友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

先輩の嘆き

2015年10月13日 18時50分20秒 | Weblog

 井戸掘り作業は肉体労働なので年寄り向きではない。一息入れるために無駄口が多くなる。中学を卒業してすぐ九州から働きに来た人が言う。「名大といえば、この辺りでは一番難しい大学でしょう。そんな大学の子が何で人殺しをするんですか?学校の先生が甘すぎませんか?」と捲し立てる。「私らの頃は、ビシバシ殴られた。今の先生はよう殴らんでしょう。だから子どもに舐められるんです。指導要領に従って教えるだけで、子どもを見ていないですよ」。

 先輩の中にはこう言う人が少なくない。私の中学時代にも予科練帰りという先生がいて、「自分が殴った生徒は東大へ入った」と自慢していた。殴られてでもいいから東大へ行きたいという気持ちがなかったので、私はこの時、東大へ行かないと決めた。「ウチの子は殴ってくださっても結構です」と言う親もいるけれど、それを言うなら「まず親の私を殴ってください」と言って欲しい。痛いのは子どもなのだから。それに、殴らなければ分からない子を育てたのは親である。自分の責任を果たさずに、教師に求めるのは本末転倒である。

 「日教組が無責任な子どもを作った」と言う人もいる。現場の先生は子どもの一人一人を見ている。指導要領に従うのは学校教育の決まりであり、日教組もこれを逸脱することは出来ない。無責任な子どもや異常な子どもが生まれてくる背景は社会にある。戦後の何もない社会から、黙々と働き、富を築いてきたのは先輩や私たちである。映画『理由なき反抗』で、ジェームスディンが1リットルの牛乳をゴクゴク飲むのを見て羨ましいと思った。自動車を乗り回し、バスタブに入り、音楽を聴いて新聞を読む、豊かなアメリカに憧れてきた。

 私たちの子どもはアメリカ社会のような豊かさの中で育った。自分は中学しか出ていないが、子どもだけは大学まで行かせてやりたい。そういう思いで子育てをしてきた。子どもに与えられるものは出来る限り与えてきた。そして今、その子どもたちが育てた子どもが問題視されている。いろいろ診断され病名まで付けられ、子どもたちの方が「シンドイ」だろう。心が乾いてしまうことのないようにと思うのだが‥。

コメント
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