友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「知る」ということ

2012年06月16日 21時06分24秒 | Weblog

 次回の大和塾の市民講座は7月28日(土)で、題名は『中国黄土高原 今を生きる農民たちの暮らしと風俗』。黄土高原に住み着いて7年になる日本人女性が写真を見せて話してくれる。先日、その写真展の開催をお願いに行ったところ、「大和塾がこのような企画をする意義はどこにありますか?」と聞かれた。大和塾は「市民による市民のため」の講座を開いてきたが、その内容は実に幅広い。宗教の話もあれば医学の話や物理の話、そうかと思えば旅行や介護の話、ピカソの話から目の見えない人の話、こうでなくてはならないといった基準はない。

 私は大和塾が生まれたいきさつを話し、「知る」ことが、人には、そしてまちづくりには、大事と思っていると説明する。医学や介護や旅行の話など、聞くことで生活に直接役立つこともあるかも知れない。物理やピカソのことを聞いても、ただ「へぇー」と思っただけかも知れない。それでも「知る」ことは、自分の生き方にどこかで糧になっていくだろう。人が勉強するのは直接的な利益ばかりでなく、自分が変わっていくためでもある。知らなければ、知っている範囲でしか考えられないが、知っているものが多ければもっと豊かに考えられるだろう。

 中国の上海や杭州を知ることもいいし、発展の波に取り残された地域を知ることもいい。9月にはエベレスト登頂の話を聞くが、わざわざ危険な目に遭うような登山に情熱を傾けるのか、なぜなのだろうと思うことも意義があるはずだ。人間は、いろんな人間がいて、いろんな生き方をしている。原発のことも増税のことも、政治のことも経済のことも、あらゆることが大事なことで、それをもう少し詳しく知りたい、そうした機会をつくっていきたいと思う。そしてさらに、全く別のところから、「知る」機会をつくっていくことも使命だと思っている。

 昨日は6月15日。1960年の今朝の新聞は、国会議事堂前で、安保条約に反対する全学連や労働組合と機動隊との衝突を1面全部を使って報じていた。東大生の樺美智子さんが亡くなったことも載っていた。前日のテレビニュースで、すごいことが起きているとは思ったけれど、何も知らなかった。それで、学校へ行くとなぜか騒々しかった。私は高校に入学したばかりだったが、新聞部の先輩たちは浮き足立っていた。この日ではなかったように思うけれど、全校集会が開かれ、どこかの新聞社の人の話を聞いた。私にとって60年安保はそれだけのことで、先輩らがどこかへデモに出かけることも無い静かな田舎の高校だった。

 高校生の夏に、東大へ入った先輩がオルグにやって来たが、私の友だちは誰も彼に関心を示さなかった。大学に入ると、60年安保の体験者というか生き残りがいて、2つに分かれていた。1つは深い挫折感に包まれていて、もうひとつはヘンに高揚していた。私はキリスト教に憧れながら信仰の道に進めなかったから、挫折感では通じ合うところがあった。別の大学へ行った高校の同級生がオルグに来た。「正しいもの」とか「正義」とかを彼が口に出すのでぞっとした。そんな絶対的なものは存在しないと否定すると、「革命が起きた時は、お前はトロツキストだから死刑だ」と言われた。トロツキストって何?それで本を読んだけれど、トロツキーに親しみを感じた。

 スターリンしか知らなければスターリン一辺倒になったかも知れない。人の持って生まれた感性がそうさせなかったのか分からないが、幅広い知識を持てば多少なりとも視野は広くなる。そういう人間でありたいと思う。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする