再び韓国ネタですが、事故後の報道を見ていて、一口に韓国と言いますが、その実体は何なのか、所詮はメディアを通して語られる韓国なのではないかと、ふと考えさせられます(韓国のメディアしかり、日本のメディアもしかり、ですが)。
三日前、ソウルの地下鉄で追突事故があり、約240人が負傷したことが報じられました。旅客船事故が収束しない中で、公共交通機関の事故が相次いで、市民から怒りと嘆きの声が噴出しているそうですが、気持ちはわかります。同じ日、鬱陵島からあの竹島に向かっていた旅客船のエンジンが故障し、竹島行きを断念して鬱陵島に引き返したのは、点検が手抜きだったのではないかとの指摘が出ているようです。通報を受けた海洋警察が警備艦2隻を現場に派遣し、万一の事態に備え護送したのは、ちょっと大袈裟に見えますが、韓国のこのご時勢ならやむを得ないのでしょう。
それはともかくとして、あの韓国の旅客船事故では、携帯電話で撮影されたビデオ映像が新たに公開されるなどして船舶会社の安全管理の杜撰さや、船長ら乗務員の無責任な行動や、海洋警察の初動対応の遅れや不手際が、あらためて明らかになり、非難の声はとどまるところを知りません。首相が初動の遅れの責任を取って辞意表明したのは27日でしたが、メディアの批判は、責任を認めず謝罪もしない朴槿恵大統領に向かい、政権支持率は50%を割り込んでしまいました(それでも50%近い支持率がある方が私には驚きですが)。そのような雰囲気の中で、メディアからは自己批判の声も上がっています。「日常的に信号無視が横行」し、「バスが定員超過で猛スピードで疾走」し、「タクシーの運転が乱暴」な韓国社会の安全意識が希薄であることを警告する報道や(因みに日本の外務省ウェブサイトでも「運転者、歩行者とも交通ルールを守らない場合が多く、運転も乱暴」として注意を呼び掛けているそうです)、日本が国民の安全に高い意識を持ち、コストと時間をかけている点が注目され、日・韓の救難体制の差が盛んに論じられ、日本を見習え、との指摘まで飛び出す始末です。
反日の国にあって、ここまで豹変するのか!?と思うかも知れませんし、「憎まれ役の日本からも学ぼうとする謙虚な姿勢は評価されこそすれ、非難されるべきではない」(産経)などと報じるメディアもありましたが、いつかどこかで見たような・・・そう、室谷克実さんの「悪韓論」(新潮新書)で紹介されていた韓国メディアそのものです。韓国メディアは「主観的、感情的で批判精神が旺盛」(産経・黒田氏)、つまり自己批判もまた激しい。それは、読後の印象ですが、一般国民(今回の場合で言えば被害者)の声を代弁し政府を批判することにメディアとしての大義を感じ、その実、自己陶酔し、批判を政府に向ける時の常套手段で、日本を比較の対象にしながら、あの日本ですら、というように、日本に対する優越感の裏返しで政府を貶めるところがあり、もっと言えば、先進国・日本になかなか追いつけない苛立ちも背景にあるのではないかと察せられます。そして、これらのことはムードに流されやすい。
儒教の国と言うより科挙の伝統のなせるわざなのか、韓国では、一般にエリート意識が強く、メディアにも、(無知蒙昧な)民を優しく教え諭し導く存在であることを自負するところが強いと伝え聞きます。メディアは、一般に社会の公器、ひいては第四の権力などとも言われたものです。日本ではさすがに「社会の公器」と自称する程度ですが(それすらもおこがましいことを感じますが、ここでは触れません)、韓国にあっては、自他ともに認める立派な権力機構と言うべきではないか。そんなメディア報道を、まるで韓国民の意識を映す鏡であるかのように私たちは日々受け止めているわけですが、どうも怪しい。ソウル駐在歴30年になる前述の産経特別記者・黒田勝弘氏によると、今ほど韓国民の反日レベルが下がっていることはないと、ほんの数週間前、テレビの座談会で述べておられました。これを聞いて、驚かない日本人の方が少ないだろうと思います。韓国民がこんな状況だから、メディアは却って反日を煽っているのではないか、とも述べておられたのが印象的でした。
韓国の司法や政治の動きを見ていると、同じ民主主義と言っても日本とは違う印象を持つのは、いろいろな事実が伝えられるからこそですが、一般国民のことになると、なかなか理解しにくい。だからこそ世論調査があるのですが、それすらも質問の設定の仕方などによって意図的に偏向され得る。メディアが「主観的、感情的で批判精神が旺盛」であるのは日本も似たようなもので、それでも自国のことであれば、感覚的にズレていることは分かりますが、他国のことになると、そういった感覚が、自分の目で確かめない限り、働きません。報道される国の姿は、当たり前のことですが、あくまでメディアを通した姿であることを認識すべきなのでしょう。中国でも韓国でも、反日が官製であることでは同じですが、メディアも官製の中国とは違う意味で、韓国にあっても政治とメディアによって反日が形成されていることを思わざるを得ません。
三日前、ソウルの地下鉄で追突事故があり、約240人が負傷したことが報じられました。旅客船事故が収束しない中で、公共交通機関の事故が相次いで、市民から怒りと嘆きの声が噴出しているそうですが、気持ちはわかります。同じ日、鬱陵島からあの竹島に向かっていた旅客船のエンジンが故障し、竹島行きを断念して鬱陵島に引き返したのは、点検が手抜きだったのではないかとの指摘が出ているようです。通報を受けた海洋警察が警備艦2隻を現場に派遣し、万一の事態に備え護送したのは、ちょっと大袈裟に見えますが、韓国のこのご時勢ならやむを得ないのでしょう。
それはともかくとして、あの韓国の旅客船事故では、携帯電話で撮影されたビデオ映像が新たに公開されるなどして船舶会社の安全管理の杜撰さや、船長ら乗務員の無責任な行動や、海洋警察の初動対応の遅れや不手際が、あらためて明らかになり、非難の声はとどまるところを知りません。首相が初動の遅れの責任を取って辞意表明したのは27日でしたが、メディアの批判は、責任を認めず謝罪もしない朴槿恵大統領に向かい、政権支持率は50%を割り込んでしまいました(それでも50%近い支持率がある方が私には驚きですが)。そのような雰囲気の中で、メディアからは自己批判の声も上がっています。「日常的に信号無視が横行」し、「バスが定員超過で猛スピードで疾走」し、「タクシーの運転が乱暴」な韓国社会の安全意識が希薄であることを警告する報道や(因みに日本の外務省ウェブサイトでも「運転者、歩行者とも交通ルールを守らない場合が多く、運転も乱暴」として注意を呼び掛けているそうです)、日本が国民の安全に高い意識を持ち、コストと時間をかけている点が注目され、日・韓の救難体制の差が盛んに論じられ、日本を見習え、との指摘まで飛び出す始末です。
反日の国にあって、ここまで豹変するのか!?と思うかも知れませんし、「憎まれ役の日本からも学ぼうとする謙虚な姿勢は評価されこそすれ、非難されるべきではない」(産経)などと報じるメディアもありましたが、いつかどこかで見たような・・・そう、室谷克実さんの「悪韓論」(新潮新書)で紹介されていた韓国メディアそのものです。韓国メディアは「主観的、感情的で批判精神が旺盛」(産経・黒田氏)、つまり自己批判もまた激しい。それは、読後の印象ですが、一般国民(今回の場合で言えば被害者)の声を代弁し政府を批判することにメディアとしての大義を感じ、その実、自己陶酔し、批判を政府に向ける時の常套手段で、日本を比較の対象にしながら、あの日本ですら、というように、日本に対する優越感の裏返しで政府を貶めるところがあり、もっと言えば、先進国・日本になかなか追いつけない苛立ちも背景にあるのではないかと察せられます。そして、これらのことはムードに流されやすい。
儒教の国と言うより科挙の伝統のなせるわざなのか、韓国では、一般にエリート意識が強く、メディアにも、(無知蒙昧な)民を優しく教え諭し導く存在であることを自負するところが強いと伝え聞きます。メディアは、一般に社会の公器、ひいては第四の権力などとも言われたものです。日本ではさすがに「社会の公器」と自称する程度ですが(それすらもおこがましいことを感じますが、ここでは触れません)、韓国にあっては、自他ともに認める立派な権力機構と言うべきではないか。そんなメディア報道を、まるで韓国民の意識を映す鏡であるかのように私たちは日々受け止めているわけですが、どうも怪しい。ソウル駐在歴30年になる前述の産経特別記者・黒田勝弘氏によると、今ほど韓国民の反日レベルが下がっていることはないと、ほんの数週間前、テレビの座談会で述べておられました。これを聞いて、驚かない日本人の方が少ないだろうと思います。韓国民がこんな状況だから、メディアは却って反日を煽っているのではないか、とも述べておられたのが印象的でした。
韓国の司法や政治の動きを見ていると、同じ民主主義と言っても日本とは違う印象を持つのは、いろいろな事実が伝えられるからこそですが、一般国民のことになると、なかなか理解しにくい。だからこそ世論調査があるのですが、それすらも質問の設定の仕方などによって意図的に偏向され得る。メディアが「主観的、感情的で批判精神が旺盛」であるのは日本も似たようなもので、それでも自国のことであれば、感覚的にズレていることは分かりますが、他国のことになると、そういった感覚が、自分の目で確かめない限り、働きません。報道される国の姿は、当たり前のことですが、あくまでメディアを通した姿であることを認識すべきなのでしょう。中国でも韓国でも、反日が官製であることでは同じですが、メディアも官製の中国とは違う意味で、韓国にあっても政治とメディアによって反日が形成されていることを思わざるを得ません。