安城市の歴史博物館と埋蔵文化財センターおよび市民ギャラリーのある「安祥文化のさと」へ行ってきた。卒業生が「絵画サークルで作品を展示している」とハガキをくれたので、彼女に会えるかも知れないと思う気持ちもあって出かけた。彼女は別のサークル活動があり、会うことは出来なかったが、長女のダンナのお母さんに会い、一緒に見て回った。
『昔取った杵柄』という諺があるが、なかなか見事な作品だった。昔、こんなにうまかったのかと考えてしまう。教えていたのは私だから、私の教え方が悪かったのだ。昨日の彼も、今日の彼女も、絵を楽しんで描いている。そこがそもそも違うのかも知れない。サークルの紹介を読むと、会員は60歳以上とあるから、仕事や子育てから解放され、好きだったものに浮き浮きした気持ちで取り組んでいるのだろう。
「安祥文化のさと」は城跡を公園にしたもので、家康が9代目に当たると安城では言われている。家康の親族はこの辺りの豪族であったから、家康が安祥の出身という考えも間違いとは言えない。この辺りは台地が続き、窪みは沼となっていて米作りには向いていなかった。三河が尾張のような肥沃な土地ではなかったことが、徳川にとっては幸いしたのかも知れない。
家康が江戸に居を構えた時も、それほど肥沃な土地ではなかったが、川の流れを変え、新しく川を掘り、そうした土地改良事業を行う家来がいたことが、江戸を豊かにしたと聞く。歴史博物館では『北斎の富士』と題して、「富嶽三十六景・富嶽百景」展が行われていたので見てきたが、江戸から富士が見えたことがよく分かる。北斎の絵の構図は天才的で、浮世絵を見た西洋の画家たちを魅了した。
版画展を見るたびに思うのは、確かに北斎や広重は凄い、けれどその肉筆画を見て版を掘る人も凄いと思う。いや彫り師だけでなく摺り師も重要な仕事だ。彫り師や摺り師の職人技が無ければこれほどの作品は生まれなかっただろう。そういう意味では、日本の絵画である浮世絵は近代的な作業分担による作品だった。
ホールでは安城女学校で新見南吉さんも弾いたというピアノが設置されているところだった。長い間放置されていたピアノは見事に復元され、とても良い音色を放っていた。明日と明後日は、夏祭りの慰安旅行のためブログを休みます。