友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

情けは人のためならず

2013年03月17日 20時21分18秒 | Weblog

 自殺する人が3万人を割ったという。それでも毎年、3万人近い人が自ら命を絶っていることに大きな変りは無い。朝日新聞の土曜日版の『悩みのるつぼ』でも、18歳の女の子が「なぜ自殺はいけないのですか?」と訊ねていた。この女の子は、机に死ねと書かれたり、教科書を捨てられたり、デブは2倍面積を取るから学費も2倍払えなどとも言われていた。毎日、今日はどんないじめを受けるのかと胸をナイフでえぐられる日々だった。「死ぬ気になれば何だって出来る」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬしか出来ないと打ち明けていた。

 回答者は評論家の岡田斗司夫さんで、結論から言えば、「あなたこそ問いに回答できる」とあった。岡田さんという回答者はいつもとても論理的で、先回も息子が「死にたい」と言うけれど、どうしましょうという母親の悩みに、「じゃーその時は、母さんも一緒に死んであげる」と言いなさいと回答していた。確かに息子は母親に止めてもらいたいだけで、母親の死まで願っているわけではないけれど、でも本当に心中になったらどうするつまりなのかと私は心配になった。

 今回の悩みについても、「私は死にたいと思った経験がありません」「でも、あなたは自殺したいと毎日思うような日々を生き抜きました。私よりも、ずっと突き詰めた言葉が出せるはずです。あなたにはその問いに答える権利がある。きっとあなたの言葉なら、私よりも多くの命を救える」と述べていた。実は私も自殺を考えたことがない。情けないことに、人を恨んで死んで欲しいと思ったことはあるが、自分で死にたいとは思わなかった。それだけ欲深いということなのかも知れないが、死は神が決めることだとの思いが強いこともある。

 たとえどんなに辛いことでも、生きていることは神が価値を認めているからで、価値がなくなればいつでもこの世を去らなくてはならない。他人の命を奪うことは許されないが、自分で自分にピリオドを打つことを私自身は非難しない。そうするのは神の意思かも知れないと思うからだ。神は誠に残酷で、善人だから助けるとか悪人だから罰することはない。全ては最後の審判にある。自分で考えたことが、全く神の意思にそぐわないことであれば、報いを受けることになるだろう。絶対である神の前では、人は全く小さなものでしかない。

 今日はカミさんの母親の妹のダンナの法要で出かけたけれど、お経は何度聞いても何を言っているのかさっぱり分からない。叔父さんは長く苦しむことなくこの世を去った。お人好しで世話好きな叔父さんには私も世話になった。人はよく「他人に甘えてはならない」と言うけれど、この歳になってみると、他人に甘えられるなら甘えればいいのではと思う。「情けは人のためならず」というけれど、助けられる人には助けてもらえばいいし、助けられるなら助けてあげればいい。

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