友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

死刑は廃止を

2007年12月08日 18時47分07秒 | Weblog
 「法務大臣が署名しなくても、自動的に死刑執行ができる方法はないか」と発言した鳩山邦夫法務大臣が7日、死刑囚3人の死刑を執行したとして、その氏名を公表した。鳩山大臣は衆議院の法務委員会で「死刑が適切に行われているかを被害者、(死刑囚)の親族、国民が知り、理解する必要があると考え、一定限度の公表をしようと私が決断した」と説明している(8日付けの中日新聞)。

 殺された被害者の家族が極刑を求める気持ちはよくわかる。私は、たとえどのような理由にしろ、人を殺したならばその殺人者は極刑にすべきだと思っている。だから戦争で人を殺した人も、相手が殺そうとしたから殺したという正当防衛という殺人も、とにかく人を殺したならば、殺した人数に関係なく、極刑に服させるべきだと思っている。

 極刑は一番重い刑である。現在の日本の制度では死刑であるが、死刑は廃止しなくてはならない、と私は思っている。先にも述べたが、殺人を犯したものは極刑にすべきだということ、どのような殺人も同じだということ、だから死刑執行もまた殺人である。それは許されないというのが私の考えだ。この殺人は悪いが、この殺人は良いなどと、人間が本当に決めてよいのかという思いが私の中にはある。

 私が聖書を読んで一番驚いたのは、「右の頬打たれたなら左の頬を差し出しなさい」であり、姦淫を犯した女に対し、群集がキリストに裁きを求めた時、「あなた方の中で罪を犯したことの無い者が石を持って女を打ちなさい」という箇所だった。前者は自分を打つ者に対する攻撃的なまでの愛であり、後者は人間には人を裁く資格はないことを明らかにしている。

 よく言われることだが、法の秩序があるから、罪を犯さないかといえば決してそうではないだろう。飲酒運転のような明らかに自ら違反行為をしているという自覚があるから、罰金が30万円と引き上げられ、「もったいない」ので飲酒運転はしない。しかし普通、犯罪はこの行為は何年の実刑に当たるということを知らずに行われるケースがほとんどであろう。5年はいやだが3年ならと罪を犯す者はいないだろう。

 ましてや人を殺すということになれば、本人以外には推し量れないものがあるかもしれないし、全く短絡的な殺人だってあるように思うけれど、どのようなケースも極刑にするというのが私の考えだ。人殺しをして、わずか10数年で釈放されるということも私には理解できない。人を殺してしまった罪は、長い年月をかけて償うことが大事だと思っている。罪を犯した人が再び社会で、一人の人間として生きていけるためには、もちろん社会自体が受け入れる基盤がなくてはならないが、社会に戻った人も別人に生まれ変わっていて欲しいと思うからだ。

 「私の友人の友人にアルカイダがいる」と発言して平気でいる鳩山大臣は、とても普通の神経の人とは思えない。こんな人が法務大臣を勤めている国は悲劇だと思う。しかし、全権を委任したわけではないが、自公政権を選んだのも国民自身であることも確かだ。こういう人を選ばない、国民の智恵が本当に必要だ。

 ところが、8日付けの朝日新聞には「死刑執行」の記事はどこにもない。やはり朝日新聞はダメになったとまた思ってしまった。
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政治の構図

2007年12月07日 23時30分13秒 | Weblog
 自分が聞きたい講演会があるのだが、果たして席があるのかわからない。そんな不安がある時、人はどうするか?また、演劇なり音楽会なり、自分が主催して行う、あるいはそのための練習場所を格安に確保したい。そんな望みがある時、人はどうするか?大方の人の答えは議員や行政の幹部または首長にお願いするというものだった。国家にしても小さな自治体にしても構図は同じだなと思った。

 どうして議員にそんな力があるのか?実は力なんか無いが、役人の側がうるさいから聞いてやっているに過ぎない。過ぎないが、確かに議員に頼めばできることはある。あるから、その議員を応援し、当選させ、自分のためにも使いたいと思うようになるのだ。この構図も全国どこも同じで、国会議員も村会議員も全く同じだ。
国会議員に直接個人的なことを頼みにいくケースは稀だろうけれど、地域ぐるみ団体ぐるみ企業ぐるみであれば、よくある話だ。ここから議員の系列化も生まれる。

 「それって、結局は私欲なのじゃーないの?」「国会議員が利権に群がっていると批判するけれど、そういう政治家を支えているのも有権者、つまりは自分たちなんだから、これでは政治は変らないね」「国会議員ばかりを問題にするけど、もちろん族議員といえば大きな利権が絡むから、地方議員なんか問題ではないかもしれないけど、利益のおこぼれに預かろうとするのは、同じじゃーないの?」「政治はみんなの幸せを実現することなのに、自分の利益を優先することになるんだ」

 首長は文化活動に理解があるというので、いろいろな面で首長に応援してもらったならば、首長から逆にお願いされたなら断れないし、選挙では1票を投ずることになっていく。自分たちの考えを代わって実行してくれるということと、自分たちの利益を優先してもらうことは違うのではないか。こうした民主主義の弊害を克服するためには、全てを公開して、誰でも意見を言うことができる仕組みが必要だ。それは、利益が偏らないためだ。

 行政は最大の権力者である。議員は権力者の末端にいるに過ぎない。行政のトップの座に就くということは大きな権力を掌握するということだ。だが権力を行使する側も、いつ何時その座から引きずりおろされるかわからない。本来はそういう仕組みになっているはずなのだが、実際に座に就けばあらゆる手段を講じて守ろうとするし、また甘い蜜を求めて守る側に擦り寄ってくる人たちもいる。それでも引きずりおろされることがあることを保障することが大事だと思う。

 行政が公正・公平であるためには、市民のレベルアップが必要だが、市民がレベルアップするためには、何をどうすることなのだろうか?
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チューリップへの思い

2007年12月06日 23時09分33秒 | Weblog
 今日、暖かかったのでチューリップの球根を全部植え込んだ。球根は宅配してもらう。このところ500球を買い求め、100球は昨年のチューリップの球根を使っている。しかし、今年は保存の仕方が悪かったようで、取っておいた球根がフヤフヤになっていた。手に持ってみて比較的硬そうな球根だけを残して後は捨てた。もったいないけれど多分芽が出てこないだろうと判断したのだ。

 チューリップを育ててみようと思ったのは、地域新聞を作っていた時だから15年以上にもなる。社員の女の子が「チューリップを見に来ませんか」と誘ってくれたので、みんなで出かけた。家の畑がチューリップで埋め尽くされ、それは見事だった。我が家はマンションなので彼女の畑のようには咲かせられないが、鉢植えでやってみようと始めたのがきっかけだった。13号鉢を少しずつ、買ってきては増やし、とうとう大小合わせて50鉢近くなってしまった。

 植え込むことよりもその前の、鉢の土の入れ替えが一番大変だが、大きくキレイな花を咲かせるためには努力しなくてはならない。労力もいるが土作りのお金もいる。球根も大きなよいものが欲しいのだが、「この安い方が値打ちじゃない」とカミさんが指示するので、最も安いが球根の大きいものを選ぶようにしている。平成23年までにはマンションの屋上の防水工事が行われる。その時は、この鉢もどこかへ移動させなくてはならない。今から頭が痛い。

 春に、チューリップが咲き揃うと友人たちを呼んで、花見をする。暖かな日ならばイスを出して、花を見ながらコーヒーを飲むのだ。せっかく咲いても人が見てくれないのは寂しい。花が見ごろなのは桜と同様に1週間しかない。それでも、のんびりと花を眺めながらコーヒーを飲み、談笑するのは至福の時間だ。苦労したことも忘れてしまう。

 今年のチューリップ鑑賞会の時は天候が悪く、居間からの鑑賞となった。たまたまお酒のつまみにピッタリのものを持ってきてくださった方があり、我が家にはワインもあったので、チューリップを見ながらコーヒーを飲むはずが、どうしたことかワインでチューリップを楽しむ会に変ってしまった。しかしワインとチューリップもなかなか捨てたものではなく、話はかなり盛り上がった。

 来年の春が楽しみだが、我が家が残しておいた昨年のチューリップの球根が本当に花を咲かせてくれるのか、ちょっと心配している。やはり新しい球根を買ってきて植えつけた方が間違いなく花が咲くだろうが、あのフヤフヤになってしまっていた球根が花をつけるなら、これからも古い球根でも捨てたものではないということになるだろう。

 私は花を咲かせるためにどんな努力も惜しまないが、花が咲いたならたくさんの人に見に来て欲しいと願っている。一人で楽しむよりも大勢で楽しみたいと思うからだ。楽しみや喜びはみんなで、悲しみは自分一人でというのが私の考えだ。さてさて、来春が楽しみだが、もうすぐクリスマスがやってくるし、これが済めばお正月であり、お正月が済むと私が大切に思っている人の誕生日がくる。
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言いたいことを言う連中

2007年12月05日 22時15分52秒 | Weblog
 美しい紅葉を見せてくれていた木々が、昨夜からの強い雨風で早くも丸裸にされている。11月の終わりにやってきた急な寒さのせいで、今年の紅葉はキレイだった。真っ赤なモミジも真っ黄のイチョウも見る者の心を豊かにしてくれた。落ち葉を踏みしめながら、他愛もない会話をする。そんな何でもないことに心が震えるような喜びがある。

 今日は大和塾の例会で、初めて郊外に出て皆さんで昼食をともにした。なかなかしゃれたお店で食事の内容もよかったし、値打ちだった。私や戦後生まれの者が出された食事を全部平らげたのに、子ども時代にひもじい思いをして育ってきたはずの人たちが食べ残している。「出されたものは残さず食べなさいと言われませんでしたか」と冷やかすと、「食が細くなってしまって食べきれない」と弁明された。

 豊かな時代の中で薄らいでいく戦争体験。70代の方が子どもの頃に、お年寄りから日清・日露戦争の話を聞かされたそうだ。それは40年ほど前のことなのだが、随分昔のことのように思っていたそうだ。今から40年前といえば、大阪万博の頃のことだ。「戦後は遠くなりにけり」と誰もが思った時代である。日本でアジアでたくさんの人々が“死”に直面していた時代からわずか20数年後である。私も戦争は全く知らない。「風化させてはならないね」という話は出たが、どう伝え、どう考えていくのか、課題だけが残った。

 それでも大和塾はよいメンバーに恵まれた。人の世について、この社会について、いろんな話ができることに感謝したい。「大和塾を発展というとおこがましいけれど、継続させていくことが大事だね」と長老が言ってくださる。続けていくことで、新しいことも生まれてくるだろうと私は楽観している。お金を稼ぐとか、選挙とか、そうした何かの目的があるわけではない。気楽なものだ。自分がしたいからする、楽しいから続けている、それだけだ。

 「自分の楽しみのために人を巻き込むな」と言う人がいるかもしれない。私は美味しいものも自分ひとりで食べるよりはみんなと食べたい方だ。おすそ分けという言葉があるが、分けてあげたいのだ。イヤなら食べなくていいし、大和塾の講演会もイヤなら参加する必要はない。私は、これは価値がある、このことは考える必要がある、人の社会はこうあって欲しい、そう提案はするが、押し付けるつもりはない。提案する自由があるように拒否する自由もある。

 野球をやるのが好きな人が仲間を集めて呼びかけるように、私たちもワイワイ話すことが好きなので皆さんに呼びかける。そういう人間をなくしてはならないと思っている。自由人の自由な発想と自由な企画・運営は、行政や損得に関係する団体ではできない。「言いたいことを言っている連中」が存在できない社会になってはならないと思う。
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コミュニケーションエラー

2007年12月04日 22時19分25秒 | Weblog
 中学1年の孫娘は、水泳が大好きで毎日プールに通っている。中学生になって学習塾に2日通うようになったから、その日はプールが終わると車の中でお弁当を食べ、それから学習塾に行く。お腹の空いている時に短時間で食べるから、その効果が出てきた少し太ったのか、母親から「ダイエットしないと記録は伸びないよ」と言われたようだ。

 孫娘はお弁当作りを楽しんでいるカミさんに「ママちゃん、おにぎり1個でいいからね」と言う。次の日にカミさんが渡してくれた弁当の袋を見て驚いた。小さなおにぎりが2個とミカンが2個入っているだけだ。「あのさ、これ違うんじゃない」と言うと、「おにぎり1個にして!と言ったわよ」と答える。私の受け止めでは、母親からの注意を受けて、おにぎりは1個にしようということだったが、おかずまで不要ということではないように思った。

 小さなおにぎり2個とミカン2個の弁当の袋を孫娘に渡す。孫娘は袋の中を見るなり「なに?これ!」とビックリしたような声を上げた。「おにぎりしか入っていないなんて、バッカじゃない!」と怒ってみたものの、すぐに「やっぱり血がつながってるわ。人の言うことが理解できないもん。読解力が無いんだよね」と、なにやら自分で納得し、カミさんが一生懸命に考えた小さくても味の違うおにぎり2個を「美味しい」と言って食べた。

 長女つまり孫娘の母親が仕事から帰り、みんなで食事をしていた時、「おにぎり1個にして」騒動が話題になった。さすがに長女は看護師をしているだけあって、「そういうのをなんて言うか知ってる?」と聞く。「コミュニケーションエラーというの。私たちの仕事では一番大事なこと。必ず、その原因がなぜ生まれたのか、チェックするのよ」と言う。「あなたはどうママちゃんに言った?それでママちゃんはどう思った?たぶん、わかるだろうということでは正確に伝わらないことが多いのよ。何を伝えたいとか、もっときちんと話さないといけないわね」。

 なるほど、今は若い看護師に教える立場にあると言うだけあって、要点をつかんでいる。先日、お話を聞いた住職も「以心伝心はダメですよ。お父さんもお母さんも、きちんと“愛している”と言わなきゃダメです」と、説教していた。あいまいな内になんとなくお互いが理解し合うことは、一見キレイなようでも誤解も含まれるということなのか。人の世はなかなか難しいね。

 孫娘は母親の話でその辺の人の心の動きがわかったのだろうか。
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この世は「幻」だ

2007年12月03日 23時04分48秒 | Weblog
 中学高校からの友だちは近頃元気がない。今月中旬に検査を受けることで、ナーバスになっているようだ。健康診断で両の肺に影があるということで、医者は良性か悪性か採って判断するというのだ。こういう時は絶対に悪い方にしか考えないのが人間だ。良性なら放っておけばよいのだろうが、悪性とならば手術をして摘出しなくてはならないだろう。最悪なら、手術もしないということだってある。

 当然、友だちは悪い場合を想定している。そうであれば後何年生きられるのか。私が「残りは半年、よくても1年でしょう」と診断されたら、何をするだろうか。まず、私の机の中や書棚に雑然と押し込められている数々の思い出の品を処分することから始めるだろうか。何をさておいても、恥も外聞もかまわず、好きだった人に甘えさせてもらうだろうか。身辺をキレイに整理し、何もせずにひたすら最後の日を静かに迎えようとするのだろうか。

 私自身は充分に生きてきたので、この世に未練はないけれど、それはおそらく何も宣告されていないから言えることなのかもしれない。80歳を超えた私の友人は、世俗な本は読まずもっぱら難しい本ばかりを読み、テレビを見る時は教育テレビのような勉強になるものしか見ない。欲望は無いのか?と思うけれど、せっせと絵を描き、皆さんにより評価して欲しいと言うから、全くの無ではないようだ。

 中学高校からの友だちは、12年間付き合ってきた彼女に「私はあなたにふさわしくない。付き合う資格がない」と告げている。それでいて、彼女と出かけたいくつもの思い出をなつかしく思っている。手をつないで歩けば願いが叶うという「恋路が浜」を、真っ赤な夕日を受けながらしっかりと手をつないで歩いた日を「幻」と決め付ける。彼女との思い出を全て「幻」にしてしまいたいのだ。そう、生きていることは全て「幻」なのだ。二人が出かけた日々の数々、一緒に食事をし、笑い、止め処もなく続いた会話も、今となれば過去は全て「幻」である。

 私はそんなに負を背負い込まなくてもいいだろうと言いたい。彼がそうすることで苦痛から逃れたいことはわかるけれど、流れるがままに流れてもよいではないだろうかと思う。中途半端なことができない人は最後まで生真面目に生きるより仕方ないのかもしれないが、切ないね。診断が出たら、飲もう。青春を一緒に生きてきた仲間で飲もう。馬鹿馬鹿しい話ばかりでもいいじゃーないか。この世は「幻」なのだから。
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普通の国

2007年12月02日 19時46分31秒 | Weblog
 テレビ『報道2001』に石破茂防衛大臣が出演していたので、しばらく見ていた。今日の防衛省の問題や不透明な防衛費について、石破茂節を披露していた。石破さんが目指すのは「普通の国」である日本である。アメリカに一方的に依存しているのは、「普通の国」ではないと彼は考えている。

 アメリカと対等な軍事力を保持する国は、今の世界ではどこにもない。けれども、アメリカに一方的に依存しているがゆえに、北朝鮮や中国の動きに対応できない。日米安保条約で日本の防衛はアメリカにお任せし、その代わりにアメリカ軍に基地を提供しているが、日米安保体制は維持しつつもそのあり方は検討する時期に来ているというのが石破大臣の認識のようだ。

 さらに石破大臣は、防衛費が高くついているのは、武器輸出3原則を保持しているからだ。武器を作れないのだから、買うしかない。武器について研究している者(機関のことか?)がいないので、高いものや場合によっては必要ないものまで買うことになる。日本が「普通の国」のように、自前の防衛力を身につけなければ、こうした問題は解決しない。そんな見解だと聞いていて思った。

 するとどうなるのか、武器輸出3原則や非核原則といったこれまでの政府の方針を転換し、ミサイルを初めとする現在の最先端兵器を自前で作り、保持することになる。日本の技術力や生産能力からすれば充分に可能だろう。この「普通の国」は、しかし危険な道を踏み出す糸口をもつことになる。憲法で定めた「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法第9条)とは、全く反対の道だ。

 「軍事力なくしては、国際紛争の解決などあり得ない」と言う人がいる。しかし軍事力で解決できたことはない。一時的に軍事力で勝った方が支配し、一見平和が訪れたとしても、再び軍事衝突が起きることは歴史が証明している。兵器がなければ大量殺人は起こらない。軍隊がなければ、国と国とが血みどろの戦いを繰り広げることもない。戦争のない世界を実現する手段は、日本の憲法しかない。

 石破大臣のような若い政治家が、自前の防衛力を持った「普通の国」を言い出していることに年寄りの私は危機感を覚える。いやだな、と思ってチャンネルを『サンデーモーニング』に変えた。すると、宮崎県知事の東国原が県民との座談会の席で、個人的な意見だと前置きして、青年たちのためには「徴兵制度が必要だ」と発言する映像が放映された。東国原知事を“無党派”の候補というだけで、高く評価していた友人がいたが、マスコミに対する態度など、私はとても評価できないと思っていたが、これでますますダメになった。

 石破大臣にしても東国原知事にしても、東国原さんを支持した友人にしても、みんな私よりも若い。これからの社会に影響力をもつ若い人たちが、「軽い」ことが気になって仕方ない。年寄りの杞憂であって欲しいのだが。
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悪友たちの夢

2007年12月01日 19時39分06秒 | Weblog
 昨夜は悪友たちが集まって、焼酎の品定めをしながら、それでいて極めて真面目な話を延々としていた。私は2時間ほど遅れて参加したが、すぐに話の中に入ることができた。焼酎を嗜むほど通にはなれないので、もっぱらビールを駆けつけ3杯とばかりに飲み続け、自分の思ったことや考えを述べ、最初から出席しているように、他の3人と渡り合った。

 「どうしてこんなに何もかもすぐに捨ててしまうのか、もったいない。学生が卒業して国に帰るときなどは、みんなゴミになってしまう。コンロも冷蔵庫も自転車も机や本箱やタンスも、みんな捨てていくんだでね」と一人が言えば、「どうしてです。親元に送らないのですか?」と一人が問う。「学生は持って帰らんし、親御さんも取りにこんね。それで大家も困って“何とかしてくれ”と言うので、引き取ってくるのよ」と答える。家中がそんな粗大ゴミで埋まっているそうだ。

 「物をこんなに粗末にしていると、そのうちドッサッとしっぺ返しを人間は食らうね」。「物が無くて、物ばかりか食べることもできない人たちがいるのに、一方ではじゃんじゃん捨てている。まだ充分に使えるし、中にはウチにあるものよりもいいものだってあるから、あきれるというか寂しいね」。「欲しい人だっていると思うけれどね」。「そういう仲立ちをやったらどうだろう。社会の役にも立つし、ゴミも減らせるし、私たちには向いているんじゃないか」。

 社会から救われる対象の世代である私たちは、いよいよ意気盛んとなり、NPO法人を作るべきか、いやもう少し具体的になにをするかじゃーないか、など酔っ払っていながらいつまでも真面目に論理的に考えようとするのは、これまでのサラリーマン生活の賜物だろう。「わかった。今度、素面でやりましょう」とすぐさま、日時と場所を決める。これもまた、これまでの習慣の延長である。

 宴席を盛り上げることには積極的な私も、宴席でことを決めることにはちょっと懐疑的になってしまう。だから悪友たちはそこをよく心得ていて、具体的なことは決めずに、今度素面でやりましょうと日時と場所だけにとどめている。長いサラリーマン生活を積み重ねてきた男たちの智恵だなと思う。

 飲みながら私は、今日出会った女性が何を言いたかったのかと考える。口に出していってしまうと、一歩進まなくてはならない。進むことがよいことに向かうのか、実は恐ろしいことになるのか、考えてしまうのだ。大切に思うからこそ、口に出さない方がよい時もあると思う。
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