先日は急に友だちに呼ばれ、飲むことになってブログを休んだが、昨日も思わぬ展開でブログを休んでしまった。昨夜は同じマンションで親しくしている、娘さんが国立音楽大学に行っているお母さんから、「娘が出るのでぜひ見に来てください」と誘われ、『くにたちコンサート』に出かけた。これは分かっていたことだったので、ブログは夕方に仕上げるつもりでいた。ところが急に、映画『レ・ミゼラブル』を観に行くことになってしまった。
『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャン・バルジャンの名前はカミさんも知っていた。「銀の食器を盗んだ後、どうなるんだっけ?」とカミさんに聞くが、ふたりともよく覚えていない。「コゼットと幸せに暮らすんじゃなかった」とカミさんは言う。「レ・ミゼラブルっていう題じゃなかった気がする。『ああ無情』じゃーなかった?」とも。言われてみればそんな気がする。児童向けの世界文学全集か、そんな類のもので読んだように思う。
映画を観て、改めて原作者のビクトル・ユーゴーが何を書きたかったのか、考えた。貧しさのためにパン1個を盗んで囚人となったジャン・バルジャンは社会を憎んでいた。その彼が心を改めるきっかけとなったのは、キリストの愛であった。市長になったジャン・バルジャンは富と名声を手に入れていた。ところが、偽者が捕まり、ジャン・バルジャンとして裁判にかけらることになった。名乗り出なければ、これから捕まる恐怖から解放される。しかし、ジャン・バルジャンは再び囚人となる道を選ぶ。
ところが運命は彼を現実の世界に引き戻す。自分が助けられなかった女性の子、コゼットに出会ったことで、彼は生きる目的を持つ。愛して育てたコゼットが、やがてひとりの青年を愛するようになる。青年もコゼットに愛を抱く。青年は王制を打倒し、共和制を実現しようとする革命青年グループに属している。自分たちが蜂起すれば市民も立ち上がると、バリケードを築いて銃を手に王政軍と戦うが無残にも打ち砕かれてしまう。市民は固く扉を閉ざし、彼らを支援しなかった。
この場面は、1970年代の世界各地で湧き起こった学生たちのバリケート紛争を彷彿とさせる。ジャン・バルジャンはこの戦いの中で傷ついた青年を助ける。やがて青年とコゼットは結婚し、彼は身を引いてコゼットの幸せを祈りながら死んでいくという結末だった。物語の中では、ジャン・バルジャンを執拗に追い詰める警察官の存在が大きい。この男もキリスト教徒だ。法を守ることことは神の正義であると考えている。ジャン・バルジャンが罪と愛の人なら、この男は一貫した法の番人である。しかし、ジャン・バルジャンに助けられて彼の価値観は変わってしまう。
ビクトル・ユーゴーはキリストの愛、その実行である人の道を描きたかったのか、人が愛し合うことに生きる希望を見出したかったのか、フランス革命から王政復古へと変わる社会の悲劇を舞台に何を描きかったのだろう。さて、今晩は誕生日会の仲間との飲み会だ。神の愛も、人の道も、無縁ではあるけれど、しかし人の愛と生に溢れている。