友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

文章のクセ

2018年01月18日 16時24分03秒 | Weblog

 あったことをあったまま書けばよいのに、ただ描写するだけでは自分が書いた気になれなかった。あったことをあったままと言っても、そこには書き手の取捨選択が働いている。まず、何を扱うかに始まり、どう結ぶかまで、書き手の思いが文章に現れる。新聞のような「客観的に書く」ことが求められているものでも、書き手の主観がどこかしこに存在する。文章とはそういうものだと思う。

 小学校6年の時、私は児童会長として、その頃は国鉄と言っていた電気機関車の運転席に乗せてもらった。電気機関車がいかに速いかを理解し、線路で遊ばないようにというキャンペーンのためだったと思う。自分が体験したことを全校集会で話しなさいと言われ、「自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたことを話します」と言ったことを、顧問の先生はとても褒めてくれた。

 自分の目で、自分の耳で、という表現方法はそれからズーと続いている。高校の新聞部で記事を書く時も、客観的に書いているようで実に主観的だったと思う。それでも学校への批判ばかりではなく、好きな女の子への告白のつもりで書いたものもある。文学研究クラブが発行していたものに書いたいくつかは彼女へのラブレターだった。夜の河原に咲く月見草の群生の美しさは自分しか知らない、あなたの美しさはボクしか知らないと詩に書いた。

 文学研究クラブがガリ版刷り出だした冊子のなかに4人の修学旅行記があった。この時は松山から宮島に渡る船旅が最も印象に残るはずだった。何しろ台風が接近していて船は大揺れで、男子はバランスを取るため甲板に出て傾きそうな側に立った。全身びしょぬれになりながら、無事に港に着いた時は達成感で一杯だった。これを書いたのはKだけだった。

 中学からの友だちは、当時はかなり文学青年気取りだったから、「船内のじゅうたんの上でトランプをしていた。その時の私は、ある意味では最も現世的な人間の欲望のとりことなり、又ある意味では最も太古的な一個の動物としての人にたちかえっていたのかも知れない」と書いている。私は初恋の人とのわずかな会話と、二人で帰ろうと話したのに実現しなかった寂しさを小説風に書いている。

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