友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

冊子『微笑仏に拝まされる私』

2020年05月16日 18時18分51秒 | Weblog

 市民講座を行ってきた先輩であり住職である仲間が、春彼岸の中日に倣木喰仏を勧請し開眼法要を予定していた。ところが、新型コロナウイルス禍の予想外の広がりでやむなく延期したので、その時に配布しようとしていた冊子を届けてくれた。

 『微笑仏に拝まされる私』と題したその冊子は、A4判60ページで木喰仏に魅せられた経緯が書かれてあった。小学校の校長を務められた先輩は、寺の子であったこともあるのだろうが、仏教の教えや信心について、悩み模索してきた過去を窺い知ることが出来た。

 先輩が若き頃に知った民芸運動との出会いが大きく影響しているようだった。この地方には円空仏が多く残されている。確か、先輩の寺にも円空仏があったと記憶している。先輩はそうした仏像や焼き物のなどの古物に関心があり、「趣味なのか礼拝の対象となる信仰なのか」と悩まれた。

 民芸運動のリーダーであった柳宗悦氏が木喰の地蔵菩薩を見て言った、「美醜不二に達している」に心動かされた先輩は、「私流に広げれば、趣味も信心も、言葉の世間的な意味から言えば背反する別種のものだが、じつは同じ物の表裏にすぎない。その二つは全くの別物ではなく、見る方向が違っているだけ」と悟られる。

 円空は江戸時代初期の人であるが、木喰は後期にしかも60歳を過ぎてから仏像を彫り始めている。円空と木喰に共通する作風は、1本の木から彫り出しているだけでなく、顔を見るとなんとなく微笑んでいるところだろう。おそらく一般庶民が親しみやすい仏像を意識したものだと思う。

 冊子の後ろの方に、「落語に見る江戸時代庶民の信仰(信心)」が掲載されている。そんなところにも先輩の仏教への理解というか思いやりのようなものを感じた。冊子に小島梯次氏の名前を見つけ、今から30年も前になるが、私が発行していた地域新聞に円空仏について寄稿してもらったことを思い出した。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする