友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

パソコン絵画

2012年06月06日 21時24分15秒 | Weblog

 友人が「パソコンを使って絵を描いている。その作品展を行っている」と言うので、見に行ってきた。パソコンで幾つかの写真や絵を組み合わせて、「絵」にしてしまう作品はあるけれど、パソコンを絵筆にしてどんな作品が出来るのだろうと思った。「パソコン画展」の作品はどれも素直なものばかりで、強く興味をそそられることはなかった。それでも、パソコンで絵が描けるとは不思議だ。この作品展では厚みのあるものは見なかったけれど、そのうち油絵も日本画も自由自在に描けるようになるのかも知れない。

 卒業生と話していて、「これだけパソコンが発達してくると、負けないためには精密画しかないね」と私が言うと、「もう精密画そっくりに描けるソフトがありますよ」と教えてもらった。「じゃあ、パソコンと勝負できるものは無いの?」と聞くと、「ジャクスン・ポロックやジャスパー・ジョーンズのような抽象画のようなものの方が描けないかも知れませんね」と言う。ポロックやジョーンズの作品はどちらか言えば偶然から生まれたもので、パソコンを使えばもっと幾通りにでも描き出すことが出来るような気がする。人が描く精密画は写真を越えた何かがある。精密画の好きな私としては機械なんかに負けたくないが、それは時代遅れなのかもしれない。

 高校のデザイン科ではデッサンを教えるよりもパソコンの方が重要になっているそうだ。確かに現実社会のデザインはパソコンを使って作品を作り上げているから、パソコンが操作できないと仕事にならないのだろう。でも、最後は美意識と発想がモノを言うのではないのかと古い世代の私は思う。美意識を育てるものは何かと言えば、やはり作品を数多く見ることだ。好きな作品を真似して描いてみるのもいい。これはすごいなあーと思う作品に多く出会うことで、審美眼も育ってくる。発想も同じで、これまでの作品を見て、何を狙っているのかを考えるうちに、こういうものはどうかという考えが湧いてくる。

 昔は絵画も彫刻も工芸も、神様に捧げるためのものだった。作品の創り手の名前が世の中で話題になるのは近世以後である。工芸作品に作者の名前が求められるようになるのは一番最後で、それだけ芸術としては認められていなかった。その風潮は今も色濃く残っていて、絵画は値段が付けらるのに、デザインは絵画よりも低いものとして扱われた。1品製作のものは価値が与えられるのに、何枚も出来るポスターの作品となると値引きを迫られる。それでも、人が自分の手で作ったものは、その過程でどんなに機械を駆使したとしても、芸術として認められている。写真を見て作品を作る作者は結構いるし、オーバーヘッドを利用して日本画を描く作者もいる。

 本当にパソコンに負けない絵画を描くことは出来ないのだろうか。

コメント (1)
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