友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

長女の新しい生活

2009年02月08日 20時51分24秒 | Weblog
 長女が新しく生活を始めることになった。中学2年の孫娘は当面、私たちと一緒に暮らすことになる。「ママが幸せになることが一番だと思う」と言う。どうしてこんな立派な大人のような判断ができるのだろうと感心してしまう。長女と先夫が別居生活を始めて5年くらいになる。家庭生活は忍耐が大事だというのに、理解してもらえなかった。離婚するまで長い期間かかったが、再び結婚するまでは短かった。

 「バツイチなのだから、何もあわてることはない。一緒に暮らしてみて、うまくやっていけると思ってから結婚すればいい」と、同棲を認めていたのに早々と入籍してしまった。夫となる人の家族の皆さんともお会いしたが、とても気さくで優しく思いやりのある方々だったので安心した。先夫もそうであったし、先夫の両親も気心が知れ、私たち夫婦はよい人たちと巡り会えた感謝していた。ところが本人たちはいったん隙間ができてしまうと、目をつぶろうとしないから、あんなに好き合っていたのにおしまいにしてしまった。

 完璧な人間なんていない。自分を見ればわかりそうなものだと思うのだが、相手が悪いの一辺倒ではなんともならない。ウチの女性たちは皆そうだけれど、完全主義者というか潔癖主義者というか、そういう目で相手を見るから、不完全や不潔がどうしても受け入れられないのだ。「私はこんなにも愛している。なのに‥」と相手に求めるものが大きいのだ。自分が思い描いた形があり、その形にならないことが気に入らないのだ。

 人間は誰もがそうなのかもしれない。もっと、もっと、自分を愛して欲しいし、自分に関心を持って欲しい。そう願うものだろうけれど、そういつもうまくいくものでもない。最近、暇に任せて読んだ唯川恵さんの小説『恋せども、愛せども』は、いくつになっても人は恋することから卒業できないこと、そこに人の苦しみがあるが喜びもあることを語っていた。相手に求めることは大変なリスクを負うことになる。求めることよりも与えることの方がまだ容易であろう。

 本当に愛しているなら、そう書いてから、本当に愛するってどういうことなのだろうと考えてしまった。もっと単純に相手が好きでたまらないのであれば、「痘痕も笑窪」が当たり前ではないだろうか。こうしてくれなかった、ここが足りない‥そんなに相手に不満があるというのは、自分の愛し方が足りないのではないのか。そんな風に考えてみて欲しいと思う。

 求めないで与える人になりなさいと子どもたちに言ってきたけれど、私自身もなかなかそうできないでいる。それでもやはり求める人ではなくて与える人になりなさいと言い続けようと思う。
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