「そんなに泣けるのは仏様に近づいた証拠だよ」というのは、誰かのセリフだったのか、どこかで読んだ文章だったのか、覚えはないけれど、年取った証拠ではあることは確かだろう。NHKの「のど自慢大会」を勝ち抜いたグランドチャンピオン大会を見ていて、みんな歌が上手いと当たり前のことに感心し、「きっと子のことこの子がチャンピオンになるね」とその歌いっぷりに涙を流してしまっている。
今日はどうかしている。昨年の4月に友人でチェロの演奏者が急死したことをブログに書いたと思う。その友人の1周忌が行なわれ、集会に出かけた。彼の友人のチェロ演奏者がシューベルトのセレナーデを演奏してくれたりして、厳かな中にも彼の生き様が偲ばれる集会だった。最後に夫人が、彼との馴れ初めから、キリスト者になったいきさつ、そして素敵な思い出をいくつか語り、私は涙を流した。
ふたりは大学時代に知り合い、結婚を約束し、25歳で家庭を持った。しかし、それからは大変な日々だったと彼女は言う。彼は家を飛び出し、温かみを他に求めたようだ。幼かった息子までも「ママは自分が守るから」と父親に言ったそうだ。でも、男の私としては何となく彼の気持ちが分かる。彼は芸術大学を卒業し、いっぱしの芸術家になったつもりでいたはずだ。しかし世間はそんなに評価しない。その苛立ちがぶつけてはいけない妻に向かってしまったのだろう。
お互いに音楽家であるが故に理解できるはずが、逆に無いものねだりになっていったのかも知れない。破局寸前の彼女を救ったのがキリストの言葉だった。そして、冷たい目で見ていた彼もいつしかキリスト者になってしまった。彼のドイツ人の友人が集会で、「いくら聖書を勉強しても無駄です。信じるか信じないか、それだけです」と言うが、きっとそうなのだと思う。彼も当初は全く信じていなかっただろう。それがある時、突然にというか、ふっと湧いたように信じた。
『キリストの誕生』を書いた遠藤周作氏が同じようなことを書いていた。無条件にそう思える時があるようだ。集会でドイツ人の友人が「自分がいたらない者、不完全で不出来な者、そう自分を認めた時、神が見える」というようなことを話した。信仰とはそういうものだろう。自分の中に驕ったものがある人を、神は受け入れない。自分の無力を知る人こそが神に近づける。「貧しき者は幸いなり」というのは、金銭のことではなく、心のことなのだろう。
私はのど自慢に涙流せても、自分が愚かな人間であると知っていることを知る、しかしそれは傲慢な心で、決して白紙の心ではない。まだしばらく、私は神との問答を繰り返すだろう。「死に希望が持てた」と素直に言い切るにはまだまだ時間がかかりそうだ。