友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

心はまだ青春にある

2009年02月16日 21時04分40秒 | Weblog
 1月の初めから右手親指の付け根が痛い。何が原因なのかはわからないけれど、これも歳を取ってきた証拠だろう。曲げても押さえてもそれほど痛いわけではないが、引っ張ると強い痛みがある。日常生活に支障はないけれど、物を持ったり親指で挟んだりした時、あるいは何でもない時なのに、どうかするとキヤッとした痛みが走る。先日の井戸掘りでも力を入れなくてはならないところで、痛みのために持ち上げられなかったりして困った。

 友人に「親指の付け根が時々痛むんだけど‥」と相談してみるが、やはり「歳を取ればいろんなところにガタが来るものですよ」と言われてしまう。医者に診てもらったところで、たとえ骨折していても、じゃーどうするというわけではなく、塗り薬をいただくくらいだろう。結局は回復を待つしかない。パソコンも打てるし、まあ文字を書く時に長時間は無理なくらいだから、もう少し様子を見ていこうと思う。

 中学からの友だちがアキレス腱を切断し、なかなか回復しないと苛立っていたけれど、歳を取るということは治りが悪いということのようだ。そもそも彼は、ガードを飛び越えようとしてアキレス腱を切ってしまったのだが、若い時ならなんでもなくできたイメージは残っているのに、肉体は確実に衰えているからややこしい。私も自分の頭は高校生の時から少しも変わっていないように思っている。ところが鏡に映る自分の顔を見ると老人になっている。これは一体どういうことなのだろうと考えてしまう。

 肉体が年老いていくのであれば、精神も同様に老いていけば納得できるのに、精神はまだ青春にあるのに、肉体は年月とともに老化していくのだから、そのギャップは大きい。しかし、やはり還暦を過ぎたなら覚悟をしなくてはならないと私は決めてきた。オバマ大統領は47歳だ。若い人が活躍する方がいい。明治維新を成し遂げた志士たちも若かったし、ロシア革命を指導したレーニンも頭は禿げているがその時は47歳だった。若い人に任せることも年取った者の務めだ。

 年老いたなら何もせずにただじっと死を待つということは、私の生き方ではないと思っている。若い人々の足を引っ張ることのないところで、まだ青春にあると思っているうちに、自分の生き場所を見つけたい。感性あるいは感受性がまだ敏感なうちにやれることをやっておきたい。「カミソリみたいな感受性」も今ではかなり刃こぼれができてしまっているが、いやむしろそうであるが故に見えるものがあり、とらえられるものがあるように思う。

 アキレス腱を切断したことも何か運命なのだろう。そこで考えたことや生まれた時間で行なえる何かがあるはずだ。時々やってくる親指の痛みも私へのメッセージかもしれない。バレンタインチョコのような贈り物が控えているかもしれない。これくらい楽観的な自己中でもいいのではと思うけれど、迷惑かな?
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孫娘とオバマさん

2009年02月15日 21時27分01秒 | Weblog
 中学2年の孫娘は今日も水泳大会へ出かけて行った。18日から期末テストが始まるというのに、水泳大会にどうして出るのだろうと思うけれど、彼女としては絶対出たい大会なのだそうだ。そういえば、昨年も全く同じだった。3日後くらいに期末テストとなるのに、やはり大会に出場していた。このため、水泳の練習とテストの勉強でかなり頑張っていた。まあ1年生だからいいかと思っていたが、2年になっても相変わらず頑張る姿には感心する。

 それでも、1年前に比べると男の子が勉強するようになってきたので思うような成績が取れなくなってきて、「ホント、ヤバイよ」が口癖になってきている。水泳の成績も練習の割りに伸び悩んでいる。水泳のコーチは、当然のことだけれど、水泳のことしか頭にないから、「そんな練習で記録が伸びると思っているのか」と叱咤激励し、学習塾へ出かけて練習できないことに不満を見せるようだ。私には身長が伸びないのも過度の練習のためだと思えるのだが、身体が小さくても練習を重ねれば記録は伸びると孫娘は信じているから何も言えない。

 この1年で、彼女の環境は大きく変わった。すでに父親は家を出ていたが、まさか母親が再婚するとは考えていなかった。母親が付き合っている人がいて、ちょくちょく家に出入りし、自分や自分の友だちまでも遊びに連れて行ってくれることに戸惑いがあったが、母親のためならと思ってきた。それが結婚という形となり、母親がその人と生活を始めた。孫娘は「ママが幸せになること」を望んではいるけれど、その胸中は複雑だろう。彼女は早く独立したいと思っているのだから。

 アメリカ大統領となったオバマさんは、白人の母親と黒人の父親の間に生まれている。父親はケニアからハワイ大学に留学した学生で、母親もまだ大学1年の18歳だった。どういう事情かは知らないがオバマさんが2歳の時に2人は離婚し、6歳の時に母親はインドネシア人と再婚し、オバマ少年はジャカルタで一緒に暮らしている。新しい父親は優しい人だった。オバマ少年は学校での成績はよい子であったけれど、「暴れん坊だったので、先生が手をつけられなかった」子どもだった。母親はハワイの祖父母にオバマ少年を預けた。祖父母は彼を名門の私立小学校へ通わせた。

 人はどのように成長するのだろう。いろんな要素が複雑に絡み合っているのだろう。生まれながらに持っている資質、育つ環境、そして愛情が大きく左右するように思う。私の子どもの頃は離婚は余りなかったが、養子は多かった。高校生の時は親友の3人が養子だった。3人の家に遊びに行ったことがあるが、その時の私の印象は「家族は血ではない」というものだった。戦争で未亡人となり、夫の弟と再婚する女性も多かった時代である。どんな出会いであれ、どんな形であれ、生活を共にしていくうちに「家族」は作られていくのだと思った。

 さて、孫娘の祖父母である私たちは、オバマさんの祖父母のようになる必要がある。孫娘がどんな人になるかは彼女の意志である。頑張れと応援することが私たちの努めであると思っている。
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バレンタインと井戸掘り

2009年02月14日 22時25分39秒 | Weblog
 今日はNPO「おたすけ」が考案した井戸掘り道具の試験を行なった。バレンタインなのに?と驚くことはない。もちろん誰も驚かれないなのかも知れないが‥。何しろバレンタインとは無縁の老人たちであるから、「企業の宣伝にのせられるようなみっともないマネはしない」と気高いのだ。私はすでに本命チョコをもらっているので、チョコをあげるというイベントも「それはそれなりにいいのではないの」と他人事のように言っておいた。

 それに、近くのコンビニでお昼のお弁当を買ったところ、おばさんの店員さんが「はい、どうぞ」と包みをくれた。お弁当もお茶ももらったのに何かなと思っていると、「今日はバレンタインですから」とテッシュとチョコをくれたのだ。そこで皆さんに「可愛い店員さんから皆さんへプレゼントですよ」と配ったところ、バレンタインチョコなんてと言っていたのに、受け取る表情はどこかうれしそうだった。中には「もう一つもらっていいかな」と言う人もいた。

 定額給付金でもそうだけれど、あげると言われればそれなりに嬉しいものだ。あげる側からすると、たとえば食べ物なら相手が一番好きなものを選び、「美味しい」という一言が嬉しいものなのだ。手袋のような装飾品なら、相手に身につけて欲しいためだが、それはきっと一緒にいるような気分なのだろう。友だちの中には相手とお揃いのものを持っていることを自慢する者もいるが、私はちょっと恥ずかしくてだめだ。

 まあ、そんなことはどうでもよいことで、感心したのは「おたすけ」の職人技の素晴らしさだ。かなり以前になるが、どうしても井戸掘りが進まないところがあった。岩盤や粘土層を掘り下げるにはどうすればいいか、思案を重ねた末に2つの道具を作った。そうなのだ。考えただけでなく、自ら鉄板を切り、穴を開け、打ったり削ったり、溶接したりして、道具を作り上げてきたのだ。その道具が目的どおり作業するか試してみようというわけである。

 試し掘りしてみて、いくつかの改良すべき点も見つかったし、作業の手順やその時の道具の使い方もわかった。まずまずの成果であろう。明日、身体のあちらこちらが痛まないように願いばかりだ。お金をかけず、高額な機械に頼らず、自分たちが手作りで掘り進めることが私たちの願いであり誇りでもある。

 まるで春のような陽気のバレンタインデーにあって、黙々と肉体労働に励んだけれど、願わくば来年のバレンタインには、「子どもの遊び」としか見ていないカミさんたちからお褒めの言葉と甘いチョコがいただけるようになりたいものである。
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絶望的な民主名古屋市議団

2009年02月13日 22時44分17秒 | Weblog
 小泉さんと麻生さんの間には友情とか敬愛といったものは全く存在しなかった。政治家なんてみんなそんなものだろうと言う人もいるかもしれないが、私には友情を感じたり敬愛できる人がいたから、こんな場面を見せられるとありがたいことだと思う。麻生さんが国会の答弁で、郵政民営化には反対だった、総務大臣であったけれど郵政民営化の担当ではなかった、民営化に反対だったからはずされた、小泉さんは奇人変人ですから、等々としゃーしゃー述べていたが、これを聞いた小泉さんはどう思っているのだろうと気になっていた。

 小泉さんが「怒るというよりも笑っちゃうくらいあきれている」と発言し、「首相の発言に信頼がなければ選挙には勝てない」と述べたばかりか、「定額給付金は衆議院で3分の2を使ってでも成立させなければならない法案だと思っていない」とまで言い切った。そこで、マスコミや自民党分裂に期待している人々が、いよいよこれで自民は割れるなどと騒いでいるが、小泉さんの盟友である加藤紘一さんは「やりすぎですね」と批判している。この夜の政界のドン、森喜朗さんは記者の質問に「うるさい!」と怒鳴りつけていたから相当ご機嫌が悪かった。

 自民党存続派は巻き返しを図るだろうし、小泉さんも息子を後継者に指名したくらいだから当然ながら自民党をぶっ壊す気などサラサラないし、ましてや政界再編に動くつもりはないだろう。中学2年の孫娘でさえ、「小泉さんて、引退するんでしょう。引退する人が何を言ってもあかんのに、何考えてしゃべってるんだろうね!」と手厳しいことを言う。いずれ近いうちに自民党は必ず分裂するだろう。自民党が得意としてきた政治手法はもう通用しない。民主党も自民党とさほど変わらない体質であることも明らかだから、こちらも分裂する運命にあると私は思っている。

 名古屋市長選挙で民主党は保守丸出しである。「市民税10%減税」「中学校区に予算と権限を分権、ボランティア議会を設置」「外郭団体の廃止」「議員報酬の寄付金化」などを掲げ、「無駄遣いをなくせば、福祉の充実にもつながる」と“市民革命”を目指す、河村たかし衆議院議員を市長候補とすることを拒否している。地域における民主主義を育てていくためには中学校区に分権し、議会を設置するのはよい案だと思うし、外郭団体の廃止も必要な政策だ。議員報酬は下げて当然だと思うし、月額50万円の政務調査費も廃止すべきだろう。使い切れなくてプールされたり、裁判で返還するように判決も下っている。

 河村たかし議員は民主党が公認しなくても出馬する意向のようだけれど、そう言いながら先回は出馬を見送った経緯がある。先回だって立候補したなら当選できたであろうに、今回は逆にこんなにゴタゴタが続くと有権者としてはイヤになる。公認が得られないなら民主党を離党して立候補する潔さを見せて欲しい。これからは政治の世界が面白くなってきそうだが、本当にそうなるためには有権者の選択が大事になるだろう。
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朝早く車を取りに行く

2009年02月12日 20時36分12秒 | Weblog
 昨日、役所の駐車場に車を置いたままにしていたので気になって、朝早く取りに出かけた。役所の駐車場は私鉄の駅に近いから、時々横着な人がいて、「ここに車を置いて電車に乗っていくので困ります」と職員から聞いたことがあったので、いっそう気になっていた。カミさんの出勤に合わせて乗せていってもらい、動かすつもりでいた。張り紙でもしてあると担当の部署に説明に行かなければならない。知っている職員だとイヤだなと思ったが、幸い時間が早かったせいか張り紙はなかったので、そのまま運転してきた。

 役所の駐車場は「必要な人には使ってもらえばいい」と日頃は口に出すけれど、いざそれが自分だとなると気が引ける。駅の近くの駐車場を借りている人もいるのに、役所が特定の人に便宜を図るのは絶対によろしくない。議員の中には、たとえば公民館の印刷機や折り機を使って自分の議会報告書や案内文の印刷を行なっている人もいるようだが、それは公私混同である。役所の機関で市民のために自由に機械を使ってよいというところはあるが、その目的はあくまでも市民活動に対する支援である。議員の活動はあくまでも議員の報酬で行なわなくてはならない。

 「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の私たちは堅苦しいくらいに厳密をよしとしている。それは私たちの活動は市民のためのもので自分の利益のためではないと考えるからだ。そんな議論の後、「せっかくだから飲みに行きませんか」と言われた。滅多にそんなことを口にしない人がそう言うので、電車組のみんなで出かけていった。私は車に乗ってきてしまったので、「飲んだら絶対乗らない」から、どうしようと考えたけれど、帰りはカミさんに駅まで迎えに来てもらえばいいからと付き合うことにした。そこで、今朝早く取りに行ったというわけである。

 朝早く取りに行けば「役所の業務に支障を来たす」と難癖をつけられることもないだろうけれど、そこが役所というところは変わっていて、まるで自分の家の敷地のように思っている熱心な職員もいる。こういう人は「こんなところに車を置いて行っては困る」と罵声を浴びせてくるものだ。「すいません。でも何が困るんですか?」などと聞こうものなら、「ここは公共の施設ですよ。公共の施設を勝手に使ってイカンくらい判らないですか」と怒鳴るだろう。ここで「まあ、いろいろ事情があるでしょうから今日はきつくは言いませんが、これからは気をつけてください」とくらいに言ってくれれば、公務員は市民の味方だなと思うのに。

 さて、午後8時30分を過ぎた。孫娘がピアノの練習からもう少しすると戻ってくる。既に食事の準備はできている。今晩は孫娘と二人だけの食事だが、どんな話が飛び出してくるか楽しみである。
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思いやる心とわかりやすい言葉と

2009年02月11日 22時25分08秒 | Weblog
 昨日、教え子が持ってきてくれたバレンタインチョコを持って行った。会議の途中の休憩時間に食べてもらおうと思ったからだ。仲間の中には自分の母親から「チョコをもらって気持ち悪かった」などと言う者もいたが、「チョコをもらえるだけでもいいではないか」とひがむ者もいた。定額給付金と違って、いただけるならそれだけでありがたいというレベルではない。定額給付金は(税金である)他人の金をばら撒いて、恩着せがましくわが党に投票してくれという不埒な買収のための金だが、義理チョコでもついでチョコでも、そこには「愛」があるように思う。

 話がややこやしくなるかもしれないが、議員に一番大事なものは有権者を思いやる心ではないだろうか。有権者の一人ひとりを知るわけはなく、また全ての有権者を愛する心を持てなどとまでは言わないけれど、少なくとも一人ひとりの有権者に対して真摯であれと思う。真摯であることと、選挙において誰彼の区別なく頭を下げて握手をして笑みを絶やさないこととは、私は違うように思えてならない。電柱にも頭を下げよとよく言われるけれど、実際当選した人の多くはこまめにそうした選挙運動をしてきているが、私はどうしてもできなかった。だから当然なのか、当選できなかった。

 ある自治体の議員が、「議会だより」の原稿の修正を求められた。議会で発言したこととその答弁について、書き直して欲しいというのである。事実関係はわからないが、書き直して欲しいという趣旨はその議員の書き方ではわかりにくいということであったのかもしれない。議員は自分が議会で発言したことと違うことは書けないと突き返した。修正しなければ「議会だより」に載せられないとまで言われた。そこで議員は自分のブログで「重箱の隅をつつく無駄な作業をしている暇な議員」と相手を非難した。

 確かに地方議会ではこんなやり取りがよくある。「議会だより」の記事を議会事務局が勝手に書いてしまう議会もあるから、質問した議員が書けることは評価できるが、議会で発言していないことまで書けと要求されることは間違っている。まずこの点で徹底抗戦しないと見くびられてしまう。議会のありようにかかわる重要な問題であるのに、ブログで相手を非難するばかりでは解決になっていかない。地方議会の議員のレベルは低いとよく言うけれど、そんなことを嘆いていても議員の質は変わらない。いやでも戦いを挑んでいく以外にはないと思う。

 有権者の側にいるからよくわかるが、議員の人柄や考え方をもっとこまめにわかりやすい言葉で伝えて欲しいと思う。議員自身は自分ではわかりきっているつもりなのだろうけれど、全く具体性がなかったり、言葉の使い方も一般市民には理解できないこともある。議員は、議会での発言の趣旨や議会通信の原稿を、発信する前にもう一度普通の市民に読み聞かせて、わかりやすいか確かめて欲しいものだと思う。
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教え子がやってきた

2009年02月10日 18時54分51秒 | Weblog
 教え子の女性が二人、我が家に遊びに来てくれた。「ブログに書かれている先生の庭が見たかった」と言う。残念ながら冬場のルーフガーデンは鉢が並んでいるだけで寒々としている。それに今年は外壁塗装工事や屋上防水工事のため、ルーフガーデンには何もないようにして欲しいといわれているので、これらの鉢をどうしようかと悩んでいるところだ。春はチューリップ、夏はサルビアを植え込んできた鉢は、中の土を出して空にすれば何とかどこかに収納できるだろう。

 昨年、増やしてしまったランタナは知人が欲しいと言うので差し上げればいいし、残れば長女の新居の庭に植えさせてもらえばいい。春から秋まで、花が咲いている間のランタナは見栄えもするけれど、冬は「葉が落ちてみっともない」とカミさんが言うように、この時期のランタナの引き取り手はないかもしれない。問題は、もう何十年にもなるバラや金木犀や義父から預かったニンドウなどだ。これらは鉢も大きく動かすとなると大変な作業になる。どこへどのように移動させるか、工事の方と相談しなくてはならない。

 「来年の春にまたおいでよ。庭でお茶が飲めるようにしておくから」と彼女たちに話す。高校で出会って40年になると言う。「あの時、40年後なんて想像もできなかったね」。そのとおりだ。当時24歳の若造の私には40年後の姿など全く予想できなかった。二人とも結婚しているが、一人は子どもがいない。夫婦二人での生活だけれど、夫の母親が健在でまだ一人で暮らしているという。その母親はダンナの死とともに離婚されたようで、親戚から何かさげすまされているような気がしてならない。そこで、母親のために墓を買ったと言う。「お母さんと私たち二人の戒名も彫ってもらった」。

 ドライでそんなことには関心がないように見えていた子だったけれど、夫を大事に思っているし、その夫の母親だからいっそう大切に思っていることがよくわかる。もう一人の方は子どもが二人いるがともに男の子で、下の子が「今、反抗期なの」と言う。「とってもいい子で、大学生になっても私とはべたべただったの。それが就職の大変な時に、夫婦で旅行に行ってしまい、帰ってきたら家の中がぐちゃぐちゃ。オレのことを放っておいたというわけ。怒って家を出ていちゃって、全く何にも連絡してこないのよ。異常でしょう」と話す。

 母親とすれば、あんなに仲好かった蜜月の頃が忘れられないのだろうが、男の子からすれば「反抗期」なんかではなく、一人前になろうとしているのだろう。「父親が入院して手術もするのよ。それでも何も言ってこないものなの?」と心配する。「放って置けばいいのじゃないの。あなたの方がかまってほしがってるのよ。今は、ご主人のことだけ考えてあげればいいし、どんな結果になろうともそれを受け止めることの方が大事じゃない」。息子のことが気にかかるのだろうけれど、息子はもう30歳の大人だ。いつまでも子ども扱いされたのでは親元には来にくいだろう。

 ダンナは手術を乗り切るかもしれないし、そういかないかもしれない。「苦しむのを見るのはイヤ」と言うのはわかるが、現実は彼女の支えしかないだろう。どんな結果になろうとそばにいるのは彼女しかいない。それぞれが人生を生きてきて、時にはこんな風に話ができる。それでいいと思う。
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一人旅はもういい

2009年02月09日 21時22分37秒 | Weblog
 雪景色を見ながら露天風呂に入る。そんな温泉地へ行ってみたいと思うけれど、一人で行くなら豪華なところでなくてもいい。そこまで書いて、いや一人で旅なんかしたくないなと思った。女性は一人で旅をするような人は滅多にいないが、逆に男性で二人旅というのも余り聞かない。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は弥次郎兵衛と喜多八の二人旅だが、まずはあんなにうまくいかないような気がする。男性が旅する時は三人以上の方が喧嘩にならないと聞いたこともある。

 私はどちらか言えば一人旅の方が気楽で好きだった。高校生3年生の時、受験勉強に反発して一人旅に出た。日本海が見たかったことと、小学校の時に修学旅行で回った京都と奈良を一人で歩いてみたかったのだ。日本海から京都へは丹後からバスに乗ろうと思っていたのに、実際には京都へ行くバスはなく、列車で行かなくてはならなかった。予定も決めず、宿泊も行き当たりばったりの旅だったけれど、行く先々に出会いがあり楽しかった。

 結婚してからはぶらりと一人で旅をする機会はなくなった。それにもまして、左足が曲がらなくなってからは、安宿にはもう泊まれない。いつだったか、子どもたちと一緒にスキーに行った時、泊まった民宿のトイレは全く昔風のもので、洋式トイレがなかった。これには参った。座ることができないので用がたせない。車で近くにあったホテルまで走った。以来民宿には泊まらず、少々高くても洋式のトイレあるホテルに宿泊するようにしている。

 旅のよさは食事やお風呂に大きく左右されるが、私はどちらか言えば、その街をブラブラと歩きたい。街には独特のにおいや雰囲気がある。街のつくりやそこに住む人々の息遣いのようなものがある。ツアーで行った時はそんなことを味合うゆとりはまずないし、グループで出かける時も余り自分勝手な行動は出来ない。家族での旅行ならそれも可能だろうけれど、そんなゆったりした旅行も最近ではなくなったように思う。

 でも、年老いてきたせいなのか、一人でいるのはものを書いたり本を読んだりする時くらいでいい。食事をする時や旅行の時は、一人よりも気の合った人と一緒の方がどんなに楽しいか計り知れない。知らないところをあちらこちらと見て回ることは楽しいし、好奇心を満たしてくれる。美味しいものを食べることもいいだろう。でも一人は寂しい。

 テレビでカリブ海のリゾートホテルを紹介していた。1泊10数万円だそうだ。開放的でまるで楽園である。そんな素晴らしい施設でも一人ならもっと寂しいだろう。結局は誰と泊まるかだろうし、誰と食事をするかではないだろうか。
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長女の新しい生活

2009年02月08日 20時51分24秒 | Weblog
 長女が新しく生活を始めることになった。中学2年の孫娘は当面、私たちと一緒に暮らすことになる。「ママが幸せになることが一番だと思う」と言う。どうしてこんな立派な大人のような判断ができるのだろうと感心してしまう。長女と先夫が別居生活を始めて5年くらいになる。家庭生活は忍耐が大事だというのに、理解してもらえなかった。離婚するまで長い期間かかったが、再び結婚するまでは短かった。

 「バツイチなのだから、何もあわてることはない。一緒に暮らしてみて、うまくやっていけると思ってから結婚すればいい」と、同棲を認めていたのに早々と入籍してしまった。夫となる人の家族の皆さんともお会いしたが、とても気さくで優しく思いやりのある方々だったので安心した。先夫もそうであったし、先夫の両親も気心が知れ、私たち夫婦はよい人たちと巡り会えた感謝していた。ところが本人たちはいったん隙間ができてしまうと、目をつぶろうとしないから、あんなに好き合っていたのにおしまいにしてしまった。

 完璧な人間なんていない。自分を見ればわかりそうなものだと思うのだが、相手が悪いの一辺倒ではなんともならない。ウチの女性たちは皆そうだけれど、完全主義者というか潔癖主義者というか、そういう目で相手を見るから、不完全や不潔がどうしても受け入れられないのだ。「私はこんなにも愛している。なのに‥」と相手に求めるものが大きいのだ。自分が思い描いた形があり、その形にならないことが気に入らないのだ。

 人間は誰もがそうなのかもしれない。もっと、もっと、自分を愛して欲しいし、自分に関心を持って欲しい。そう願うものだろうけれど、そういつもうまくいくものでもない。最近、暇に任せて読んだ唯川恵さんの小説『恋せども、愛せども』は、いくつになっても人は恋することから卒業できないこと、そこに人の苦しみがあるが喜びもあることを語っていた。相手に求めることは大変なリスクを負うことになる。求めることよりも与えることの方がまだ容易であろう。

 本当に愛しているなら、そう書いてから、本当に愛するってどういうことなのだろうと考えてしまった。もっと単純に相手が好きでたまらないのであれば、「痘痕も笑窪」が当たり前ではないだろうか。こうしてくれなかった、ここが足りない‥そんなに相手に不満があるというのは、自分の愛し方が足りないのではないのか。そんな風に考えてみて欲しいと思う。

 求めないで与える人になりなさいと子どもたちに言ってきたけれど、私自身もなかなかそうできないでいる。それでもやはり求める人ではなくて与える人になりなさいと言い続けようと思う。
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元気だせよが裏目になった

2009年02月07日 19時10分15秒 | Weblog
 アキレス腱を切断し、思うように回復しないと落ち込んでいる友だちがいる。残念ながら私たちはもう若くはない。リハビリの成果が目に見えるようにはっきりしないから、イライラもするだろうし、なんとなく気力までもが衰えていくように思うものだ。落語が好きだった友だちのことを思い出し、イタズラ心から「批評に値しない」小話を送ってみた。恋女房の尻の穴にキスをして、「臭かった」というだけの話だ。

 すると彼は「いくら落語が好きなわたしでも、コメントのしようがありません。とても艶話になっていないように思います。人間の想像力をくすぐるような話で、秘め事を連想させるのが、艶話のような気がします。昔、『這えば立て、立てば歩めの、親ごころ』という句がありましたが、それをもじって、『這えば立て、立てば屈め(かがめ)の、妻ごころ』という川柳があります。私にはそこまでが限界です」と真面目に答えてくれた。

 会話でもそうだけれど、どうも私は想像力を働かせるような言葉の使い方ができなくて、ついストレートな言い方をして相手を怒らせてしまうことがある。親しければ親しいほど、相手が自分の言葉をカバーしてくれるだろうと思い込んでしまうのだ。これは原始的な人間関係にあることを先日のNHK『爆笑問題』が取り上げていた。人間が言葉を発する時、受け取る側が想像力を働かせているから意味が伝えられるのだという。

 文学や芸術の世界では、受け手が作品から発せられる何かを想像し創造していく。送り手の感性や思想や問題意識が表現手段と重なって発せられ、受け手がこれまた己の感性と思想と問題意識で受け止めながら想像力を発揮して創造していく。送り手が意図したものではない世界が受け手の側に構築される場合だってある。よい作品かどうかは、受け手に想像力を働かせられるものがどれだけあるかないかである。

 人間も同じで、相手に共感とか同意とかあるいは「いとしい」とか「恋しい」とかを伝えられなければ、上手な会話ではないのかもしれない。かつて、中学からの別の友だちが落ち込んでいたので、エロ小説を読んでみたらと勧めたところ、「オレはより高いものを目指す」と言い返されてしまった。そういえば10数年間も友だち以上恋人未満を続けている友だちも「死ぬまでにやりたいことのベストテンに男と女のことは入らない」と断言した。

 少しは元気を出せよとイタズラでしてみたが、私のレベルの低さを露呈しただけのことだった。エロ的な雑念やSEXは、人にもっと活力を与えてくれると思っているのはどうやら私だけだと思い知らされた。みんなそんなに聖人だったのか、どうして私はこんなにも卑俗なのか、ちょっと情けなくなった。でも今更どうしようもない。卑俗を極めてみるかと開き直っている。
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