友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

心中妄想

2015年10月16日 19時55分50秒 | Weblog

 風がなく暑ささえ感じながら、一日中ルーフバルコニーで鉢の土の入れ替え作業をした。黙々と作業をしていると妄想の世界に入っていく。『曽根崎心中』で近松は「恋の手本となりけり」と結んだ。角田光代さんは『曽根崎心中』のパンフレットに「愛しかたも、死にかたも、自分で決める」と書いた。単なる同情や行きがかりで死ぬのではない、愛を成就させるためという強い決意が分かる。

 心中を美しいと思うか否かは人それぞれだろうが、日本だけでなく西洋でも心中事件はある。死しか選択の余地はないのかも知れないが、「死んだ気で生きられないのか」と思う私は臆病なのだろう。それでも一緒に死んでくれる人がいるのは嬉しい気がするが、本当に自分のために死んでしまっていいのかとやっぱり考えてしまう。

 心中といえば太宰治を思い出す。この人は何度心中を図ったのだろう。太宰の心中は愛を成就させるものとは思えない。どう見ても相手を巻き添えにしている。太宰はハイテンションの時と落ち込んだ時との落差が大きく、次第にコントロールできなくなっていったと思う。それでも、そんな太宰に女性たちはなぜ「一緒に死んでもいい」と思ったのだろうか。

 朗読の第1部は、角田光代さんの『口紅のとき』を7人の女性が輪読した。「谷崎、そう言っても若い人は知らないか」という言葉がなぜか心に残った。谷崎は女性の足に執着していた。ほっそりとした色白の足は湿り気があった。美術教室に置いてあった女ギリシア女性の足首の石膏像のように美しい。ひんやりとして湿っぽい白い足首に触ってみたい。

 昨日に続いて明日も井戸掘り。昨日は5.5メートルまで掘れたけれど、4.5メートルで出てきた砂から再び黒い泥土になった。先輩はいつも楽観的だから、「いよいよあと1メートルも掘れば完成だ」と言うが、そうだろうかと嫌な予感がする。愛の成就も、井戸掘りの完成も、実は思ったよりも難しい。明日が良い日になりますようにと祈るばかりだ。 

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