「看護婦さんがいちばん偉い」というエッセーを読んで、これを書いた人の気持ちはよくわかった。私も長期入院したことがあり、看護婦さんの笑顔に助けられた。今、看護師や介護士あるいは保育士が足りないと言われている。労働時間の問題もあるが、仕事がハードなのに賃金が低いことが最大の原因である。私も少しの期間だったが、介護施設の手伝いをしたことがある。働く人は世話をすることが嫌いでは絶対に勤まらない。
「医者や法律家や一等航海士…それぞれ難しい試験に合格した人だから偉い。しかし、看護婦さんはそれ以上に偉い。この世で最高の地位と収入を約束してあげてもいい」と筆者は言う。私も看護師や介護士あるいは保育士の賃金は引き上げるべきだと思う。商品を生産しているなら、原価がいくらで投入された金額がいくら、儲けがいくらと計算は出来るだろう。けれどもサービス業は決めようがない。
商品だって同じだろうが、結局は需要と供給のバランスで報酬も決まっていく。首長や議員や公務員の給与は、まあこのくらいでと感覚で決まってしまう。給与はそれぞれが生活できればそれでいいはずだ。人間社会の営みが富を生み出しているわけで、高額の給与の人もいれば低い人もいる。それでも富の配分を上手に行えば、みんなが生きていくことは可能である。福沢諭吉の「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を聞いた時、これが人間社会だと感銘を受けた。
だから、「職業に貴賤なし」も福沢諭吉の言葉とばかり思っていたが、実は福沢より前、江戸時代の石田梅岩という学者の言葉だった。梅岩は町民出身の儒学者で、「士農工商の階層は社会的職務の相違であり、人間の価値の上下・貴賤に基因しない」と述べた。「武士が治め、農民が生産し、職人が道具を作り、商人が流通させる」という訳である。商人の役割を評価したのは、商人は自らの手で何かを生み出すこともせず、金銭のやり取りだけで儲けていると卑しむ風潮が支配的だったからだろう。
どんな職業も、人間が必要としたから生まれた。得る金に差はあっても、職業に「偉い」「偉くない」は不適切な表現なのだ。職業で得る金に「差」が生まれるのは仕方がない。問題は「差」をどのようにして小さくするかにある。みんなが生きていくための工夫、仕組みをどうするかにある。