友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

いる場所がない

2007年10月29日 16時56分00秒 | Weblog
 バンコクから先に一人で帰って来た下の娘がポツリと言う。「やっぱり自分の家とは違うのね」。娘が使っていた部屋は、2室をぶち抜いて1室にし、応接間と私の仕事部屋にしてしまった。そこで、彼女たち夫婦が来た時はこの部屋を明け渡している。いうなれば我が家では一番よい部屋なのだ。「友だちも、『実家に帰ってもいる場所がない』と言っていたけど、本当にそう思う」とも言う。おいおい、それでどうしろと言うのだろう。

 家を出た子どもがいつ帰ってきても昔のまま生活できるほどに日本の家には余裕は無いのではないか。もちろん、昔の田舎の家屋ならばそんなことも考えられないわけではないが、そう思って母親の在所のことや、父親の実家の材木屋のことを思い出してみても、そんな家のつくりにはなっていない。昔の家には家具や電化製品というものがないから、畳と押入れのある6畳や8畳の部屋がないわけでもないが、そうした部屋であっても何かで使われているはずだ。

 下の娘が不満があって言うのではないのだが、親としてみると、もう少しなにかやってやれないか、と思ってしまう。家を出るというのは、新しく家を構えるということだ。そこが自分の居場所であり、陣地であり、安らぎの場である。自分の家ならば何も気兼ねすることなく、裸でいようといつまでも寝ていようと、それは勝手なことだ。しかし、たとえ実家であってもそうはできない。嫁に行くということはそういうものだ。

 まだ嫁は自分の実家だからよいが、婿さんはどんなに気さくな家族だといっても気を遣う。私は、高校生の時に両親を亡くしたから、カミさんの実家に行くのは楽しかった。頑固で偏った考え方の人だとは思ったが、カミさんの父親と話したりお酒を飲んだりすることは楽しかった。むしろ、父親の方が私に気を遣っていると充分に感じていた。カミさんの母親とはカミさん以上によく話し、何でも相談されたので、力になってあげなくちゃーという気持ちが強かった。

 娘たちと話していると、本当に自分によく似てきたと思う。特に長女は独断的で、遠慮会釈なく言い切るところはまるで自分を見るようでイヤだ。次女は、細やかに気を遣うわりに、親しすぎる人には甘えが生まれるところはまるで自分を見せられているようだ。カミさんが「あなたは気遣いの人だと他人は言うけど、全く気遣いができていない」と私を非難するが、彼女の言い分は的を射ている。私は家族に対してはワンマンな独裁者で、自分の考えを押し付けるし、受け入れられないとなると口もきかない。

 下の娘は、今晩は友だちの家に泊まるという。「3日の結婚式には着物で行くから用意しておいて。できなければ洋服で行く」と吐き捨てるように言う。あのね、もう少し可愛く言えば、母親も気持ちよく準備ができるのに、そういうところが配慮に欠けるよ。どんな風に言ってもやってもらえるというのは甘えなんだよ。そういってやりたかったけれど、母親は「ハイハイ、準備しておきますよ」などと言う。私に言う時と娘に言う時では随分差がある。母親というものはそういうものなのだなと思う。だから安心して甘えられるのだろう。

 下の娘のダンナが来るのは11月1日だそうだ。おーい、早く来てくれ、そうじゃーないとまたあなたのヨメさんと口論になりそうだよ。
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