友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

多数決をやめたらいい

2012年06月20日 19時01分51秒 | Weblog

 台風は慌しく通り過ぎたけれど、消費税増税法案を巡って民主党は、昨夜は荒れた。全く考え方や政策が異なっている人たちが政党を作っていること自体が奇妙だ。小沢一郎さんの政治資金問題で、自民党時代と変わらない資金集めに嫌気がさしていた人たちも、小沢さんの増税反対は正しいと言う。あの時が選挙であれば、小沢チルドレンたちはほとんどみんな落選だっただろう。小沢グループが増税反対を最後まで貫き通したなら、半分は再選されるかも知れないが、民主党公認は得らるだろうか。

 以前なら、公認候補はいろんな組織がこぞって応援したから当選は確実だったけれど、最近は組織というか団体などの推薦は縛りが効かなくなっている。日本だけではなく、この前のフランスの選挙でも、当選すれば下院議長と言われていた社会党のロワイヤルさんが、左派系無所属の候補に敗れている。オランド大統領も元妻であるロワイヤル党公認候補を応援したにもかかわらずである。日本でも労働組合は選挙員としては働いても、組合員が全て投票するかと言えばかなり疑問だ。それでも地方になればなるほど、組織のトップからの指示を受ける傾向は強い。

 民主党の人たちは、「首班指名選挙とは違い、政策だから、反対しても除名処分は行なわないだろう」と言う。「民主党が分裂する事態だけは避けよう」と言い合っている。除名する側もされる側も、いずれも民主党が頼りなのだ。政治学者の佐々木毅さんが「政党という組織があって政策があるということと、政策があって政党が初めて存在するというのは、非常に違うということである」「政策がなくなれば政党もなくなることになろう」と書いていたが、政策のない政党になぜ固執するのだろう。

 私の住む市で、左派系無所属で頑張っている市議がいる。今日入っていた彼の『議会だより』に「議会人事にはウンザリ」という文面があった。「市議会は会派制ですので、会派の大きい順に役員ポストが埋まっていくのが慣例です」と延べ、「会派の大きい順に役員を決めるのではなくて、その役職にふさわしい人を選ぶのが公正な人事というものです」と主張する。しかし、「役員になりたくて最大会派に入るわけだから、絶対にポストは譲らないでしょう。指名推薦だろうが、投票だろうが、残念ながら選挙の結果は何も変わりません。民主主義もへったくれもないような振る舞いを見せ付けられるのは、ホントにウンザリです」と嘆く。

 嘆いていても何も変わらない。民主主義とは多数決だとみんなが思っているからだ。数がひとりでも多ければそれが全体の意見だと言う。それは違う。採決でたとえば6対5であっても、それが11人の意見ではない。数が少ない側が多数派になれることは滅多にないけれど、何でも多数決で決めればいいと思っている連中の思考回路に迫ることが必要だ。そのためには情報公開が大きな力になる。ひとつひとつ細かく市民に知らせていくことだと思う。

 マスコミは政局を面白がって報道するが、もっと議員一人ひとりの言動を細かく報じて欲しいものだ。政局にみんなが振り回されるなら、誰がどうしたとばかりが話題となり、誰も傷つかないまま終わってしまう。今は血を流す時なのに、傷つかないことばかりが優先されている。そういう民主主義でいいのかと思う。

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早吞み込みな次女と私

2012年06月19日 18時28分31秒 | Weblog

 昨日の夕方のこと、メールが来た。「ぱぱ、大好きな(キスの顔文字)無理しないでやりたいことやって、笑って泣いて、楽しい時間をいっぱい過ごしてください(星の絵文字)」。件名はないが、送り主は茨城に住む次女である。エッ?何コレ?と思った。今にも死にそうな父親に送る言葉のように早呑み込みしてしまい、「アリガトウ」と返信するところを、「何?これって何なの?どういうこと?」と送った。

 すると次女は「わかんないかぁ~昨日父の日だったじゃん(絵文字で指)送ろうと思って送れなかったメール(舌を出している顔文字)ビックリさせてごめんよ~」と来た。私は「ありがとう!父の日に送れなかったけどと、添えてくださいね」とやっとお礼の返信を送ることが出来た。次女は子どもの頃、見かけはとてもおっとりした子だったのに、小学校の時は問題を最後まで読まずに回答してバツをもらってきた。そういえば私も小学校の時に、算数のテストで「分かった」と思って、全く逆のことをやって0点をもらったことがあるから、血は争えないのかも知れない。面倒見がいいのに、熱くなりすぎてしまうところもよく似ている。

 ギリシアの再選挙で、ユーロ圏残留派が多数を占めた。欧州連合からの支援停止やユーロ圏からの離脱となれば危機はいっそう深刻化するから、「ほとんど世界中がこの結果に安堵したのも当然だ」(6月19日中日春秋)とする論調が多い。危機はいっそう深刻化するという前提に立っているわけだ。確かにギリシアを発端に世界恐慌へ発展するかも知れないが、現在の仕組みが延命されただけで、実はもっとさらに深刻な事態に進むことになるのかも知れない。先のことは分からないから、とりあえず現在の仕組みは維持されるだろうということになる。

 野田首相は原発を無くしては生活できなくなると、国民の生活を守るために大飯原発の再稼動を決定した。これに対して中日新聞は深田実論説主幹の『それでも原発に頼らず』を掲載した。「国は再稼動を決めました。しかしそれでも、私たちは、原子力に頼らない、持続可能という新たな豊かさを築くべきだと考えます」と主張している。私はその通りだと思うけれど、なぜかこの論調に物足りなさを感じてしまう。「新たな豊かさ」って何を指すのだろう。もっと言えば、「豊かさ」を求めなくてはならないのだろうか。

 深田主幹は「今、世論の多くは脱原発依存を支持しています」と言う。この発想こそが問題ではないのかと私は思う。多くの人が支持すればいいのだろうか。数に関係なく、これが正しい道であると主張し、その根拠を示すべきだろう。「原発に頼らない理由は、人の命と健康は経済性に優先する」と深田主幹は言うけれど、野田首相の言い分も「国民の命と生活を守るため」だったのだから、もっと踏み込まなければ説得力がない。

 次女と同様に早合点の傾向の強い私は、ギリシアの選挙結果は選挙前と何も変わらないと思うけれど、希望から言えば、ユーロ離脱組が多数となって危機が進む事態が見たかった。新聞の穏健な主張には何も感動しないけれど、「再稼動を決めた政府を解職させよ」と書いてあったならもっと新聞を支持するのにと思う。最近の朝日新聞と比べれば、中日新聞はしっかりとした自己主張が見られるけれど‥。これも私の早呑み込みかも知れない。

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昨夜は宴会になった

2012年06月18日 19時31分26秒 | Weblog

 昨日は韓国フェスティバルの会場係りに駆り出されて出かけた。国際交流協会の友だちから、「人手が足りないから手伝って」と声がかかり、『おたすけ』のメンバーで出かけた。K-ポップのアイドルがやって来るというのだが、K-ポップもAKB48もよく分かっていない。マイケル・ジャクソンのダンスはダンスの世界に金字塔を打ち立てたけれど、だからか、EXILEもK-ポップもみんな同じように見えてしまう。

 果たしてK-ポップというだけで、どのくらいの人が集まるのだろうと思っていた。そこへ友だちが一昨日に、「客の集まりが悪いようなので、ボランティアで来て欲しい」と言ってきた。市内でのチケットの売り上げ状況は、座席の半分に満たないという。私たちのような年寄りが出かけていっても役に立つことがあるのだろうかと思いつつ、頼まれた以上は何でもやるのが私たちの「とり得」である。誠に単純に出来ているのだ。

 午後3時に集合し、各自の役割について指示を受ける。それぞれが持ち場について開門を待つ。午後3時30分、開場する。指定席ではないので、並んでいた皆さんはいっきに席を確保するためにドアへと向かう。ところが「中は真っ暗で危険なんですが」とドアのところにいたボランティアの夫婦が血相を変えて私に来る。「誰に話せばいいのですか?」と聞かれるので、「主催者の責任者が玄関のところにいますよ」と教えるが、一体どうなっているのだろう。

 主催者である国際交流協会の事務長が来たが、右往左往するばかりで的確な指示が出せない。「あなたが責任者なのだから、キチンと指示しないと私たちは動けませんよ」と、私は腹が立って言ってしまった。4時からしか席には着かせないで欲しいと出演する側の社長が事務長に言っていた。それなら、集まっている皆さんに向かって、「申し訳ありませんが、お席の方には4時に扉を開けますので、しばらくお待ちください。誠に申し訳ありません」と謝ってくれれば良いのに、ボランティアの私たちに、そのように伝えてその場から去って行った。

 先回の韓国フェスティバルの時もそうだったけれど、トップとして責任をどう取るのか、この人はそれが出来ないと思った。自分が悪者になって責任を取ろうとしてくれたなら、下で働く者は信頼して働けるのに、役職にふんぞり返っているようでは現場は混乱するばかりだ。4時まではドアを開けないで欲しいと言う指示はなかったけれど、起きてしまった混乱をどう始末するか、それは責任者が引き受けなくてはならない仕事である。

 そんなこともあったが、フェスティバルには入場者が6割くらいあって、無事に終了した。珍しいことにカミさんが、一緒にボランティアを務めたお隣さんに、「丁度、馬刺しがあるの。我が家で飲みませんか」と声をかけた。夕食はフェスティバルの会場で、弁当が出たからすませたけれど、それで終わってしまうのでは物足りないと思ったのだろう。2家族とお手伝いをしてくれた娘さんも来てくれて、わいわいがやがや、宴会となった。おかげで昨夜はブログを仕上げることが出来なかった。

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「知る」ということ

2012年06月16日 21時06分24秒 | Weblog

 次回の大和塾の市民講座は7月28日(土)で、題名は『中国黄土高原 今を生きる農民たちの暮らしと風俗』。黄土高原に住み着いて7年になる日本人女性が写真を見せて話してくれる。先日、その写真展の開催をお願いに行ったところ、「大和塾がこのような企画をする意義はどこにありますか?」と聞かれた。大和塾は「市民による市民のため」の講座を開いてきたが、その内容は実に幅広い。宗教の話もあれば医学の話や物理の話、そうかと思えば旅行や介護の話、ピカソの話から目の見えない人の話、こうでなくてはならないといった基準はない。

 私は大和塾が生まれたいきさつを話し、「知る」ことが、人には、そしてまちづくりには、大事と思っていると説明する。医学や介護や旅行の話など、聞くことで生活に直接役立つこともあるかも知れない。物理やピカソのことを聞いても、ただ「へぇー」と思っただけかも知れない。それでも「知る」ことは、自分の生き方にどこかで糧になっていくだろう。人が勉強するのは直接的な利益ばかりでなく、自分が変わっていくためでもある。知らなければ、知っている範囲でしか考えられないが、知っているものが多ければもっと豊かに考えられるだろう。

 中国の上海や杭州を知ることもいいし、発展の波に取り残された地域を知ることもいい。9月にはエベレスト登頂の話を聞くが、わざわざ危険な目に遭うような登山に情熱を傾けるのか、なぜなのだろうと思うことも意義があるはずだ。人間は、いろんな人間がいて、いろんな生き方をしている。原発のことも増税のことも、政治のことも経済のことも、あらゆることが大事なことで、それをもう少し詳しく知りたい、そうした機会をつくっていきたいと思う。そしてさらに、全く別のところから、「知る」機会をつくっていくことも使命だと思っている。

 昨日は6月15日。1960年の今朝の新聞は、国会議事堂前で、安保条約に反対する全学連や労働組合と機動隊との衝突を1面全部を使って報じていた。東大生の樺美智子さんが亡くなったことも載っていた。前日のテレビニュースで、すごいことが起きているとは思ったけれど、何も知らなかった。それで、学校へ行くとなぜか騒々しかった。私は高校に入学したばかりだったが、新聞部の先輩たちは浮き足立っていた。この日ではなかったように思うけれど、全校集会が開かれ、どこかの新聞社の人の話を聞いた。私にとって60年安保はそれだけのことで、先輩らがどこかへデモに出かけることも無い静かな田舎の高校だった。

 高校生の夏に、東大へ入った先輩がオルグにやって来たが、私の友だちは誰も彼に関心を示さなかった。大学に入ると、60年安保の体験者というか生き残りがいて、2つに分かれていた。1つは深い挫折感に包まれていて、もうひとつはヘンに高揚していた。私はキリスト教に憧れながら信仰の道に進めなかったから、挫折感では通じ合うところがあった。別の大学へ行った高校の同級生がオルグに来た。「正しいもの」とか「正義」とかを彼が口に出すのでぞっとした。そんな絶対的なものは存在しないと否定すると、「革命が起きた時は、お前はトロツキストだから死刑だ」と言われた。トロツキストって何?それで本を読んだけれど、トロツキーに親しみを感じた。

 スターリンしか知らなければスターリン一辺倒になったかも知れない。人の持って生まれた感性がそうさせなかったのか分からないが、幅広い知識を持てば多少なりとも視野は広くなる。そういう人間でありたいと思う。

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発想を変えて、考えて欲しい

2012年06月15日 19時38分27秒 | Weblog

 テレビ朝日の『報道ステーション』で、キャスターの古館伊知郎さんとコメンテーターの三浦俊章さんが、「国にお金がないことは誰でも知っている。皆さん、増税は止むを得ないと思ってはいる。けれども、今やることなのか、それが問題ですよ」と話していた。えっ、テレビ朝日もかと思った。野田内閣が消費税増税を政治生命をかけて実現させると言った時、どこのテレビも「それはないでしょう」と批判的だった。それが最近では、増税は仕方ないけれど時期が間違っているといった調子に変わっている。

 今国会で増税法案を何が何でも実現させると民主党執行部は言う。関連法案の成立のためには、あらゆる妥協を惜しまない有様だ。今朝の新聞には、民主党と自民党は社会保障改革で合意したとあった。それを報じた中日新聞のコラム『中日春秋』は、「民主党が自民、公明両党と新たな原子力規制組織の設置関連法案に関する修正協議で合意した」ことに触れ、「今後発足する原子力規制委員会が速やかに(稼動を)判断し、見直すとの規定も入った。これでは規制委の判断次第で(原発の)寿命が延長されかねない。〈略〉消費税増税のことなど、ただでさえ、民主党はどんどん自民党に似てきて〈略〉数少ない違いがまた1つ消えることになる。」と書いていた。

 「もしこれ以上自民党にそっくりになるなら、もう民主党はいらない」というわけだ。どうして野田首相は「不退転の決意」で、増税を行いたいのだろう。いやそればかりか原発についても、「国民の利益を守るのが政治」と前置きして、「そのためには原子力発電は不可欠です」と言う。ここに野田首相の頭の中の構造が現れている。首相になったからには、現在あるものをより発展させて行く使命があると。官僚たちにそのように説得されたのだろうが、それはこれまでの政治の形だと思う。

 私はギリシアやフランスの選挙に注目している。ギリシアの国民も好き好んで財政破綻になったわけではない。どこの国も行っている右肩上がりの経済政策を続けてきた結果だ。今、世界は、特に発展途上国以外はみな経済の伸び悩みに苦労している。資本主義社会が頂点に上り詰めた時、次にどうなるのか。国家が経済をコントロールすることになるのか、それともさらに自由な経済競争が新しい道を開くのか、もっと全く違う展開になるのか、とても興味深い。ギリシアやフランスの選挙はそうした方向のさきがけとなるのだろうか。

 「増税しなければ財政破綻を招くことになる」と政治家たちは言う。「いや、その前に緊縮政策を徹底し、支出を抑えるべきだ」とも言う。どうも全てが、現在あるものを踏まえているけれど、現在あるものをゼロにしては考えられないのかと思う。議員定数を減らせとか公務員を少なくせよと言うけれど、議員は必要なのか、公務員がなくてはダメなのか。石原知事が「ドロボウが入ってこようとしているのに、これを防ごうとしない国がどこにあるか」といきり立っていたけれど、ドロボウの存在そのものをなくせばいいではないか。国だとか国境だとか、そういうものが必要なのだろうか。発想を変えて考えて欲しいと思う。

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歌人、島秋人のこと

2012年06月14日 19時45分38秒 | Weblog

 切羽詰った人の中には特別な境地にたどり着く人がいる。最近、冤罪が話題になっているけれど、やっていないのに「やった」とされたのではこんな理不尽はない。金を盗んだということで、「仲間はみんなお前がやったと言っているぞ」と言われ続け、「正直に言った方が楽になれる。母ちゃんはお前のために泣いている。母ちゃんのためにも言ったらどうだ」と優しく言われると、だんだんその気になってしまう。そんな話を聞いた。けれども、それが殺人であっても「私がやりました」と言うのだろうかと私が疑問を呈すると、「取調べを受けたらやっぱりそう言ってしまうよ」と教えられた。

 本当に罪を犯した人はどうなのだろう。以前、『吉展ちゃん誘拐殺人事件』の犯人の小原保の短歌を紹介したことがある。およそ文学とは縁のない男だったけれど、刑務所で短歌を学び、歌を作っている。「世をあとに いま逝くわれに 花びらを 散らすか門の 若き枇杷の木」(遺詠)はなぜか清々しい雰囲気がある。小原保は1933年に福島県の貧しい農家に生まれ、6男5女の10人目の5男。幼い時にアカキレから黴菌が入って骨髄炎を患い、足が不自由だった。

 先日、島秋人の話を聞いた。この人も小原保と同年代だ。父親は警察官で、朝鮮や満州で勤務していた。ところが終戦で父親は公職追放となる。母親は肺結核であったが、子どもたちのために自分の食事を半分も食べずに分け与えて、栄養失調で亡くなった。島秋人自身も蓄膿症、百日咳、中耳炎などを患い、そのためか集中力や根気に欠け、学校の成績は最下位で、先生や級友から「低脳児」と呼ばれていた。試験で0点をとり、先生に棒で殴られたこともあった。中学卒業した後、ガラス工場やクリーニング店で働くが長続きせず、強盗殺人未遂で特別少年院に入れられた。

 事件は彼が25歳の時だった。農家の主人とその妻を殺し、現金2千円や時計などを奪い、その数日後には逮捕され、1審で死刑が宣告された。獄中で開高健の小説『裸の王様』を読んで、絵を描きたいと思うようになり、小学校の図画の吉田先生に手紙を出した。学校生活の中で褒められたことは一度しかなかった。それが吉田先生の「君は絵は下手だが、構図がよい」という言葉だった。それで、感謝の気持ちと自身の現状と思いを手紙に書いた。

 吉田先生は島秋人のことは覚えていなかったけれど、自分のたった一言を忘れなかった教え子に涙し、妻と共に返事を書き、短歌3首を同封した。吉田先生のカミさんは短歌を嗜む人で、島秋人から送られてくる歌を見て、才能を感じた。それで彼が住んでいた地名の「島」としゅうじんと読める「秋人」を歌名とさせた。「ほめられし 事をくり返し 覚ひつつ 身に幸多き 死囚と悟りぬ」。「温もりの 残れるセーター たたむ夜 ひと日のいのち 双手に愛しむ」。島秋人の短歌は多くの人に感銘を与えた。やがてそのひとりの養子となり、義母の勧めでキリスト教の洗礼を受ける。

 彼は辞世の歌を6首残している。そのうちの1つ。「この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜温し」。島秋人のことを教えてくれた人は、「生まれた環境でこんなにも人は違ってしまう。貧しいって罪だね」と言う。

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『笑っていいとも』

2012年06月13日 19時22分32秒 | Weblog

 人気のテレビ番組『笑っていいとも』を時々見ることがあるけれど、どうしてそんなに長く人気があるのか分からない。司会のタモリは66歳というからいわば同年代だ。しかし、どこが面白いのか私には分からない。極めて身内の話で盛り上がっていることが多いし、笑いの元が他人の顔であったり身体であったり、つまり持って生まれたものなのに、それをけなし合って笑いを誘うのは私には許せない気がする。これを学校で行うなら確実にイジメではないか。『笑っていいとも』でやっているようなことをみんなが面白いと思っているのだろうか。仲間内で同じことをやればみんなは笑うのだろうか。

 先日、日曜日の午後、電車に中学生くらいの野球部の子どもが3人乗り込んで来た。野球の試合が終わって帰るところのようだった。真ん中の子が一番ふざけていて、両隣の友だちを相手に平手打ちをしたり、ボクシングを真似てボデイブローを打ったりしていた。ニヤッと笑っては繰り返していたから、彼としては遊んでいるに過ぎない。両隣の子も同じようなことをするなら確かに3人は遊んでいると思ったけれど、やられている2人は避けようとはするが、相手に向かう意志はなく、やられるがままになっている。

 小学校の4年生の時を思い出した。プロレス遊びが盛んで、授業後に教室に残ってプロレスの真似をしていた。けれど、していたのは悪童だった子ひとりで、他の子どもはいやいや彼に付き合っていた。彼の家にはテレビがあったのか、「力道山はこうするのだ」と私たちに教えるが、受ける方は苦痛だった。彼を負かしてはならなかったし、もしそんなことをしたなら、ずぅーといじめられることになるから、とにかく言いなりになるしかなかった。彼は身体も大きく運動も出来る方だったから、クラスの男子で逆らう者はいなかった。また、どういうわけか彼の手下というか腰巾着のような取り巻きもいて、ご機嫌をとっていた。

 『笑っていいとも』を見ていると、そんな昔のことが思い出される。50代の時、偶然に故郷の居酒屋で4年生の時の悪童に出会った。彼の家は自動車の修理工場を営んでいたが、その時の彼は宝石商をしていると言っていた。昔はあんなに威張っていたのに、なんだかスケールの小さな男になっていた。小学校の同級生が「お前にはみんながいじめられたよな」と言うと、彼はきょとんとして、「いじめたかあー?覚えないなあ」と言う。いじめられた方は一生涯忘れられないことなのに、いじめた方は覚えていない。電車の中の子どものように、執拗に平手打ちやボデイブローを繰り返していても、やっている方は遊びと思っているから何も意識していないのだ。

 『笑っていいとも』でも、これは笑いというつもりなのだ。笑い者にされた方もこれは仕事だからと思っているのかも知れない。いや、テレビを見ている方もこれはお笑い番組だからと受け止めているのだろう。しかし私は、他人をバカにしたりするお笑いを恐いと思うし嫌いだ。みんなが笑う側にいるわけではなく、笑われる側に追いやられたなら、どうするつもりだろう。

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22のドラマ

2012年06月12日 19時35分36秒 | Weblog

 昨日のブログに早速コメントが届いた。感謝である。「22人集まれば22のドラマがあります。老人クラス会は下手な演劇より、うーんと味があり、最高のイベントですね」とあったけれど、まさにその通りだった。何十年ぶりかで参加した人もいたが、彼は、高校生の頃はクラスの中心的な存在だった。事務所を構えて仕事をしていたけれど、うまくいかなくて倒産し、妻とは離婚してひとり長距離のトラック運転手をしていたそうだ。「やっと借金が返せて、また元のカミさんと再婚しました」と言う。

 彼を見つけたのは中のよかった友だちで、場所は病院だったと言う。すれ違った時、どこかで見たと思ったそうだ。それが会計の時に呼ばれた名前を聞いて、「やっぱりそうだ」と思い、近づいて声をかけたが、相手は「どなたですか?」と言う。名前を名乗って顔を見合わせるうちに、「おお!」と抱き合ったようだ。その友だちの方は「3回結婚し、3回離婚して今は独身」と言う。病気になって仕事を辞めたけれど、今は新しい仕事を見つけて働いている者もいれば、地域の消防団で活躍している者もいる。

 クラウンやレクサス、ホンダの2000GTに乗ってくる人もいるし、本人の手作りのカヤックを積み込んできた人もいる。この不景気の中でも仕事がうまくいって、何人もの人を使っている人もいるし、ロータリー・クラブのメンバーになった人もいる。近況報告を聞いていると、それぞれが長い人生を送ってきたことがよく分かる。順風満帆のように見えた人も、逆に苦労の連続だったように見えた人も、きっと真剣勝負の時が何回もあったのだろうけれど、今は笑って話せる。

 「3年間の思い出」を一言貼り出して、それを一人ひとりが説明する企画は面白かった。学校では体育祭の時にマスコット人形を科ごとに作って競い合うけれど、高さは6メートルもある巨大なもので、大きければいい訳ではなく美しさや工夫が評価される。このマスコット作りは一生の思い出であることがよく分かった。早弁をしたことやタバコを吸ったことなどが語られた中で、「Mの部屋」というユニークなタイトルがあった。

 このクラスは女の子が少ないけれどきれいな人が多くて他のクラスから羨望の眼差しが注がれていた。中でも色は黒いが目がパッチリしていた人気者の女の子がいた。その女の子の部屋に入ったことがあると言うのだ。男子の連中は興味津々で、「それでどうした?」とはやし立てた。ところが本人は「部屋の様子は覚えているけど、何したかは覚えていない。初心だった」と言うので大笑いになった。みんなの憧れのマドンナはガンで亡くなったと言う。「美人薄命」と嘆く者もいたけれど、どんなおばあさんになっているか、会ってみたい気もしたが、高3のままの方が幸せかなと思い直した。

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お互いに歳をとりました

2012年06月11日 19時31分35秒 | Weblog

 河和駅に着いたけれど、それらしい人がいない。名古屋駅で特急に乗るべきかと迷った。駅にいれば誰かが声をかけてくるだろうと思っていたがそんな人はいない。特急に乗れば河和駅で30分待つことになるから、その次の準急で行くのだろうと思って乗り込んだけれど誰もいなかった。おかげで40歳くらいの男女の激しい喧嘩を眼の当たりにすることになった。同じ電車の座席も隣で、聞きたくなくても聞こえてきた。喧嘩の原因は、約束の時間に男が遅れてきたことにあるらしい。

 女はヘラヘラしている男に、「あんたはいつもそう。全く懲りずに同じことをする」と目を吊り上げて怒っていた。男は泣きそうな顔で、「そうか、そんなことないと思うけどなあ」と言う。「そういうところが嫌。どうして反省しないの。いつも同じ」。「反省してるって」。「全然反省してないじゃない」。「そんなことないよ」。「口も利きたくない。バカみたい」。「そんなに怒ることでもないじゃーない」。男は困り果てている。女は黙って窓の方を向いている。男は座席に着く時も女を誘導して腕と腰を捕まえていたが、座席についてからも手は女の手を握っていた。

 こんなに喧嘩しているのに、これだけみんなの前で罵倒されているのに、男は女の手を握っている。女は男を言いたい放題に罵っているのに、男の手を拒否する素振りはない。恋愛の神様として、私は男に「この女とは別れた方がいいです。いつもこんな思いをすることになります」と告げてあげたいと思った。そのうちに静かになり、私は電車に揺られて眠ってしまった。河和駅で降りる時もこの男女と一緒だった。ところが電車を背景に男が歩いてくるところを女が写真に撮っている。ニコニコ顔で男を迎え入れ、ふたりは手を取り合って歩いて行った。名古屋駅から河和駅に着くまでのわずかな間に仲良しになったのだ。

 そんなことがあったので、退屈はしなかったけれど、やはり誰も乗っていなかった。改札口を出て、宿泊先からの迎えの車を探した。その車の運転手さんが、「皆さんはそこでコーヒーを飲んでいますよ」と教えてくれた。店に入ると何人かいた。高校3年生のイメージからは大きく違う老人たちである。3年前に一度出会っていなければ思い出せなかったかも知れない。3年前に彼らが還暦を迎えた年のクラス会に呼ばれて初めて参加したが、その時は1年、2年、3年の担任だった先生が中心だったのに、今回は私ひとりだと言う。

 私は新任で3年生の授業はなかったように思っていたけれど、逆に「油絵をやった」と教えられた。22歳だった私は教師というよりも友だちのようなもので、ある意味で彼らに可愛がられたと言っていいのかも知れない。体育大会ではマスコット人形を一緒になって作った。文化祭では新任の7人の仲間で歌を歌った。授業の中心は実習だったから、平面グループの製作は見て回った。教えると言うよりも一緒に作業をするといった方がいいだろう。背の高い生徒はわざと肩を組んできたし、女の子は年上の女性のように私を扱うこともあった。今年、63歳になる彼女たちは立派な腰周りになっていた。

 1泊のクラス会だからかも知れないが、昔話に花が咲いた。男17人、女4人、私を含めて総数22名。案内状を39名に送っているそうだから出席率は高い。音信不通者は男1人、女2人と少ないのもクラスの仲間意識が高いからだ。残念なのは故人となった者が男4人、女1人もいることだ。みんな働き過ぎなのかな。まだ現役で働いている人もかなりいる。何時までも元気でやっていて欲しい。

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『生まれ出づる悩み』

2012年06月08日 21時28分19秒 | Weblog

 先日の強風で、植木鉢の壁にへばりついていたアゲハチョウのサナギが落ちていたのを拾って、床の上に置いておいた。今朝見るとサナギの色が変わっていた。よく見ると羽の色がわかる。そろそろ羽化するだろうと思ったのにその時は、羽が伸ばしやすい位置に置き換えてやることまで思わなかった。昼から買ってきた苗を植えようとして、ルーフバルコニーへ出て植木鉢を眺めていた時、何か動くものがあった。見ると羽化したアゲハチョウがもだえている。片方の羽がうまく伸びなくて飛び立てないでいる。急いで手を差し出すと指に絡み付いてきたので、ミカンの木に移してやったが、この雨では長くは生きられないだろう。

 中学だったか高校だったか、覚えていないけれど、『生まれ出づる悩み』を書いた有島武郎のことを思い出した。この小説がどんなストーリーだったのか、いやそもそも読んだかどうかも定かではない。有島武郎は明治11年、大蔵官僚の長男として生まれ、学習院から札幌農学校へ進み内村鑑三らの影響を受けてキリスト教に入信した。アメリカに渡ってハーバード大学などに通い、社会主義やイプセンなどの西欧文学、ニーチェなどの西欧哲学の影響を受けた。ヨーロッパにも渡っている。中学生か高校生の私が、有島武郎のことで一番関心を持ったのは、自分が所有していた農地を小作人に解放したことだった。

 キリスト教の信者で、社会主義に傾倒していくことに自分を重ねていたような気がする。その頃は有島武郎を人道主義の立場に立ち、志賀直哉や武者小路実篤らと『白樺』を発行する上流家庭の文化人というくらいにしか受け止めていなかった。キリスト教的な「愛」と、働いても幸せになれない普通の人々の現実、恵まれた自分と自分の内にある才能、彼には悩みながら変えられない価値観があった。それは雑誌『婦人公論』の記者だった波多野秋子との心中に現れていると思う。学生の頃は「最後は心中か」と、太宰治と同じように受け止めていたが、最近になって新聞だったか何かで、心中のいきさつを知ってなるほどと思った。

 文人の不倫事件は結構ある。有島武郎は妻を亡くしていたが、秋子は人妻だった。夫は実業家で「熨斗をつけて進上してもいいが、俺は商人、無償で提供するわけにはいかない」と金銭を要求した。文人の中には金銭で解決した例もあるが、有島は「愛している女を金に換算する屈辱は忍び得ない」と断ってしまう。秋子の夫にとっては想定外のことで、「必ず金は取ってみせるからそう思え」と捨て台詞を吐くしかなかったようだ。武郎と秋子は翌々日、つまり6月8日の午後、誰にも行方を告げずに軽井沢の武郎の別荘に向かい、首を吊って死んだ。ふたりの遺体が発見されたのは1ヵ月後の7月7日で、腐乱し朽ち果ていたそうだ。

 武郎が秋子と出会ったのはわずか7ヶ月前のことだ。プラトニックなものだったかも知れないし、そうでなかったのかも知れない。いずれにしても潔い最期だったと思う。上流社会の軟弱な男であっても、最後は考え抜いた末の決断だったであろう。秋子はどんな思いで共に死ぬことを選んだのだろう。

 さて、明日と明後日はブログを休みます。明日は教員をしていた時のクラス会で、明後日は誕生日会です。

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