朝から暖かかった。ルーフバルコニーに出て、草木の手入れをする。子どもの頃、家の設計士か造園家になりたかった。倉庫を改造した住まいが嫌だった。自分たちの家が持ちたいと思っていた。父親も退職したら、家を建てるつもりだったから、購買予定の土地を一緒に見に行ったこともある。
けれど、兄貴がやっていた材木屋のために退職金は消えてしまった。私たちが住んでいた所の裏に、放置されていた土地があり、父親がその土地を借りてくれた。柿木や茶の木が植わっていた。あとは畑だったがどういう訳か、耕作されていなかった。私はここを西洋式のバラ園にするつもりだった。
5月の祭りの時、露天でバラを2本買って、バラ園づくりが始まった。けれど、1年に1本か2本買うのがやっとだった。庭園が出来る前に挫折した。高校1年の時、母親が亡くなり、バラ園を楽しみにしてくれる人がいなくなった。父親は兄貴のために時間もお金も遣っていた。千葉大学に造園科があると知ったが、理系なので無理だった。
建築も造園も理系の仕事とは思っていなかった。好きなように絵を描いて、出来上がるものだと思っていたのだった。本を読むことと文章を書くことは好きだったし、人間と社会に対する関心は強かったので、新聞記者になろうと思うようになった。高校1年の時、普通科高校は大学の予備校になっているのはおかしいと書いて新聞社に送ったら、投稿欄に掲載された。
建築も造園も新聞も、そして教師も、夢を追うところは同じだ。先のことも考えず、私はいつも夢を追っていた。