友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

当事者ではない私の勝手な思い

2011年05月09日 19時13分05秒 | Weblog
 「ユッケ」を食べた人が亡くなっている。商売で食べ物を提供しているのだから、安全と誰もが思う。日本料理を商いとしていたカミさんの叔父は、まな板や包丁には格別に注意を払っていた。料理をする度に洗い流すことは当たり前で、気配りに徹するというか、扱いはとても慎重だった。弟子や下働きのオバサンがまな板の上に何か載せたりすると、物凄い怒鳴り声が響いた。お客さんの口にするものを扱う大事な場所だぞということだった。「ユッケ」が一般的に出回るようになったのは何時ごろからだろう。私も美味しいと思って何度か食べたことがある。始めて食べたのは韓国ソウルだったかも知れない。馬刺しや鳥の刺身もあるので、牛もあるものと思っていたが、これで少し出す方は慎重になるだろう。

 人間は貪欲だ。魚でも鳥でも、一度「生」のものを食べると、「生は美味しい」ことに気付いてしまう。そして愚かにも、店で食べるならば安全と思ってしまう。全く話が違うけれど、脳死状態になった母親からその娘に臓器が提供されたと報道があった。臓器移植の観点から、身内に提供するのは不公平とされてきたものが緩和されたために実現されたという。10代で脳死となった若者の臓器がいろんな人々に提供され、移植が行なわれたこともあった。私は臓器移植に反対だが、移植を求めている人はたくさんいるし、それで幸せを掴んだ人もたくさんいる。ここまで医学がその技術を見せてしまうと、反対する運動は起こらないだろう。

 菅首相がまたしても唐突に「浜岡の原子力発電所を停止することが望ましい」と発言した。「浜岡は私が止めました」と後世に残したいのだろう。何もできない首相では終わりたくない気持ちはわかるけれど、それなら文書の棒読みではなく、自分の気持ちで素直に話した方が国民は納得するはずだ。「原子力発電は危険が多すぎるので、今後は徐々に廃止する」とハッキリ言った方が説得力がある。自分に信念がないから、発言はいつもブツブツと途切れてしまう。原子力発電は万が一の事故に対して処理出来ないばかりか、廃炉にすることも出来ない。造っても壊すことが出来ないものは造るべきではないだろう。原発反対デモが名古屋でも行なわれた。

 医学や科学は目覚しく発展しているが、なぜそれをつくりだすのか、つくりだしてどうするのか、その根本が問われないままに技術が先行している。またまた話が飛躍するけれど、「大相撲夏場所」が始まったそうだが、まだ八百長問題が解決していないということで、「技量審査」の場所として入場は無料だそうだ。あくまでもスポーツにこだわりたいのだろうけれど、伝統に基づく「興行」にした方がスッキリすると私は思う。相撲を取る人たちもその方が安心して出来るのではないだろうか。現在のようなスポーツに似せた形にしたことが伝統から外れた姿なのだから、「相撲協会」は自ら作ってきたものを壊すことには戸惑いがあり、勇気もいるけれど、作り直した方がいいだろう。

 それもこれも、当事者ではない私の勝手な思いに過ぎないが、世の中には変わった人間もいるということを示して生きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄昏の花公園

2011年05月08日 12時29分05秒 | Weblog
 土曜日の午後、2歳になる孫娘を連れて、可児の花フェスタに行ってきた。長女から何にでも興味を持つ孫娘はモンスターで、「ひとりでは相手し切れない」と電話があった。カミさんはバラの前のこの時期はナンジャモンジャやハンカチノキが見頃になっているはずだと、ふたりを連れて出かけることに前向きである。約束から1時間ばかり遅れて、長女が孫娘とやって来た。孫娘はちょっと見ないうちにますますお茶目になっている。駐車場で、桜の木から落ちてきた毛虫を見つけ、長女が静止する前にもう捕まえてしまっていた。どうしてこれを捕まえると母親が悲鳴を上げるのかよくわからんという顔をしている。

 こんな調子だから出発するまでに時間もかかり、花フェスタの会場に着いたのは午後3時半くらいだった。遅い時間帯の公園は普段とは違う光景である。バラにはまだ早く、ナンジャモンジャも花を咲かせてはいない。終りかけたチューリップはなんとなく物寂しいが、孫娘は「咲いた、咲いた、チューリップの花が」と歌い出した。公園のどこかで小鳥の鳴き声が聞こえる。スズメの鳴き声ではなかったけれど、「スズメの学校のせんせいは、ムチをふりふりチィパッパッ」と歌う。どうも保育園の保母は60代後半のおばあちゃん先生らしい。「スズメの学校って、怖い歌なんだね」と長女は驚いて言う。

 確か、『スズメの学校』は戦前に作られた歌で、みんながひとつになることを求めている。だから先生はムチを持って、「まだまだいけない」と厳しく指導しているのだろう。同じ学校でも『メダカの学校』は戦後の作品なので、「だれが生徒か先生か みんなで元気に遊んでる」となり、とてものどかな感じがする。それにしてもこの孫娘の歌唱力はやはり父親譲りか、あるいは父親の父親つまり祖父譲りなのかもしてない。故郷の町を父親であるこの孫娘のダンナはラップ調でオリジナル曲を歌っていたし、その父親である祖父は民謡調のオリジナル曲を歌っている。血は争えぬというから音楽に対する感覚の鋭さは脈々と受け継がれていると言える。

 夕暮れ時の公園の人々は圧倒的にカップルが目立つ。それも熟年以上の男女だ。しっかりと手をつないでいるカップルは初々しさが漂っている。男が先を歩き、女が後を追っているカップルは結婚して40年や50年は経ているだろう。バラはつぼみを膨らませていたから、後10日もすれば満開だろうか。その時は、若い恋人たちでこの公園もにぎわうだろう。花に包まれて、不思議な幸せ感を抱くことだろう。四季咲きのバラには精神を安定させる働きがあるが、初夏のバラは感情を高める働きがあると係の説明を聞いたことがある。

 公園内でジャングルジムを見つけた孫娘は「のぼる」と言って聞かない。怖がらないのも長女の時と同じだ。短くて太っちょの白い足でどんどん登っていく。付いて行く長女の方が「怖―い」と悲鳴を上げている。年齢とともに怖さが戻ってくるのだろうか。よく遊んだためなのだろうか、車に戻った孫娘はぐずりだし、「オッパイ、オッパイ」と長女の胸をまさぐっていた。やはりまだまだ赤ちゃんである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の日に

2011年05月07日 20時07分29秒 | Weblog
 「明日は母の日ですから、出かけます」と70歳の友だちに話すと、「私なんか一度も母の日なんてやったことないですよ」と言う。「ええ、高校の時に母親を亡くしていますから、私も一度もやってないですね」と皮肉っぽく言ってみる。「えっ、出かけると?」「はい、そうですよ。母の日は子どもたちがやってくれるので、私は便乗するだけです。だって、カミさんは私の母親ではないですから」。それを聞いて納得してもらった。母の日をダンナが祝うのはちょっとヘン。5日のこどもの日を自分の子どもであっても、もう子どもではない大人を祝うのも同じようにヘンだ。

 明日は母の日であるけれど、こどもの日をやらなかったから、カミさんの誕生日と3つ合わせてやろうと長女が提案してきた。私は年行事をできる限り行なうように努めて来た。家族が一緒に食事をする機会は多い方がいいと思うからだ。自営で仕事をするようになってからは、特にそうしてきた。それはちょうど、長女が高校生になる頃で、クラブ活動と学校のこととかで家族で旅行する機会が減ってしまったから、無理やりこじつけてきたのかもしれない。娘たちが小さい頃は5月5日と10月10日は家族で遠足と決めて、東海遊歩道をよく歩いた。

 私が子どもの頃にも母の日はあったかも知れないが、特別に何かを行なったという記憶はない。それでもカーネーションをプレゼントする風習が定着し始めた頃に、母にカーネーションを1本買ってきたようにも思う。それは自分が大きくなって、そうしたかったという願望が描いたことなのかもしれない。母は気前のいい人だったけれど、子どもの私には厳しかった思い出ばかりである。姉の話では、母が教職にあった学校に父が代用教員でやって来て、ふたりは結婚したという。年上の母から見ると、小説家志望の父は役者のように色白の男前で、夢のような大風呂敷に惹かれてしまったらしい。

 しかし小説家にはなれず、父よりも年下で母と同じ知多出身の新見南吉が童話作家として名を上げていたから、負けず嫌いな母としては悔しかったことだろう。小学校の先生としては有能だったのか、父は早くに校長になった。世間知らずの父は祖父と馬が合わなかったにもかかわらず、家業がうまくいかなかった時にはかなりのお金を注ぎ込んだそうだ。また、学校の若い女教師に熱を上げたこともあったようだ。父の日記にそんなことを思わせる文面がある。母は苦労ばかりの人生だったのかも知れないが、本当はどう考えていたのだろう。父を恨んでいたのだろうか、自分の人生を不幸だと思っていたのだろうか。

 母が笑う時はうるさいくらいの豪傑笑いだった。父をいつも頼りにしていたし、あの大笑いでは不幸の方が逃げてしまっただろう。私の子どもは娘ふたりだが、父親より母親を大事に思う子どもであって欲しい。やがていつか、娘たちも母親と同じ年齢となり母親を誇りに思うようになるだろう。さて、孫娘ふたりにはこどもの日に何を贈ろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連休の中の金曜日

2011年05月06日 19時32分05秒 | Weblog
 連休の中の金曜日、せっかく車を置いていってくれたけれど、どこへ行くという当てもなく、ほとんど一日中ルーフバルコニーにいた。カンカン照りのような暑い日ならば午後からは作業が出来ないけれど、今日はどんよりとしていて農作業にはもってこいの日だった。おかげで、腰を下ろすと立ち上がることが出来ないまでになってしまった。腰を下ろして作業している時はなんともないのに、立ち上がろうとしても背筋が伸ばせないのだ。私より年長の人たちが、腰を引きガニ股で歩いている姿を見て、どうしてちゃんと背筋を伸ばして歩けないのか、歳を取ると何から何までみっともないと思っていたが、自分もまたそんな歩き方になっているようでガッカリした。

 人生はあっという間である。つい先ほど、中学生から高校生になったばかりのように思ったけれど、高校を卒業してもうすぐ半世紀になる。高校時代を一番よく思い出すのは私にとって充実した日々であったからだろう。今朝は、仙台の高校の先生となりデザインを教えていた。あの被災から始めて授業を行なう日というので、自分のことをPRするイラストかあるいは文章でもいいからと画用紙を配っている夢だった。高校の教員には未練があったからだろうか。それでもいつでも、何らかの形で自分が選択して今日に至っていることは間違いない。確かに大きな流れが支配している。たとえば生まれた場所や時代や自分ではどうしようもないものの中で生かされているが、今在る自分は自分が選択した結果であり、社会や他人が決めたものではない。

 高校3年生の時、下級生の女生徒からラブレターをもらったことがある。卒業間近だった。面長のきりっとした顔で色の白い子だった。遠くから自転車で通学していたから冬は頬を真っ赤にしていた。手もかわいそうなくらい赤かった。お父さんは学校の先生をしていると言っていた。手紙は尊敬しているということと、茶室が完成したので遊びに来て欲しいというものだった。私は好きな女の子がいたけれど、その子に「あなたが好きなのは、あなた作り上げた私なの。あなたにふさわしい人にきっと出会うわ」と宣告された直後だったから、彼女の誘いを受けてもかまわなかったけれど、私の友だちから彼女が好きだと聞いていたから困った。

 まるで夏目漱石か。考えた末に彼女に黙ってその男友だちとふたりで出かけた。素直な明るい子だったし、きれいな子だったから、男友だちには秘密にしてひとりで出かけてもよかったのかも知れない。後1ヶ月もすれば卒業で、みんなバラバラになるのだから、友だちへの負い目など考えなくてもよいはずだ。それなに、茶室で彼女が立てたお茶をいただき、しばらく雑談した後、「ちょっと用事があるから先に帰る」と言い、男友だちに「じゃあな、よろしく頼む」とまで言った。あれから彼女がどうなったのか私は知らないが、文学好きな子だったからきっと察しは付いただろう。

 人はどこでも必ず選択している。自分がした選択を悔いるようなことはしない。それが私の誠に身勝手な生き方であるが、迷惑な方々には申し訳ない。「ゴメン」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイノリティがいるからいいのだと思う

2011年05月05日 21時12分12秒 | Weblog
 今日はこどもの日か、子どもたちが巣立ってから縁遠くなっていた。友だちの家にお邪魔したら、飾り棚に兜が置かれていたし、妹の家に行った時もベランダに小さな鯉のぼりが掲げられていた。そうか、子どもの日かと思って、ベランダに出て町並みを眺めてみるが、鯉のぼりを揚げている家は見当たらない。町は黄色くぼんやりとしている。西に傾いた太陽は普段ならば赤い夕陽となっているはずなのに、映画で見た砂漠の太陽のように黄色く輝いている。もう4日ほど、こんな黄色い太陽が続いている。中国から黄砂が飛んできているとテレビニュースで報じていたけれど、気味が悪いくらい黄色い。

 午後6時、西の空に沈んでいく黄色い太陽をケイタイで写してみたけれど、残念ながら私のケイタイではこの程度にしか撮れなかった。写真では周りが暗くなっているが、実際はもっと明るくて黄色くぼんやりとしている。遠くの町並みはほとんど霞んで見えない。中国のゴビ砂漠の砂の、目に見えない粒子が海を渡ってこんな地方まで来ることに驚いてしまう。昔からこうした黄砂の飛来はあったのだろうか。それとも昔から飛んできていたけれど気付かずにいたのだろうか。最近、特に黄色い太陽を目にするようになったと思うのは気のせいなのだろうか。

 先日、井戸掘りをした宅で電動ポンプの取り付け工事を行なった。何をした時だったか、疲れ気味だった腰に思いっきり負担をかけてしまった。腰の筋肉がグッシャと音がしたように感じた途端、痛みが走った。それでも何とか工事を終えた。やっとお金がいただける工事が終了したのだ。このところ、出かけて行っても不成功ばかりで滅入っていた。そうなると気持ちも重いけれど身体はもっと疲れてしまう。「もう一度、造った道具でキチンと実験を行なってから出直そう」と確認できた。それだけでも一歩前進だろう。

 「本当に前進できているのだろうか。なんだか少しも変わらないみたいだ」と、若い議員が言う。地方議会の改革のことだ。自治体によってはかなり議会改革が進んだところがあるが、全体から見れば全く遅々とした歩みだろう。議員になったから「こんな議会でいいのか」と思えるのだけれど、有権者には議会が何をどうやっているのか見えない。河村名古屋市長が「議員はどえらゃーお金もらっているのに、議会ではなんにも議論もせんと、議案に反対ばっかりしとる」と言い出したことがきっかけになって、議員の役割や活動が問われるようになった。確かに議会は議論をしない。議決だけの議員が多すぎる。政務調査費という特別な手当をもらいながら、実際に勉強している議員が何人いるのだろう。

 議員の活動が見えないから、感情論で報酬は高過ぎるとか定員が多過ぎるとなってしまう。それでも、無党派市民派のような議員が当選出来ていることを考えれば、わずかであっても歯車は動いている。「マイナーじゃーダメなんですよ」と彼は言うけれど、私たちのようなマイノリティがいるから、歯車は動くのだと私は思う。「メジャーになることは決してないけど、それでいいのじゃないの」と私は言うが、彼はマジョリティ(多数派)にならなければダメなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま恋してますか?その2

2011年05月04日 21時50分24秒 | Weblog
 「感想は“やっぱりね”、予想通りです」と友だちの娘さんは書いている。「結婚しても相手に恋心はない」には四角で囲ってある。そして、「人は恋を忘れて生きてられるだろうかと、文中にありました。アンケート結果からもわかるように、生きていける、です。でも、恋は何歳になってもできるし、してもいいと思う♡」とある。「生きること、生きて在ること、そのどちらが欠けても幸せではありません。今の私は生活していく(生きること)ウェイトが大きいので、恋心は後回しです。夫婦もまず、生きていく、食べて子どもを大きくしていくことが第一です」。

 しっかりしているなあー。30代で子どもがふたりもいると現実に即して物事が見えるようだ。そこへいくと男は、現実を見ずにその先の見えないものを見ようとする、あるいは見えているような錯覚に陥っている。女性が現実的なのは「命がけで子どもを産むからだ」と心理学の先生が述べていた。だから女性が男を選ぶ基準は、「命がけの出産と引き換えにしてもいいと思える、頼りがいのある、強い男」なのだ。それを文章で書くと、「高収入、高学歴、優しく思いやりがある、性格がよくって面白さがある、決断力があり引っ張っていってくれる」ということになるらしい。

 けれど、男の誰にもそうした条件がそろっているわけではない。そこで女性たちも将来はそうなってくれるだろう男を現実に見定めているのだ。その典型はNHK大河ドラマ『お江』の茶々だろう。ドラマでは親の仇と思っている秀吉を茶々が次第に認めていく雰囲気だ。秀吉のことを「大ウソつきです。けれどウソの中に真実があるのです」と誰かが言っていたけれど、男の女性への愛し方を言い当てていると思う。女性が頼りがいのある強い男に惹かれるなら、男は美しく優しい女性に憧れる。美しさとはあくまでも男の目で見たものだから、あばたもえくぼでいいのだ。

 そうして結婚した男女も恋愛感情はいつまでも続かない。「“亭主元気で留守がいい”と酒の席で言える主婦になりました。それぐらいがちょうどいい幸せなんじゃないかと思います。身の丈に合った」と彼女は謙虚だ。その上、同じ紙面に掲載されていた上野千鶴子さんの回答に痛く感動して、「アンケートの下にある相談を読んで、この10年の結婚の不満が解消されました」と綴っている。彼女の夫は優しいし、収入もあり、育児に協力的で、親や近所への気配りもできている。しかし今、単身でアメリカにいる。投稿の相談者は女医で、夫が仕事を辞めて主夫になろうかなと言うことに、「怠惰な自分への言い訳に思えてしまう」と相談している。

 上野女史は「夫に生活保障から社会的成功、性的満足から知的刺激、家事育児への協力から気配りと癒しまで、何もかも求めるのはあきらめてください」と回答していた。先の娘さんも「まだまだあたりまえに求めていました」とあったから、上野女史の指摘に目が覚めたというところだろう。「パートナーに何を求めるか、優先順位をつけて目をつむる要求もバッサリ!わかっていても自分では切れなかったことをエライ人から切られると楽になりました」と締めている。女性は30代では子育てにかかりきりだが、40代になると大きく変わるのもこうした伏線があるからだろうか。娘さんはどんな女性に変わっていくのだろう、いや何も変わらないのかも知れないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま恋してますか?

2011年05月03日 21時14分51秒 | Weblog
 家に帰って、大き目のカップにコーヒーをこぼれるほど注ぎ、飲んだ。30日に続いて井戸掘りを行なったけれど、やはり水は出なかった。鉄管は8メートルも掘り進んだ。どんなに水を注ぎ込んでもその水が引いていく。「ヨシ、水脈だ」と言うので、水を汲み上げてみるがダメだった。この場所での井戸掘りはかなり力が要る。石と粘土が混じったような地質なので、鉄管で掘ることにしたけれど、その鉄管を回すのに力が要るのだ。両腕と腰の辺りが痛い。明日にはもっと痛くなってくるのだろう。まだまだ身体は若いと思っていたのに、衰えを感じる。

 中学時代からの友だちが、ブログで「恋愛に関するショート・ストーリー」を再開した。私は友だちの30代の娘さんに書いてもらった感想を載せなくてはと思いつつ、まだ自分が新聞記事をキチンと読んでいなくて切り口が見つからなかった。朝日新聞の土曜版に2週にわたって、『いま恋してますか?』が掲載された。ちょうど「桜の宴」の時で、そんなことが話題になっていた。娘さんが新聞を「見たい」と言うので、「感想を書いてよ」とお願いした。「あらお返事を書かなきゃ 文通を思い出してウキウキ 久しぶりの気持ちです」と絵文字交じりの手紙を受け取ったが、どう載せようかと悩んでいた。

 『いま恋してますか?』は、男性篇と女性篇になっていて、「はい」と答えた男性は42%、女性は39%であった。「誰に恋していますか?」の質問に対する男性の答えは圧倒的に配偶者が多かった。女性の答えも配偶者が1番多くその次ぎは芸能人で、男性の「職場の同僚」とは大きく異なっている。「いくつまで恋をできる?」の質問に、男性も女性も「80歳以上になっても」と答えている。アンケートの数字はこんなものだけれど、男性篇の記事は「人妻となり孫もいる高校の同級生と10年ぶりに再会し、(略)それから毎年、ふたりは年に一度、人知れず会っていた」とか、「日に日に妻が恋しい。いつまでも、若々しくいてほしい」という記事があった。

 女性篇の記事は「男性はまったく悪びれる様子もなく、彼女を食事や映画のデートに誘い、白昼でも腕を組んで歩いた。しかし、妻子を見限るつもりはないと言い切り、家庭サービスも怠らない」とか、「人生最後の恋だと思うと、彼を失うつもりもない。同性の友だちからは得られない心の張りと安らぎを与えてくれるし、なによりも、こんなに自分が輝いていられるとは思わなかった」ともある。「誰に恋してますか?」の問いに、多くが配偶者をあげているものの、実際に「命がけで恋の悦びとつらさ」を味わっているのは配偶者ではない異性ということなのだろう。

 そんな当然の結果に友だちの娘さんは、「このアンケートは何を導き出したかったのか」と厳しい目を向けている。アンケートに答えた年齢がわからないから、数値から読み取れるものは不確かな気がする。彼女はどうやって計算したのかわからないが、「配偶者に恋している人は」が男性は23%、女性は19%だといい、「やっぱりね、納得なっとく」と書いている。彼女の手紙についてあまり書けなかったので、この続きはまた今度にしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自らが政治にどう声を上げていくか

2011年05月02日 22時08分56秒 | Weblog
 「ウサマ・ビンラーディン容疑者は、米海軍特殊部隊SEALS(シールズ)隊員に、頭部を撃たれ殺害された」と報道があった。テレビでアメリカのオバマ大統領がその経緯を述べていた。私はウサマ・ビンラーディンを擁護する気はないし、彼の考えに同調する気もない。主義主張のために人を殺していいとは絶対に思えない。ウサマ・ビンラーディンが、虐げられた人々を思ってテロを行なっているとしても、だからと言ってその行為が正しいとは思わない。圧倒的な軍事力の前では何も出来ないことは理解できるし、テロという方法での抵抗しかないこともわかるけれど、人の死の上に幸せは築けない。

 圧倒的な力の前で、いったい何ができるのかと言われるかも知れないが、同じ土俵でいくら小さな武力で戦うと言っても、やはり侵略者と同じだと言えないだろうか。今日も、先日の市議選挙に立候補して破れた人が来て、「税金を湯水のように使い今の市政を止めさせるにはどうしたらいいのでしょうね」と言う。民主党が政権交代を実現した頃までは、「変えていこう」という空気があった。けれども政権を取った民主党の不甲斐無さに、さらに今回の震災の対応のまずさばかりが目に付いて、国民の意識は保守化した。現状維持であり、経験のある行政に傾いた。

 だから、「変えよう」というスローガンは受け入れられなかった。国民の多くは、たとえ税金を湯水のように使っていたとしても、本当はそれが見えていないのだろうけれど、有権者は選挙でこれを良しとしたのだ。長いものに巻かれろを良いことだとは思わなくても、当面は新しいことや正しいと思われることに目を瞑っていくことを選択したのだ。それを間違っているとか、正しくないとどんなに言ったところで変わりはしないと私は思っている。世論とはそういうもので、世論を動かすだけの力が私たちの側にはないということだ。

 アメリカの社会は圧倒的な軍事力でまだ世界を支配できると思っているけれど、アメリカ経済が頭打ちにあるように、アメリカ社会の自己矛盾がやがて自爆する時が来るだろう。人類の歴史が一箇所で長続きしなかったように、新しく歯車が回り始めるだろう。どのような社会になっていくのか私にはわからないけれど、少なくとも圧倒的な軍事力が支配出来る時代ではなくなるだろう。自給自足の社会になるとも思えないけれど、いつまでも右肩上がりの社会では社会そのものが維持できなくなるだろう。そんな風にして歴史は変わっていくのだろうが、そこに住む人々にはその変化が見えないのだ。

 「市政や市議会の改革はできていきますか?」と問うけれど、市民がそれを求め続けていくことがカギになるだろう。こんな市政では、こんな議会では、我慢ならないと市民が思えば、やがていつか変化が生まれるはずだ。そう思う市民が多ければ、当然市政は変わるだろう。自分が歴史にどうかかわるのか、いやもっと普通に、自らが政治にどう声を上げていくか、市民一人ひとりに問われていると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父や母を越えて行って

2011年05月01日 19時13分49秒 | Weblog
 昨日の疲労のせいなのか、朝からクシャミと鼻水が止まらない。もう花粉症は卒業できたと思っていたのに、まだダメだったのか。花粉症はアレルギー反応が原因なので、歳を取れば自然になくなると言われ、私もその通りだと実感していた。ところが70歳になった人が最近、花粉症で困っていると言っていた。花粉症とさよならできたと思っていたのに、今日のように鼻がぐじゅぐじゅしていると、年齢とともになくなる説も怪しくなる。それとも、若返ったのかと勝手な解釈をしてみる。

 歳を重ねると人は丸くなり、聖人のような包容力の持ち主になるものだと思っていたが、もちろんそういう人もいるけれど、意外にそうでもないようだ。ひがんだり、ねたんだり、いっそう頑固になったり、どうもいい話を聞かない。子どもを見ればその親がわかると言う。子どもに暴力を振るう親はやはり子どもの頃に親から暴力を受けたケースが多いらしい。それでは逆に、ひがみっぽかったり、頑固だったりする親の子どもはやはり末はそうなるのだろうか。子と親は似たもの同士というか、共通項を多く抱えているということだろう。

 私の親のことを考えてみると、祖父はとても頑固でいつも一方的な人であったが、父は全く逆で私は一度も父が怒った姿を見たことがない。父は自分の父親を反面教師にして生きてきたのだろうか、それとも母親の血だったのだろうか。祖父も父も妻に先立たれ、ふたりとも再婚話があったから、女の人がいなくては生きていけないタイプだったのだろう。それでも再婚しなかったのは、祖父は財産があったためで、逆に父は財産がなかったためであったようだ。

 年老いていっそう優しさが増したという人が身近にいない気がするのは、自分自身が老いてきたからなのだろう。新聞広告に吉本隆明氏の『老いの幸福論』が載っていた。書店で頼もうと思って切り抜いて書店に行ったら、山積みにされていた。こういう本を買う人もいるのだと思いながら買って来たが、新左翼に神聖視された吉本氏もこんな本を書いて稼いでいるのかと妙な気持ちだった。まだ、全部を読んでいないけれど、難解な思想の展開ではなく、全く日常生活に即したものだった。

 本の中で吉本氏は「お子さんは立派な小説家でと言われて、子どもの七光りで僕も少し認められたんじゃないかという気がしているんです。あいつはうさん臭い奴だとおもっていたら、結構まともに子どもが育っているじゃないか、というのが子どもの七光りでしょうね」と述べている。子どもというのは小説家の吉本ばななさんのことだ。私は吉本隆明氏の子どもがどんな小説を書くのだろうという観点でしか読まなかったけれど、父親として吉本氏は子どもを自慢に思っているようで微笑ましい。

 私もそんな風に言われるのだろう。その時は心から子どもを誇りに思う父親でありたい。子どもたち、私の娘ばかりでなくそのダンアナたち、彼らが社会を支えているわけで、私はその恩恵に浴している。もうすでに子どもたちの時代である。有名人にならなくても、父や母を乗り越えていってくれればいいし、実際はそうなっていることが嬉しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする