まった。

 設定そのものが何か現実離れしていて、私は興味がなかった。ところが今週の展開はさあどうなるのかと先が読めない。父親は、母親に再婚相手が現れ、かつて一緒に暮らした相手のことが心に蘇ってくる。そんな様子が結婚した妻にはよく見えるから、苛立ちとなり夫への不信となっていく。中学2年の孫娘は「こういうの、好き!」と言うが、我が家のカミさんはこういう男が嫌いだ。

 妻である嘉子は離婚届を夫の忠に突きつける。「あなたの心には真喜子さんがいる。私たちは20年も一緒に暮らしてきたのに、1年足らずしか暮らしていない真喜子さんに勝てない。苦しんでいるあなたを見るのはつらい。私がいない方がいい」と言うわけだ。「じゃあどうしろと言うのか」と忠は聞き返す。「真喜子さんは結婚する。わしはそれでいいと思っている。何が不満なのか」と腹を立て、「こうすればいいのか」と離婚届に署名捺印をしてしまう。

 今朝はここまでの進展だった。えっ、そんなことになってしまうの?先が読めないのは面白い。しかし、このドラマはおそらく双子の姉の方は介護福祉士となり、プロの歌手になろうとした妹の方はあきらめて祇園に戻って芸妓になり、姉妹は音楽バンド「しじみじる」を復活させるというものだろう。すると、両親の危機もいずれは納まってしまうのだろう。

 ドラマの中で腑に落ちなかったのは、キャバレーで歌う妹に対して「歌を続けたかったなら、舞妓姿で歌うべきだった」とか「祇園を捨てたと言うのに、プロ根性は祇園で身に着いたものではないのか」というセリフだ。NHKで歌っている歌謡曲の歌手たちもかつてはキャバレーなどで歌っていたはずだ。本当に歌手になりたかったなら、何をしてもよいはずだが、祇園に迷惑をかけてきた思いがあるのだから、舞妓姿では歌わないというのは彼女が最低限の義理を通そうとしていると理解すべきだろう。やめさせるよりも彼女の意思をなぜ応援できなかったのかと私には不満だった。

 もうひとつ、腑に落ちないのは今朝の展開だ。結婚した男だって女だって、好きな人ができることはあるだろう。心の中で思うくらいのことは目を瞑ってもいいのではないか。とことん切り詰めていけば人は生きていくことができなくなるような気がする。「愛しているならその証拠を見せて欲しい」と言われた場合、どんなことが考えられるだろうか。そしてまた、恋したり愛したりして、それでたどり着く先は何だろうか。さらにまた、愛の終りはどんな形になるのか。

 中学からの文学好きな友だちに、ドラマを書いてみないかと誘っている。私たちももうそんなには生きられないだろう。けれど、まだ考える力は充分にある。人はなぜ人を好きになるのか、恋することはどういうことなのか、そして人はどんな終りを迎えるのか、そんな物語を考えてみようと。
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