友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

アンネのバラ

2014年05月10日 17時47分02秒 | Weblog

 我が家の鉢植えのバラも満開に近づいてきた。今年のバラは花が大きくて、その重みで下を向く控えめなものが見られる。花が大きいのは肥料のせいだろう。これまでは鉢植えだからと、鉢の土をそのままにして、根元に肥料を置く程度だった。昨年、友だちから「肥料を与えたら花がよく咲いた」と聞いた。そこで昨年の秋、全てのバラを鉢から抜いて土をほぐし、新しい鉢に新しい土と肥料を入れる植え替え作業を行なった。やはり「バラとボタンは肥料が大事」と言うとおりだった。

 なかでも「スウニール ド アンネ フランク」と命名されたバラは、たくさんの花を咲かせている。『アンネの日記』が破られる迫害事件があった。我が家の「アンネのバラ」も強風と寒さによく耐えた。美しいものを「美しい」と、心惹かれるものを「愛おしい」と、言えることが大切だと思う。ところが、人間にはいろんな面がある。ひとりの時は素直なのに、集団やまして国家ともなると、全く違った顔になってしまう。社会主義を標榜する国家であったはずの中国とベトナムが海洋資源の取り合いを行なっている。

 今晩はお祭りで、長女のダンナが作詞作曲し振り付けまでしたダンスの発表がある。もちろん踊るのは4歳と19歳の孫が中心で、19歳の孫の友だちや長女の職場の女性たちも友情出演するという。長女はきっとプロジューサー役だろう。これがよい機会になって、長女のダンナに光が当たるといいなと、親バカのように願ってしまう。それなのに、残念ながら私はマンション自治会の役員引継ぎ会の方に出席しなくてはならない。実際の舞台は見られないが逆にその方が、心配せずに見られて、私にはよいのかも知れない。

 自治体が違うから、国家が違うから、そんなことでお互いの利益ばかりを強調するのはみっともない。花は人間のために美しく咲くわけではない。バラは芳香を放すが人間のためではない。虫を呼び集めるためだ。虫は花に集まり受粉を助けるが、その幼虫は葉や花を食べるものもある。それぞれがそれぞれを頼りにしている。人間もそんな風に寛大になれないものだろうか。出来る限りそのままにしておきたいと思いながらも、葉に虫がいれば私も殺してしまう。どうしたものだろう。

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頑張れない時代になった

2014年05月09日 18時55分30秒 | Weblog

 赤ちゃんはどんなに見ていても見飽きることはない。ただ寝ているだけなのに、いろんな表情がある。次女のダンナは「可愛いですね」と連発していたが、我が子ほど可愛い赤ちゃんはいないようだ。「これからもっと働かなくてはなりませんね」と、決意を込めて言う。次女に言わせれば、「仕事が何よりも好きなのよ」という企業戦士のようだ。昨日、彼のお父さんと話していると、「いつまでも遊んでばかりいてどうなるのかと思ったが、これで腰を据えて人生設計を考えるだろう」と、息子を心配する父親の顔になった。

 次女のダンナは所長を任せられるほど会社から信頼されている。それだけに、目標値をクリアしたいという意識が彼には強くある。「それがストレスになって、可哀相」と次女は言うけれど、大方の人間はみなそんな圧力の中で働いている。仕事をするということは、残念ながらストレス以外の何物でもないだろう。それでも、やっていることが楽しくて仕方がないと思う時がある。うまく回っている時で、結果も充分で、従って評価もいい。ますます調子よく仕事に励んでしまうけれど、ストレスがなくなったわけではない。

 先日、次女のダンナとお酒を飲んでいた時、「『頑張れば出来る』って、あの人たちは必ず言うんですよね。あれは何なんですかね」と言う。「あの人たち」とは彼の上司だった団塊世代のことだ。団塊世代については、「口先ばかりで困った」と他でも聞いたことがある。反体制的なことを言いながら、どっぷりと企業に浸かり、「一番いい夢を見てきた人たち」と後輩たちから揶揄されてきた。私も彼の父親も団塊の世代ではないが、年を重ねる毎に給料が増える時代を生きてきた。

 「努力すれば必ず報われる」よい時代だった。そんな体験から、「成績が上がらないのは努力が足りないからだ」と決め付けてしまう。今は儲かる時代ではないのに、今は先が見えにくい時代なのに、自分の体験からしかものが言えない。年寄りと若者はいつもそんな価値観の違いの中で生きている。「これから」を切り拓いていくのは、40代や50代の彼らである。生きている時代が大きく違ってきたと私たちも認識し、若い世代を理解する努力こそが必要のようだ。

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祝杯!!

2014年05月08日 21時58分54秒 | Weblog

 昨日の夕方、私たちが次女の病室から出ると、向こうに次女のダンナの姿が見えた。彼は前日、仙台に帰っていったばかりで、次ぎに来るのは今週末と聞いていたからビックリだった。何よりも驚いたのは次女で、彼の姿を見た瞬間にもう涙を流していた。「よく来られましたね」と聞けば、「会社の連中が『見に行って来い』と言うんです」と照れくさそうに笑う。彼も「生まれた」と聞いた時から、それに輪をかけて写真メールで赤ん坊を見た時から、「一刻も早く会いたいと思った」と言う。

 そこで仕事の段取りを付け、新幹線に飛び乗ったというわけである。妻の泣き顔よりも、娘の顔が見たい。そして少し、妻を驚かせてやりたかったようだ。自分の子どもなのに、盛んに「可愛い」と連発していた。次女夫婦が還暦を迎える時に、この子は20歳である。赤子の健康を祈ると共に、自分たちこそが健康で長生きしなくてはならない。子を持つ親は誰でもそうでなければならないが、特に両親が歳を重ねてから生まれてきた子の親は尚更である。

 「私たちは先に帰るけれど、今晩は一緒に食事できる?」と聞くと、「お願いします」と言う。娘抜きで、娘のダンナと3人での食事は始めてだ。父親によく似た娘の誕生を祝って、カンパイした。彼は本当にうれしくて仕方ない様子で、3人で飲むお酒は格別においしかった。私はおしゃべりにならないようにと思っていたのに、いつの間にか饒舌になっていた。娘が居たならまた叱られてしまっただろう。娘のダンナには違いないけれど、新しい息子のような気持ちだった。

 次女のダンナが再び仙台に帰ったのと入れ違いに、彼の両親が姫路から初孫を見て病院に来るというので、私たちも病院へ地下鉄で行った。帰りに一緒に祝杯を挙げたかったからだ。彼の両親も母子共に元気な姿を確認できて、心の底から嬉しそうだった。親はどこでも誰でも、子や孫の健康が一番気になる。これからも健やかに育ってくれと祈るばかりだ。たくさん写真を撮り、赤子を抱っこし、とはいえ、私もダンナの父親も恐くて抱っこは遠慮した。「また来るね」と赤子に別れを告げ、新幹線の乗り場近くの居酒屋風のレストランで祝杯を挙げた。

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赤ちゃん誕生

2014年05月07日 22時56分43秒 | Weblog

 次女に娘が生まれた。40歳にして始めての出産で、とても心配だった。昨夜、「お腹が痛いと言い出したのはまだ夕暮れ時だった。出産の経験があり、その道のプロでもある長女に次女がメールをすると、「『スズメの学校』でも歌っていなさい」と返信があった。前日にみんなでカラオケした時、大笑いした歌だ。余裕を持ちなさいという長女からのメッセージである。看護師の長女は新生児治療室で長年働いているから、陣痛が来た時の初心者の慌てようを心得ている。

 痛くて泣き出している次女は必死の顔相で、姉の忠告を聞き入れている。我慢に我慢を重ね、陣痛の幅が指定された範囲になってきて、やっとの思いで2度目の電話を入れる。「荷物を持っておいでください」と指示があった。けれども痛みが強くて、陣痛が治まる合間を縫って行動しなくてはならない。いよいよ私の出番で、車に次女を乗せて病院へと向かう。途中で事故でも起こしては大変だから慎重に、しかしできるだけ早く到着しなければならない。

 午後9時前に出て、9時半には到着できたからかなりスムーズな移動だ。長女は既にいてくれたが、診察を受けた時はまだ生まれそうにないような状態だった。また乗せて帰ることになるのかと思っていると、午後10時半に「これから分娩室に入ります」とメールが来る。とうとう生まれるのか、そう思った。私はなすこともなく、暗い廊下でひとり立っていると、若い看護師さんが「面会室の電気を点けますので、そこでお待ちになったら」と声をかけてくれた。

 誰もいない。ソファーがあり、やっと身体を伸ばすことができた。午後11時13分、「頭が出て来ました」とメールが来る。まだまだ時間がかかるようだ。出産という行為は本当に気が遠くなる。よくもまあ女性たちは乗り越えられるものだ。男たちが女たちにかなわないのは当然だ。面会室から夜景を眺めているうちにウトウトしていた。午前0時9分、「生まれました」とメールが来た。よかった。本当によかったと思った。

 しばらくして私も分娩室に呼ばれた。次女の元気な姿を見て、生まれてきた赤ちゃんの様子が確認できて、「よく頑張ったね」と次女に声をかけた途端に涙が出て、声が続かなかった。命が生まれるということは素晴しいことだ。しかし同時に、生まれる時も死ぬ時も、全くどうすることも出来ないくらいひとりなのだと思った。

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作家・渡辺淳一さんの逝去

2014年05月06日 18時23分29秒 | Weblog

 作家の渡辺淳一さんが亡くなった。『失楽園』『愛の流刑地』で有名になった作家だが、私はまだ、どの作品も読んでいない。「不能になった男が知る真実の愛」を描いたという『愛ふたたび』を読んでみようと思ったが、これも読まずにいる。『失楽園』は余りにも周りで話題になっていたので、映画を観に行ったけれど、どんなストリーだったのか全く覚えていない。女優の黒木瞳さんがとてもきれいだったことしか思い出せない。

 「僕は実感的なものしか書きたくない」と渡辺さんは言う。頭で構築していくミステリーやSF小説を嫌った。「狂おしい恋愛をしたり、死ぬほど女を追いかけたり」することに、人間の生きている意味を見出そうとした。「いろんな人がいる。良い面と悪い面を同時に持つ人もいる」。そんな人間の存在、何も不満がないのに愛に流されてしまうことの根源を描いてきた作家なのだろう。『チャタレー夫人』を書いたD・H・ローレンスに通じるのかも知れない。

 高校生の時、文芸部の友だちは吉行淳之介を高く評価していた。吉行の作品を読めと勧めてくれたが、私には馴染めなかった。私はヘルマン・ヘッセやスタンダール、ドストエフシキーやスタインベックに関心があった。日本の作家では、石川達三や大江健三郎に惹かれていた。社会とか時代とかを感じられない作品は読む気になれなかった。いや、それよりも好きな女の子がいるのに、性的な関心は別の年上の女性に向かってしまう、自分の矛盾した気持ちが恐かった。

 人間の本性を赤裸々に追及していく作家こそが作家と思うようになった。車谷長吉さんや井上荒野さん、友だちが勧めてくれた坂東真砂子さんの作品は面白い。それだけ私も歳を取り、人間がどんな社会でどんな風に生きているのか、少しは分かるようになったのかも知れない。渡辺淳一さんが「人間の生命力の根源はエロスであり欲望、そこにはいやらしさはなく、いとおしさを感じる」と言っていたが、なるほどと実感できる。

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子どもたちの成長を祈って

2014年05月04日 17時48分18秒 | Weblog

 街路樹のハナミズキやツツジが今年は特に目に付いた。フジもボタンも話題になった。今年の春は、花が咲き揃った。私は相変わらずルーフバルコニーに出て、せっせとチューリップを抜き取り、サルビアを植えるための土作りをする。チューリップを抜いていて、オヤッと思うことがある。球根の下に新しい球根ができている。特に2年目の球根に多いようだ。

 花はいつも一斉に咲くように思うけれど、同じような条件なのに、時々早咲きのものや遅咲きのものがある。今朝の新聞によれば、この「はみだしもの」が役に立つという。一斉に咲くと日照りや冷害で全て枯れてしまうが、早いものや遅いものがあることで少数だが生き残る。私は生物を研究するだけの知恵も余裕もないが、チューリップの球根の下にできる球根は大きな球根になる種類かも知れない。そんな妄想の中で黙々と作業を続けた。けれども、またしても午後からは風が強く、作業を中止した。

 明日はこどもの日。友だちが「孫の初節句のために書いたの。あなたに読んで欲しくって」と、手紙を持って来た。彼女はいつも可愛らしいことをする。「10年後くらいかなぁ、○くんが小学校の高学年になって、お姉ちゃんが中学生になった頃、この手紙を読んでくれるのを思い浮かべて書いてみます」。初節句を迎える孫の名前が、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』からいただいたことを明かし、「ゴーシュのように、周りのみんなから愛される子になってもらいたい」と願う。彼女の夫はチェロの演奏家で、2012年4月に昇天した。「おじいちゃんは、とっても素敵なチェロ弾きでした」とも綴っている。

 親もジジババも、子どもたちが健やかに育ってくれることを願う。子どもたちが不自由なく暮らしていけるように、わが身を捧げてもよいくらいの気持ちで見守っている。そして少しだけ、贅沢なことも願ってしまう。花はどれも一緒で、ほとんど差はない。人間も同じだろう。それなのに、少しでいいから何か才能があったらと願う。そして年月が流れ、我が子も我が孫も、自分と同様に普通の人だったと悟るのだ。

 明日はこどもの日で、みんなが集まって来てくれるので、ブログは休みます。

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ロック歌手、忌野清志郎

2014年05月03日 17時52分00秒 | Weblog

 朝早く起きて、ルーフバルコニーに天幕を張った。チューリップの球根を取り出し、サルビアを植える準備にかかる。午前中は風もなく順調だった。ところが午後になると突風が吹き荒れ、慌てて天幕を片付けた。こんなに風が強くては天幕が引き裂かれてしまう。様子を見てまた広げればいいと思っていたが、一向に納まらなかった。それどころか、岐阜県西部で地震が起きている。なんとまあ落ち着かないことか。

 昨夜、NHKテレビでお笑いタレントの太田光が、ロック歌手の忌野清志郎について語っていた。断片的にしか見ていなかったので分からないが、5月2日が清志郎の命日なので振り返ってみようという企画だったのかも知れない。あんなにおしゃべりな太田は高校時代、クラスの誰とも話せなかったと言う。清志郎も高校では学校になじめず、そうかと言って反抗する子ではなく、物静かで感受性の強い子だったようだ。

 清志郎は授業を抜け出して屋上でタバコを吸っていた。真面目で生徒会活動にも積極的に取り組み、大学生を見習ってデモを叫ぶような連中を冷ややかに見ているタイプだ。清志郎は1951年生まれの東京育ちだから、周りには学園紛争へと火の手が上がる雰囲気があっただろう。彼はフォークソングに嵌まっていく。70年にはフォークグループRCサクセッションを結成するが、70年代中頃からロックバンド化していった。

 私は残念ながら清志郎の歌をきちんと聴いたことがない。化粧して喧しくギャーギャー唸り上げているイメージしかない。太田光が「選挙に行かないことが正しい」というようなことを言っていた。それが若者たちの本音ならいっそのこと全員で止めたらいい。これは清志郎の歌なのかハッキリしないが、「デモするだけで 新しい社会が生まれるとは思わない」というセリフも妙に残った。

 1988年のアルバム『COVERS』は発売禁止になった。反核と原発撤廃を歌っていたので、原発を進める東芝からの圧力だった。社会への皮肉や批判を歌にするのは人の常だ。平安時代から鎌倉時代には『今様』が流行った。江戸時代には歌ではないが、川柳が庶民の間で盛んだった。清志郎は高校の担任に、「本当にやりたいことがあるなら結婚はするな」と言われ、それを守ってきた。30代後半になって、たまたまライブに来た担任にそのことを話すと、「君はもういいんだ」と言われ、不遇な時代から付き合いのあった女性と結婚したという。

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卒業生からの年賀状

2014年05月02日 19時00分16秒 | Weblog

 「今年もクラス会を開きます。4月頃に案内を致します」と年賀状にあった。私が22歳で赴任した高校の3年生である。新卒の青二才は担任にさせない伝統校で、私は3年生の授業は1コマもなかった。それでも3年の副担任であったから、担任が休んだ時は代わりを務めることはあった。確か、何らかの理由で20歳の生徒がいたから、歳の差がわずかでかなり緊張した。

 彼らは2年間、デザインの勉強を重ねてきたわけで、私は大学で4年学んだことになっているが、実質は彼らよりも実習時間は少ない。ただ、彼らの作品を見ると指導する余地はあったから安心した。私の大学はデザインの技術は教えることはなく、要するに有名な作家や憧れる作家の作品から「盗め」ということだったように思う。私はシュールに関心があり、写実やレタリングは得意だった。

 高校の体育祭は各科が、応援合戦とともに巨大な張りぼてを競い合う。生徒たちに混じって私もマスコット作りを手伝った。体育祭の当日はリレーに出場したり、生徒たちの席で応援合戦を観戦したりした。生徒たちからすれば、先生というよりも先輩といった感じだっただろうか。卒業制作の時も、何人かの作品を手伝ったように思う。「先生の作品を覚えていますよ」と言ってくれた生徒がいた。駅前で行なった個展のことかと思ったが、どうやら文化祭に出品した油絵のことのようだった。

 伝統校であったから、生徒は優秀な子が多かった。それでも週1日開かれる職員会議で、生徒指導部から生徒の処分が提案された。「3日間の謹慎」とか、時には「停学」と言うケースもあった。私たち新任教師は7人もいて仲良しで、生徒の処分については疑問を持った。上司からの圧力がなかった普通科の仲間と私は「謹慎にどういう教育的な価値があるのですか」とか、「退学は教育の放棄ではありませんか」と、指導部の処分に反対した。

 最初の職員懇親会の席で、生徒指導部長が私の前に来て、酒を注ぎ説教していった。それでも私は「処分が重すぎる。指導するのが教師の務めではないか」と繰り返したから、生徒指導部には一度も担当させてもらえなかった。

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相性は様々

2014年05月01日 18時20分52秒 | Weblog

 今年のクレマチスは花が多い。昨年は、カミさんが園芸書を見ながら手を入れていたが、花の数は少なかった。今年は寒さが続いたためか、カミさんはルーフバルコニーに出ることがなかった。手入れすることなく成長し、2日前から花が咲き出した。今朝、観ると花がたくさん開いていた。手を加えすぎれば花は少なく、野放しに育てれば花の数が多い。花は声をかけるように手をかけないと、見事な花を咲かせてくれない。しかし、余りかまいすぎてもうまくいかない。人間を育てるのと同じだ。その手加減が本当に難しい。

 「ウチでは育てられないから」と鉢をもらうことがある。「これはあなたからいただいたものですよ」と観てもらうと、「どうしてこんなに大きくなったの?」と不思議そうに言う。「何もしないから。きっとかまい過ぎたのでしょう」と説明する。我が家ではうまく育てられなかったクンシランを義弟は見事に育てている。シンピジウムもシクラメンもシャコバサボテンもポインセチアも、みんな毎年見事に花を咲かせている。どうしてなのかと不思議だが、ひとつは義弟が根気よく熱中するタイプだからだろう。

 人同士でも相性のようなものがある。7月に5歳になる孫娘とマーケットに行った時も、先日のように遊園地へ行った時も、同じくらいの歳の子を見つけるとすぐに友だちになって走り回っている。4歳になるまでは決して自分から声をかけることはなく、親や私たちジジババが「遊んでやってくれる」と頼むことが多かったのに、今では見ず知らずの子でも平気で一緒に遊んでいる。この子の母親も小さい時、恐いもの知らずだった。何にでも挑戦するし、同歳くらいの子がいればいつの間にか仲間に入れて遊んでいた。

 同じ姉妹でも次女の方は恐がりで、決して自分から何かをすることはなかった。姉について回り、姉のやることなら少しやってみて、すぐに姉の後に隠れてしまう。姉は花を育てることには熱中しなかったが、妹は部屋に観葉植物を置いていた。それでもふたりとも友だちが多い。人の輪をつくり育てることはできている。長女は常に挑戦する人だが、次女は今も安定を望む人だ。人は皆、それぞれの生き方があり、相性も様々だ。当たり前のことだが、子どもたちが孫たちが、幸せであってくれればそれでいい。

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