母は私が高校1年の夏に亡くなった。中学3年の頃から、具合が悪いようだった。材木屋の倉庫を改造したかなり広い部屋を教室にして、洋裁や編み物を昼と夜に教えていた。仕立てを頼まれて、洋服や和服の縫物もしていた。休んでいた時がなかった。
疲労から病気になったのかと思っていた。私の高校入学に合わせて、父は日当たりの良い一軒家を借りたが、それは母を休ませるためだった。けれど、母の具合は良くならなかった。やがて名古屋の日赤病院に入院し、手術を受けることになった。
病名は胃癌だった。手術を受ければ回復するのかと思ったが、日毎に痩せていった。ふっくらとした顔だったのに、小さな顔になり、最後の頃は骨と皮だけ身体になっていた。夏休みは病院へ見舞いに通った。
いよいよ最期という頃に、母の母であるおばあさんが見舞いに来て、「親のワシよりも先に逝くのは親不孝だよ」と泣いて呼び掛けていた。母は姉に、妹のことを「頼むね」と何度も言っていた。妹は中学2年になっていたのに、その時のことを話しても、「覚えていない」と言う。
母の手作りの服を着て、学校へ行っていたことも、「覚えがない」と言う。どこにも居場所が無くて、嫌な時期だったのか、自分の記憶から消し去ってしまっている。随分可愛がってもらったのにと私は思うけれど、本人には楽しい思い出が無いのだろう。
母が病室で息を引き取り、家に連れて帰ることになった時、ベッドから私が抱きかかえて降ろした。啄木の歌に「たわむれに母を背負ひてそのあまり軽さに泣きて三歩あゆまず」がある。私は力んで持ち上げたつもりだったが、余りの軽さにビックリした。そして、病室に戻った時、先ほどまで寝ていたベッドは白いシーツしかなく、涙が溢れて止まらなかった。