我が家の上の子のように半年前まで海外の現地校に通学していて、この冬、帰国子女枠で高校受験する場合には、現地校の成績表を提出するよう要請されることがあります。日本の中学校の成績は、帰国して僅かな時間でキャッチアップするのが難しく、中でも国語や社会、そして理科さえも悲惨な状況なので、それをそのまま客観的な評価と見なしてくれないのは誠に有難い措置ではあります。しかもただ単に、現地校が印を押して厳封した成績表だけではなく、手持ちの成績表コピーに、能力別クラス編成の有無や、成績評定基準、教科の内容等について、日本語で補足説明を付して併せて提出するよう要請されることがあります。それは一つには、能力別クラス編成が公立の学校でも当たり前に行なわれている海外では、クラス内の成績(相対評価)が全体でのポジションを表さないこともあり得ること、そしてもう一つには、海外の学校の授業は、日本のような学習指導要領に沿った教科書通りの授業が行なわれるのではなく、カリキュラムについての緩やかなガイドラインがある程度で、むしろ教師の個性に依存したユニークな授業が行なわれることが多く、タイトルからだけでは想像し難いこと、にも依るように思います。
シドニーの公立の中学校では、中学三年から選択授業が始まり、20以上ある中から自分で気に入ったものを3つ選ぶのですが、これがまたなかなかユニークです。日本では、私が中学生の頃に受けた美術の授業のように、せいぜい風景画を描くとかエッチングとか多色刷り木版画とか凧を作って飛ばすといった、ひねりのないオーソドックスなものが一般的でしょうが、Art and Mediaという授業では、作者と素材と技量とコンテクストとの間の関係性を学ぶ、と日本語に訳すとワケが判りませんが、例えば、自分の顔とある動物の顔を描いて、自分の顔がその動物の顔に変遷する途中の二段階を、コンピュータ・グラフィクスならありがちですが、想像して描いてみるとか、あるいは、ある動物とあるモノを選んで、その両者が合体したモノ(動物)を粘土細工で表現してみるとか、更にはテレビについて自分が持っているイメージを一枚のポスターに表現するとかなど、キレイに描けたとかよく出来たという一面的な評価基準では測れない、想像性と創造性を巧みに刺激する内容で、話を聞くだけでもわくわくして来て、特にウチの子の子供心をくすぐる内容だったようで、大喜びで取り組んでいました。Industrial Technology(工業技術)のEngineering分野の授業では、構造物の材料や道具や技術の知識とスキルを学ぶというテーマで、様々な橋が取り上げられ、そこに施されているデザインや技術的な工夫を学ぶとともに、木材で模型を作って、どれくらいの強さに耐えられるのか、強度の実験をしたそうです。Beyond Visibleという科学と数学の発展授業では、その名を訳すと、目に見えるものを超えるもの、ということになりますが、中学三年生の分際で、SKA(Square Kilometer Array)という、私はよく知りませんがWikipediaによると今なお開発中の最先端の電波望遠鏡(開発の暁には高精細で従来型の1万倍のスピードで天体観測できるシロモノで、電波妨害を受けにくく、かつ銀河系がキレイに見える南アフリカとかオーストラリアに登場する見込み)を調べて報告するテーマを与えられたのはほんの序の口で、答がすぐには浮かばないような小難しい数式や証明問題を与えられて、嬉々として取り組んでいました。
勿論、オーストラリア(NSW州)でも、大学に入る前にセンター試験に相当するような高等学校修了証/大学入試資格認定基準(Higher School Certificate、通称HSC)試験を受け、その成績次第で良い大学に進学できますし、その平均点によって高校のランキングが発表されるほどですが、日本と比べると、明らかに授業の自由度が高く、日本以上にアカデミックな世界を覗かせたり実学的な興味を満足させたりするものが多いということは言えると思います。日本の場合(最近のことはいざ知らず、私が通った頃の想像でしかモノを言っていませんが)、教科書に沿った画一的な内容を詰め込まれるのは、必ずしも悪い話ではなく、基礎学力レベルが平均して高い人材を多く輩出する一方で、ある分野だけ突出したような尖った人材は生まれにくく、なかなか自分が進みたい道を決められない結果、とりあえず偏差値で大学を選ぶという事態になりかねません。ところがオーストラリアの場合、基礎学力レベルは日本より低そうですし、バラつきもありそうですが、少なくとも日本よりは自分の志向を見つけやすい仕組み(その気がある子供にとっては)と言えるのではないかと思います。
日本では、社会に出れば厳しい競争に晒されるのが現実なのに、学校の中で競争を避けるのはオカシイ。社会に出れば職業はイロイロあるのが現実なのに、教科書(及びその延長)の勉強が出来ることだけで測られるのもまたオカシイ。そして学校と塾の区別がつかないところは、どう考えてもオカシイ。教科書の勉強なんて、塾や自宅で取り組めば済むレベルのものであって、学校では学校ならではの授業というものがあって然るべきです。こうして見ると日本の教師は、創意工夫を発揮するチャンスを与えられない気の毒な立場に置かれていて、教師にとっても、子供にとっても、不幸であり、日本国にとっても損失になっていると言えるのではないでしょうか。
今日はセンター試験初日でした。私は、やたら小難しい英語や数学の問題などパズル気分で解くのは好きでしたが暗記モノには馴染めない気紛れな受験生でしたが、日本の教育制度、端的に受験戦争に不満を持ちながら、それを批判出来るのは、先ずは受験に打ち克ってからだと自分に言い聞かせ、面白くもない暗記科目にもなんとか真面目に取り組もうとしたことを、懐かしく思い出します。デキル子が失敗することはあっても、デキナイ子が実力以上に出来ることはまずあり得ないのが入学試験というものです。そう思って、受験生の方には、今日の結果にかかわらず、自分がやって来たことを信じて、また明日も頑張って欲しいと思います(受験生がこのブログを読んでいるとは思えませんが)。
シドニーの公立の中学校では、中学三年から選択授業が始まり、20以上ある中から自分で気に入ったものを3つ選ぶのですが、これがまたなかなかユニークです。日本では、私が中学生の頃に受けた美術の授業のように、せいぜい風景画を描くとかエッチングとか多色刷り木版画とか凧を作って飛ばすといった、ひねりのないオーソドックスなものが一般的でしょうが、Art and Mediaという授業では、作者と素材と技量とコンテクストとの間の関係性を学ぶ、と日本語に訳すとワケが判りませんが、例えば、自分の顔とある動物の顔を描いて、自分の顔がその動物の顔に変遷する途中の二段階を、コンピュータ・グラフィクスならありがちですが、想像して描いてみるとか、あるいは、ある動物とあるモノを選んで、その両者が合体したモノ(動物)を粘土細工で表現してみるとか、更にはテレビについて自分が持っているイメージを一枚のポスターに表現するとかなど、キレイに描けたとかよく出来たという一面的な評価基準では測れない、想像性と創造性を巧みに刺激する内容で、話を聞くだけでもわくわくして来て、特にウチの子の子供心をくすぐる内容だったようで、大喜びで取り組んでいました。Industrial Technology(工業技術)のEngineering分野の授業では、構造物の材料や道具や技術の知識とスキルを学ぶというテーマで、様々な橋が取り上げられ、そこに施されているデザインや技術的な工夫を学ぶとともに、木材で模型を作って、どれくらいの強さに耐えられるのか、強度の実験をしたそうです。Beyond Visibleという科学と数学の発展授業では、その名を訳すと、目に見えるものを超えるもの、ということになりますが、中学三年生の分際で、SKA(Square Kilometer Array)という、私はよく知りませんがWikipediaによると今なお開発中の最先端の電波望遠鏡(開発の暁には高精細で従来型の1万倍のスピードで天体観測できるシロモノで、電波妨害を受けにくく、かつ銀河系がキレイに見える南アフリカとかオーストラリアに登場する見込み)を調べて報告するテーマを与えられたのはほんの序の口で、答がすぐには浮かばないような小難しい数式や証明問題を与えられて、嬉々として取り組んでいました。
勿論、オーストラリア(NSW州)でも、大学に入る前にセンター試験に相当するような高等学校修了証/大学入試資格認定基準(Higher School Certificate、通称HSC)試験を受け、その成績次第で良い大学に進学できますし、その平均点によって高校のランキングが発表されるほどですが、日本と比べると、明らかに授業の自由度が高く、日本以上にアカデミックな世界を覗かせたり実学的な興味を満足させたりするものが多いということは言えると思います。日本の場合(最近のことはいざ知らず、私が通った頃の想像でしかモノを言っていませんが)、教科書に沿った画一的な内容を詰め込まれるのは、必ずしも悪い話ではなく、基礎学力レベルが平均して高い人材を多く輩出する一方で、ある分野だけ突出したような尖った人材は生まれにくく、なかなか自分が進みたい道を決められない結果、とりあえず偏差値で大学を選ぶという事態になりかねません。ところがオーストラリアの場合、基礎学力レベルは日本より低そうですし、バラつきもありそうですが、少なくとも日本よりは自分の志向を見つけやすい仕組み(その気がある子供にとっては)と言えるのではないかと思います。
日本では、社会に出れば厳しい競争に晒されるのが現実なのに、学校の中で競争を避けるのはオカシイ。社会に出れば職業はイロイロあるのが現実なのに、教科書(及びその延長)の勉強が出来ることだけで測られるのもまたオカシイ。そして学校と塾の区別がつかないところは、どう考えてもオカシイ。教科書の勉強なんて、塾や自宅で取り組めば済むレベルのものであって、学校では学校ならではの授業というものがあって然るべきです。こうして見ると日本の教師は、創意工夫を発揮するチャンスを与えられない気の毒な立場に置かれていて、教師にとっても、子供にとっても、不幸であり、日本国にとっても損失になっていると言えるのではないでしょうか。
今日はセンター試験初日でした。私は、やたら小難しい英語や数学の問題などパズル気分で解くのは好きでしたが暗記モノには馴染めない気紛れな受験生でしたが、日本の教育制度、端的に受験戦争に不満を持ちながら、それを批判出来るのは、先ずは受験に打ち克ってからだと自分に言い聞かせ、面白くもない暗記科目にもなんとか真面目に取り組もうとしたことを、懐かしく思い出します。デキル子が失敗することはあっても、デキナイ子が実力以上に出来ることはまずあり得ないのが入学試験というものです。そう思って、受験生の方には、今日の結果にかかわらず、自分がやって来たことを信じて、また明日も頑張って欲しいと思います(受験生がこのブログを読んでいるとは思えませんが)。