東日本大震災から2年、昨日はどこのテレビ局も「大震災を風化させることなく、次の世代の人々に伝えていこう」と呼びかけていた。今朝の各新聞も多くのページを使って、震災2年目を取り上げていた。「くどすぎる」とぼやいていた人もいたけれど、何でも水に流してしまう日本人には、これくらいくどいことが必要なのかも知れない。死者・行方不明者および震災関連死と認められた人を合わせると2万853人にのぼるのだから。
阪神淡路大震災の時は、凄い揺れだった。3・11はそれに近い揺れだったけれど、やや小さく感じた。そのため、はるかに離れている東北沖での地震とは思わなかった。でも、しっかりとその時のことは覚えている。大津波と原発事故が無ければ、いや原発事故だけでも無ければ、これほど大きな複合災害にはならなかっただろう。人は一度大きな災害に見舞われると、2度と被災を受けないようにと対策を立てる。大津波の被災地である三陸海岸では、見上げるほどに高い防潮堤が何百キロに渡って造る計画である。巨大なコンクリート壁に囲まれた生活となると言う。
大災害を忘れてはならないし、災害を防止する対策は必要だろうけれど、ここまで極端な対策を本当にしなくてはならないのだろうか。念には念を入れて、入れすぎることは無いのかも知れないが、堤防は最小限でいい、被害に遭っても行政に責任を求めない。そういう生き方だってあってもいいのではないかと思う。アメリカへ旅行した時、ロッキー山脈で水も電気も無い暮らしをしている人がいたけれど、周囲を高いコンクリート塀で囲まれていては、息が詰まるのではないかと思ってしまう。
震災を契機に家族の絆が強まった人もいれば、家庭が崩壊してしまったという人もいる。原発のある福島県では、除染が行なわれているけれど、だからもう安全だとは誰も思っていない。原発の解体作業中に、さらに多くの放射線が放出される危険性もある。また、除染で出たゴミや解体で出たゴミ、原発の汚染水は処分も出来ずに山積みされている。持って行く場所がなければ、原発の地で一緒に埋め立てるしかないと思うけれど、そうすれば永久に「死の区域」となってしまうだろう。沖縄と同じように、なぜ東北が負うことになるのかと東北の人は納得しないだろう。
一生懸命に生きているのに不幸がやってきたり、優しくて心配りが行き届いた人なのに心配事が絶えなかったり、健康そのものだった人が突然に病に襲われたり、人の世は誠に不条理だ。しかしまあ、それこそが人の世であるならば、そこで生き抜く以外ない。新聞を見ても、テレビを観ても、笑顔がとってもいい人がたくさんいる。いい笑顔の人に出会えば、心も豊かになれる。