友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

雛祭り

2013年03月03日 18時20分47秒 | Weblog

 近頃、いろんなところで雛人形を展示している。犬山はお城の南にある城下町の風情が残る通りで、足助は三河湾でとれた塩を信州へ運ぶ「塩の道」の中継点で栄えたが、その中馬街道沿いで、雛人形を展示している。愛知県下でも、同じように雛人形を飾って町おこしをしているところがあるかも知れない。岐阜県美濃市でも、高山市でも、街道沿いに雛人形が飾ってあった。今日のテレビニュースでは、三重県関町の江戸時代の街道が残る通りで雛人形が飾られているのを報じていた。

 我が家は女の子ふたりだったので、姉の子どものお下がりを頂いて飾っていた。昭和30年代生まれの姪っ子の雛人形は5段飾りで、顔立ちも美しく、なかなか立派なものだ。今は長女が娘のために飾っている。団地住まいの時は、飾りたくても部屋が狭すぎたけれど、このマンションに引っ越してやっと日の目を見たのではと思う。3日の雛祭りが過ぎたなら、雛人形を仕舞わないとお嫁にいけなくなると言われたものだが、すぐに仕舞うのは惜しい気がして3月いっぱいまで飾ったような気がする。

 この言い伝えは、けじめをつけなさいということだろうと解釈している。いつまでも出しておくのではだらしがない。だからメリハリを付けなさいということだろう。我が家の娘たち、上の子は「30までは結婚しない」と言っていたのに24歳で結婚したし、下の子は「早く結婚して、子どもが学校から帰ったら一緒におやつを食べる」と言っていたのに、結婚したのは29歳だった。ふたりとも結婚できたから、雛人形を仕舞うのが多少遅くなっても大丈夫のようだ。

 私の子どもの昔はどうだったのか。妹がいるけれど、我が家で雛人形は見なかった。節句人形はあったと思う。私には13歳年上の兄がいたので、その兄のためのものだろう。金太郎人形や髭を生やしたショウキ様があった。刀も飾ってあったけれど、私が抜いて遊んでいたように思う。本家ではなく、材木屋の倉庫を改造して住まいにしていたので、子ども部屋などなかったから、私も妹も人形飾りとは縁がなかった。

 それでも父の配慮なのか、母の配慮なのか、分からないが、雛祭りには甘いお菓子が、節句祭りの時には柏餅や粽が食べられた。中秋の名月の時は、ススキと萩を取ってきて、団子と共に飾っていたから、そうした風習を大事にしていたと思う。お正月に部屋のゴミを箒ではき出したら、母から「お正月からはき出してはいけません」と叱られたことがある。母はかなり縁起を担ぐ人だったことを思い出す。今日から6日まで、カミさんは孫娘と沖縄旅行に出かけた。

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