友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

あしびきの山鳥の尾のしだり尾の

2016年08月25日 18時19分35秒 | Weblog

 もうすぐ秋だというのに、暑さは少しも収まらない。それでも朝、ルーフバルコニーに出てみると花たちに真夏の勢いはない。強風と熱射で花も葉も痛んでしまった。いったん傷ついた花や葉は蘇ることはなく朽ちていくしかない。どんなにしつこくしがみつていたとしても、やがて時が迎えに来る。

 秋は草木が冬に向けて準備にかかる。花も春と同じように咲き揃う。いや、春以上に花が多いと言う人もいる。それなのに、秋が深まるとなぜか淋しくなる。人恋しくなる。秋の夜長の寂しさを詠った柿本人磨の歌を思い出す。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む」。

 「あしびき」は山の枕詞だから意味はない。次に山が続くと思えばいい。声を出して長く詠えば、枕詞だから山が連想できる。「山鳥の尾のしだり尾の」もキジの枝垂れた長い尾のことで、山鳥はキジのことだ。ここまでは全て「長々し夜」を導くための言葉だが、非常に巧みで語感もいい。さすがに名人といわれる柿本人磨である。

 従って、歌の意味は「長い夜をひとりで寝るのは寂しい」ということだが、ここからどう想像の世界を広げていくかは受け取る人の自由である。加藤登紀子の『ひとり寝の子守歌』(「ひとりで寝る時はよぉー膝小僧が寒かろう おなごを抱くように温めておやりよ」)は、獄中の恋人を想って作った歌のようだが、彼女自身の願いだったかも知れない。

 独り寝の悶々とした様を「恋愛小説じゃーなくてエロ小説だ」と評した人もいるが、西洋人の倫理観が入って来るまでの日本には恋愛と性行為を区別する考え方はなかった。キリスト教は罪と愛に縛られているが、日本人は恥と欲から世間を見ていた。和歌は言葉遊びであり、相手を口説く手段であったから、現代の日本人から見るとエッかも知れないが、見事に昇華されていると思う。

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