高校生の時、化学だったか物理だったか忘れてしまったが、「質量不変の法則」という言葉を聞いて、全てがわかったような気がした。地球がどのようにして生まれたとしても、あるいは人類がこの地球にどのような偶然か必然かは定かでないとしても生まれてきて、結局はそうだったのだと思った。それは「質量不変の法則」とは何かを科学的に証明できたということではない。化学も物理も苦手で成績はすこぶる悪かったのだから、授業を聞いて先生の言うことが理解できたということではなく、何かインスピレーションが胸にスーッと舞い落ちてきたのだ。
私たちがこの世に生まれてくるまでに、たくさんの人が生まれ死んでいった。草木も動物もそれこそ森羅万象、生まれては死んでいった。鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と言うが、命あるものもないものも、あらゆるものは変わっていく。同じものは何一つない。変わらないものは、宇宙が誕生した時にあった原子なのか素粒子なのかはともかく、形が変ってもその質量は変わらないのではないかとわかった。
私たちもいつかは死んでいくけれど、それはまた新しいものに変わるだけのことだ。この先、誤って人類が滅亡するようなことがあったとしても、それはまた新しい世界なのか宇宙なのかが誕生するだけのことだ。私が全てがわかったと思ったとしても、だからと言ってどう変わるということではなく、普通に暮らしてきた。普通に暮らすことがこの世に生まれた者の務めだと思ったのだ。普通とは、何もしないということではないし、並とか平均とかいうことでもない。並とか平均というのは結果であって生きている自分には知る術もない。
自分が関心を持つことを行い、理想社会を語り、一生懸命で働き、悩んだり悔やんだり喜んだり悲しんだりしてきた。おそらくあらゆることは必然だろう。出会いはもちろん、死もまたそうだろう。何一つおろそかにしてはならないだろう。再び同じことは決して無いのだから。こんな風に言うといかにも真面目に1秒1秒を生きているよう聞こえてしまうかもしれないが、現実の私は怠け者で自分勝手で思い込みが激しい普通の男に過ぎない。
もう一度、『ワイエス展』に行ってきた。先回と違って会場はそれほど混んではいなかった。私が初めて見たのは1974年に京都展だった。名古屋は素通りだったので、どうしても見たくて出かけた。ワイエスを知ったのは美術雑誌だったと思う。シュールリアリスムに関心の強かった私が一番好きな作家はダリだった。そのダリとは全く違うのに、ワイエスの作品を見た時、すごいと思った。ダリもワイエスも対象を写真以上に描く。写実的であればあるほど現実ではなくなる。確かにワイエスはダリのような世界を描いてはいない。身近にある何でもないものばかりを描いている。それでも私には超現実に見えてしまう。
私たちは時間に縛られた日常の中で生きている。これが現実だと言うが、いつかなくなってしまうものであるのに現実だといえるのだろうか。ワイエスの絵は写実的だが、どこか幻想の世界でもあると感じるのは私だけなのだろうか。現実の中の幻想、そして幻想的な現実。区分は見えない。
私たちがこの世に生まれてくるまでに、たくさんの人が生まれ死んでいった。草木も動物もそれこそ森羅万象、生まれては死んでいった。鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と言うが、命あるものもないものも、あらゆるものは変わっていく。同じものは何一つない。変わらないものは、宇宙が誕生した時にあった原子なのか素粒子なのかはともかく、形が変ってもその質量は変わらないのではないかとわかった。
私たちもいつかは死んでいくけれど、それはまた新しいものに変わるだけのことだ。この先、誤って人類が滅亡するようなことがあったとしても、それはまた新しい世界なのか宇宙なのかが誕生するだけのことだ。私が全てがわかったと思ったとしても、だからと言ってどう変わるということではなく、普通に暮らしてきた。普通に暮らすことがこの世に生まれた者の務めだと思ったのだ。普通とは、何もしないということではないし、並とか平均とかいうことでもない。並とか平均というのは結果であって生きている自分には知る術もない。
自分が関心を持つことを行い、理想社会を語り、一生懸命で働き、悩んだり悔やんだり喜んだり悲しんだりしてきた。おそらくあらゆることは必然だろう。出会いはもちろん、死もまたそうだろう。何一つおろそかにしてはならないだろう。再び同じことは決して無いのだから。こんな風に言うといかにも真面目に1秒1秒を生きているよう聞こえてしまうかもしれないが、現実の私は怠け者で自分勝手で思い込みが激しい普通の男に過ぎない。
もう一度、『ワイエス展』に行ってきた。先回と違って会場はそれほど混んではいなかった。私が初めて見たのは1974年に京都展だった。名古屋は素通りだったので、どうしても見たくて出かけた。ワイエスを知ったのは美術雑誌だったと思う。シュールリアリスムに関心の強かった私が一番好きな作家はダリだった。そのダリとは全く違うのに、ワイエスの作品を見た時、すごいと思った。ダリもワイエスも対象を写真以上に描く。写実的であればあるほど現実ではなくなる。確かにワイエスはダリのような世界を描いてはいない。身近にある何でもないものばかりを描いている。それでも私には超現実に見えてしまう。
私たちは時間に縛られた日常の中で生きている。これが現実だと言うが、いつかなくなってしまうものであるのに現実だといえるのだろうか。ワイエスの絵は写実的だが、どこか幻想の世界でもあると感じるのは私だけなのだろうか。現実の中の幻想、そして幻想的な現実。区分は見えない。