風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

橋下発言その後(上)

2013-06-04 00:29:46 | 時事放談
 数日前、ある雑誌に、元経済企画庁長官で福山大学客員教授の田中秀征さんが「私の母の歴史認識」と題するエッセイを寄せておられました。短い文章なので全文を紹介します。

(引用はじめ)
私の母の歴史認識
 橋下徹大阪市長の発言騒動もあって、このところ歴史認識論争が沸騰している。 
 “歴史認識”と言うと、いつも私は40年前に亡くなった母のことを思い出す。私の母は、私が衆議院選挙に初出馬して落選した1年半後に他界した。母は私に政治向きの感想や意見を述べたことは一度もなかったが、歴史認識についてはその行動によって、今に至るまで大きな影響を与え続けている。言わば私の歴史認識の原点である。もちろん無学な母は“歴史認識”などという言葉とは無縁であったし、私に何かを教えるつもりもなかった。私が勝手に母から学んだのである。 
<A級戦犯の写真を新聞から切り抜いた母の思い>
 昭和23年12月、東條英機元首相をはじめA級戦犯7人の絞首刑が執行された。この出来事は当時小学2年生の私にも大きな衝撃を与えた。翌朝の新聞一面には巣鴨プリズンから出てくる大型トラックの大きな写真が掲載された。その荷台には白布に包まれた7つの棺が乗せれ、占領軍兵士が敬礼している。 
 その夜、母は部屋の隅にうずくまり、ハサミでその写真を切り抜いていた。泣いているようにも見えたので、私は近寄ることもはばかった。母はその写真を仏壇のそばの壁に貼り、長い時間合掌して頭を下げ続けた。私はうしろから咄嗟に「悪いことをしたからこうなったのに、どうしてお参りするの」と文句を言った。それに答えて母は私にこんな趣旨のことを言ったのである。「悪いことをしたかどうかはよくわからない。だけど悪いことをしたと認めて反省したから国は再出発できた。だから、この人たちには表立ってお参りできない。この人たちも国のために働いてくれたし、自分たちも信じて協力した。表立ってお参りできないなら、こうして陰でもみんながお参りしてやらなければいけない」正確な言葉使いはもちろん覚えてはいない。しかし母の答えは大筋でこんな風であった。とりわけ私の頭に残ったのは「表立ってお参りすることはできない」という言葉であった。 
 その後、母は毎日この写真へのお参りを欠かさなかった。その切り抜きが茶色に変色してよく見えなくなっても、亡くなるまでお参りをし続けた。また、母は仏壇の仏像の隣に靖国神社の絵はがきを立てかけ、それにも毎日お参りした。私が「神さまと仏さまを一緒に拝むなんておかしい」と言っても、「忙しいからこれでいい」と言って相手にしなかった。 
<激動の時代を生き抜き、体で身につけた歴史認識>
 当時の母はまだ30代であったはず。典型的な田舎の庶民であったが、激動の時代を生き抜いてきたから、1本の太い筋金が入ったのだろう。頭ではなく体で身につけた歴史認識であると思えば、それは強い説得力で迫ってくるのも当然だ。母は母なりに苦悩して、A級戦犯と靖国神社への対応の違いを考えたに違いない。私は母の対応が1つの見識だと理解すれまでかなりの年月を要した。今では母の対応は正しかったと誇らしく思っている。 
(引用おわり)

 多言を要しないでしょう。戦争を生きた方の良識が示されていると思いました。
 マスメディアを中心として、戦前・戦後で価値観が180度変わったと、さも客観的に戦前の変節ぶりを非難する論説が多いですし、自ら変わったことを隠して戦前を非難する論説すらあるわけですが、どうもインチキ臭い。よく共産主義体制下で名誉回復なることが言われますが、私たちは、他国が何と言おうが、私たち自身として戦争をどう総括するのか、戦前をどう評価するのか、戦争を知らない世代だからこそ、冷静に出来ることがあるように思います。
コメント
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