朝から孫娘のところに友だちが遊びに来た。孫娘が「お昼ご飯、友だち二人も一緒でいい?」と聞いてくる。孫娘は宅配ピザが50%オフというチラシを持ってきて、「友だち3人で部屋で食べるから」と言う。これならジジババに迷惑とはならないだろうという彼女なりの配慮だ。「いいよ、ここでみんなで食べよう。ピザでなくても食事ができればいいんだよね」と聞くと、「ウン」と答える。
友だち二人というのは、近頃よく遊びに来ている子たちで、一人は母子家庭でもうひとりは父子家庭だ。父子家庭の子が学校へ通えなくなり、担任から一緒に登下校するように言われて面倒をみるようになり、仲良しになったようだ。昔、中学の時に先生が「類が友を呼ぶ」と皮肉っぽく言っていたことを思い出す。「朱に交われば赤くなる」とも言っていたけれど、どうして悪いことのように使っていたのだろう。逆の場合はないのだろうか。
孫娘の母親である長女もよくお昼に友だちを連れてきた。その頃、私は主夫業だったのでその子の分までお昼ご飯を作って一緒に食べた。その友だちも父子家庭だった。おとなしくて無口な子で、話しかけてもほとんど話さなかった。中学になってからは一度も会っていないが、今はどうしているのだろう。不思議な縁で、その子のお父さんとは飲み友だちになり、昔の話も出る。「子ども同士、足が速くて、ライバルだったよな」とよく言われる。娘さんは近くに住んでいて交流があるように言われていたけれど、近頃はそんな話も出ない。
孫娘が友だちと3人でピザを食べたり、コンビニ弁当を食べたり、そんなことは絶対に許さない。食事をするならば、準備から一緒にした方がいいと思っていたら、カミさんが子どもたちを呼んで、それぞれに役割を分担させて手伝わせていた。食事の時間はテレビがついていたので、消してしまうかとも思ったが、そこまでしなくてもいいかと迷った。しかし、テレビを見てしまうのでやはり会話は進まなかった。失敗である。
食事の後片付けは子どもたち3人でやった。洗剤で洗う人、水洗いする人、タオルで拭いて並べる人。仕事の後を見ると食器は大きい順にキチンと並べてある。やればできるではないかと感心した。食器洗いをしながら3人が話していたことは、どうやら家族、母親や父親への不満であるようだ。ジジババは第3者であるのか、子どもたちのことを余裕のある目で見られる。親なら、「何を言っての、えらそうに!」となってしまうだろう。
我が家で食事をすることで、はけ口のひとつになってくれるならばそれでいいと思う。ワイワイガヤガヤやりながら、どうでもいいことが話題にできる、それが家族の食卓である。そんな場があれば、人は悪いことに走らない。見つめてくれる人がいる、わかってくれる人がいる、愛してくれる人がいれば人は幸せなのだから。
友だち二人というのは、近頃よく遊びに来ている子たちで、一人は母子家庭でもうひとりは父子家庭だ。父子家庭の子が学校へ通えなくなり、担任から一緒に登下校するように言われて面倒をみるようになり、仲良しになったようだ。昔、中学の時に先生が「類が友を呼ぶ」と皮肉っぽく言っていたことを思い出す。「朱に交われば赤くなる」とも言っていたけれど、どうして悪いことのように使っていたのだろう。逆の場合はないのだろうか。
孫娘の母親である長女もよくお昼に友だちを連れてきた。その頃、私は主夫業だったのでその子の分までお昼ご飯を作って一緒に食べた。その友だちも父子家庭だった。おとなしくて無口な子で、話しかけてもほとんど話さなかった。中学になってからは一度も会っていないが、今はどうしているのだろう。不思議な縁で、その子のお父さんとは飲み友だちになり、昔の話も出る。「子ども同士、足が速くて、ライバルだったよな」とよく言われる。娘さんは近くに住んでいて交流があるように言われていたけれど、近頃はそんな話も出ない。
孫娘が友だちと3人でピザを食べたり、コンビニ弁当を食べたり、そんなことは絶対に許さない。食事をするならば、準備から一緒にした方がいいと思っていたら、カミさんが子どもたちを呼んで、それぞれに役割を分担させて手伝わせていた。食事の時間はテレビがついていたので、消してしまうかとも思ったが、そこまでしなくてもいいかと迷った。しかし、テレビを見てしまうのでやはり会話は進まなかった。失敗である。
食事の後片付けは子どもたち3人でやった。洗剤で洗う人、水洗いする人、タオルで拭いて並べる人。仕事の後を見ると食器は大きい順にキチンと並べてある。やればできるではないかと感心した。食器洗いをしながら3人が話していたことは、どうやら家族、母親や父親への不満であるようだ。ジジババは第3者であるのか、子どもたちのことを余裕のある目で見られる。親なら、「何を言っての、えらそうに!」となってしまうだろう。
我が家で食事をすることで、はけ口のひとつになってくれるならばそれでいいと思う。ワイワイガヤガヤやりながら、どうでもいいことが話題にできる、それが家族の食卓である。そんな場があれば、人は悪いことに走らない。見つめてくれる人がいる、わかってくれる人がいる、愛してくれる人がいれば人は幸せなのだから。