ゴールデン・ウィークは飛び石でしたが、私の会社は通しで休みでしたので、世間が働いている日を利用して、また学校も暦通りに動いているので家族からも後ろ指さされることなく(!)、ゴルフや美術館巡りなど、ちまちま遊んでおりました。今日はその内の美術館巡りの話です。
標題にある「広重ブルー」は、原宿にある太田美術館の企画展です。「広重が活躍した当時、既存の藍色とは異なる、オランダ舶載のベロ藍(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が中国で安価に生産されるようになり」、「浮世絵にもベロ藍がさかんに使用され」、「その人気は浮世絵界を席巻し」、「溪斎英泉や葛飾北斎など多くの絵師が次々とこの新しい青色を用いた作品を世に送り出し」ました。「なかでも広重は空や水辺の情景を表現する際、時には大胆に、時には繊細に青色を用いることで作品に豊かな叙情性を盛り込み」ました。今回の展示は、「国内外で人々を魅了し続ける広重の青色」、「その美しさの秘密に迫る展覧会」だということです(以上は太田美術館のHPより)。
この展示を見るまでは、ブルーと言えば、フェルメールか北斎だとばかり思っていました。10年ほど前、新宿の百貨店で開催されていた北斎展で見た「富嶽三十六景」の青が余りに鮮烈だったからですが、言われてみれば「東海道五十三次」でも青は鮮烈であり、実際に印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家に影響を与えた「ジャパン・ブルー」は「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれるようです。しかし私の思いこみはそれほど間違っていたわけではなく、北斎の「富嶽三十六景」は1823年頃から作製が始まり、1831年から35年にかけて刊行された(Wikipedia)一方、広重が初めて江戸から京都まで東海道を旅したのは1832年で、その往復路に描いたスケッチをもとに翌33年~34年にかけて「東海道五十三次」が作製されたと言われますので、時期はほぼ重なります。そして、40歳近い年の差を越えて、広重は、教えを乞うため、尊敬していた北斎老人のもとをよく訪ねたと言われますので、恐らく北斎老人から「ブルー」の着想も学んでいたことでしょう。
この「ヒロシゲ・ブルー」についてググっている内に、「藍色工房」という、「自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売」し、「日本製の藍顔料を、ある一定量を超えて定期的に精製しているのは、おそらく日本で私たちだけ」と自負される方のブログに辿りつきました。以下は、暫くはその方のブログ(http://aiiro.ashita-sanuki.jp/e544463.html)からの引用です。
「ベルリン藍」がなまったとされる「ベロ藍」が日本にやってきた最初の記録は1807年(ドイツで発見されてから100年後)で、浮世絵の絵具として一躍有名にしたのは、北斎の「富嶽三十六景」なのだそうです(企画展でも、天保年間の1830年頃と説明されていました)。当時、青色顔料には、植物の藍・露草や、鉱物由来の群青が存在しましたが、植物顔料は退色が速いことが難点でしたし(現に今に残る浮世絵の色の退潮が激しいのはそのせいです)、鉱物顔料の群青(銅が地中で化学変化を起こして青く発色したもの)は僅か60gが米一俵と同じ値段!と高価なため、浮世絵に使用されることは滅多になかったようです。だからと言って、安いからベロ藍に飛びついたわけでもない、と「藍色工房」さんは主張されます。日本人が慣れ親しんできた藍染めの藍色は、藍染めの布でこそ「鮮やか」な色合いが表現されますが、紙にうつされる顔料の藍は「鮮やか」と言うよりは「重厚な」もしくは「しっとりと落ち着いた」青色になり、濃淡を表現しようと、濃い色の部分を塗り重ねると、どうしても重く黒っぽい色になってしまうのだそうです。それは恐らく顔料そのものに含まれる植物由来の灰汁などが特有の濁りとなり、布に染まっているものなら水に通して洗い流して色の鮮やかさを演出することが出来るのに対し、紙ではうなくいかないせいではないかと解説されます。つまり、慣れ親しんできた理想の藍色を紙の上で表現することが困難だったところに、合成故の色鮮やかな青い顔料が持ち込まれたというわけです。
それからもう一点、「藍色工房」さんのブログでは、ベロ藍が再認識されたのが、ドイツで発見されてから150年以上経ったパリ万博(1867年)の、よりによって日本の浮世絵だったのは何故か、という問いについても解説されています。ヨーロッパの絵画は「油」性で、顔料を油に溶き、布のキャンバスの上に盛って行くという描き方で、絵の具に固着剤として含まれる膠などが酸化して若干の色彩の変化を促してしまうことも珍しいことではない一方、日本の絵画は「水」性で、顔料を水にとき、肉筆や版画で紙に色素をしみこませる描き方で、当然、水以外の不純物を多く含まず、顔料そのものの色合いが紙に再現されるというわけです。
さらにもう一点、「藍色工房」さんのブログで、当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ、と形容されているのに、大いに合点しました。実際に、当時、来日したイギリス人(後の小泉八雲)が「青があふれている国」と書き記した手紙が今でも残っているそうです。そんな生活をしていたからこそ、絵師が求める青色は、慣れ親しんできた藍染めのさまざまな藍色のバリエーションだったことだろうとも言われますが、まさにその通りでしょう。浮世絵は、絵師と彫り師と刷り師との合作と言われますが、刷り師の技量が藍色のバリエーションを紙の上で見事に再現しているではありませんか。
かつて、銀塩カメラ全盛の頃、富士フイルムは青を美しく見せるのが特徴であるのに対し、コダック・フイルムは黄色が強いと言われたもので、カメラ小僧としてもその印象を強くしますが、それは日本が四方を(青い)海に囲まれ(その青を映す)川や湖など水資源豊富な島国で(ロンドンの鉛色の空と比べるまでもなく)青空が澄み渡り、日本人が(青い)富士山を自然遺産としてのみならず文化遺産としても主張できるほど崇拝や文芸の対象にしてきた面目、というのは考え過ぎでしょうか(とすると、アメリカは砂漠の大地である黄色への思い入れ?というのも考え過ぎですね)。現に富士フィルムの技術者へのインタビューによると、同社は「人が見たときに心地良い色」を目指し、「撮影した人のみならず、その場にいなかった人が、その写真を見て心地良く見えるような写真をイメージ」していると言います。また、「色再現には3つの項目」があり、「一つめは階調性、二つめは忠実な表現、三つめがその記憶色の再現」で、「これらに加えて安定したオートホワイトバランス」、どれも重要ですが、「特に記憶色と呼ばれる部分を大事にしているのは確か」だとし、「記憶色といってもいろいろな色があるのですが、富士フイルムではマリンブルーやスカイブルーといった青、それから緑、そして肌。この3点に重きを置いて」おり、「青や緑は一般的に彩度が高い色が好まれますから、やや鮮やか目に」していると言います(http://camera.itmedia.co.jp/dc/articles/1308/19/news040.html)。
今回の企画展では、ベロ藍導入の前・後の色の発展をも示す展示になっており、幕末・明治の頃には、舶来の赤色の顔料が登場し、それまでの浮世絵ではどちらかと言うとワンポイントだった赤系統の色合いが、明治以降は多用されて途端に色鮮やかになることも分かります。その鮮やかさは、現代の私たちのみならず、当時の人々にとっても、ある意味で文明開化の象徴のようにも映ったことでしょうが、見ている内に、ちょっと食傷気味にも感じ、青色中心の世界を懐かしく思うのは気のせいでしょうか。古伊万里の世界でも、浮世絵と時間差はありますが、呉須(コバルトが使われます)で下絵を描き釉をかけた染付の青から、やがて色絵が登場し、華やかになりますが、日本人に馴染みの青の、単調に見えて、実はグラデーションによって深みが増す、いわば幽玄の世界にこそ、つい惹きこまれます。
藍は、「シルクロードを通って、インドから中国、そして日本へ」と伝わったとされ、「正倉院の宝物の中には、藍染めされた布や糸がいくつも納められ」ており、「奈良時代には既に栽培されていた」ことが文書で確認されるそうです。平安時代に編纂された延喜式には、「藍色が、濃淡の違うたくさんの呼び名で紹介され」、「(濃く青く染めつけることが出来ない)生の葉を用いたとする表記と、『乾葉』すなわち乾燥した葉を用いたとする表記」があるそうです。しかも、「乾葉を用いて『深縹(こきはなだ)』を染めた、とあることから考えれば、すでに(濃く染めるために、現在行われているような)『建て染め』がされていたと考えるのが自然」なのだそうです(http://www.blue-edge.jp/01_history_2.html)。
先に紹介した「藍色工房」さんのブログで、「当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ」、というのは、あながち誇張ではないのかも知れません。鎌倉時代には藍の濃紺のかち色(勝ち色)として武家に愛好されていた藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代の初め頃のことだそうで、野良着やもんぺなどの仕事着で木綿の着物を着るようになったのがきっかけと言われます。「広重ブルー」は、墨ひとつで無限のバリエーションを水墨画に表現したほどの繊細な日本人が、また、藍でもグラデーションを楽しんだ、日本人のモノトーン(今回は青)に対する思い入れの、いわば集大成(あるいは日本人にとっては些細なごく当たり前の選択?)と言えるのではないでしょうか。日本人の色に対する美意識の原点を見つめ直すのもよいと思いました。
太田美術館「広重ブルー ~世界を魅了した青」、実は既に後期に入りましたが、今月一杯、5月28日までの開催です(なお、前期は4月1日~27日でしたが、見逃しました)。
標題にある「広重ブルー」は、原宿にある太田美術館の企画展です。「広重が活躍した当時、既存の藍色とは異なる、オランダ舶載のベロ藍(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が中国で安価に生産されるようになり」、「浮世絵にもベロ藍がさかんに使用され」、「その人気は浮世絵界を席巻し」、「溪斎英泉や葛飾北斎など多くの絵師が次々とこの新しい青色を用いた作品を世に送り出し」ました。「なかでも広重は空や水辺の情景を表現する際、時には大胆に、時には繊細に青色を用いることで作品に豊かな叙情性を盛り込み」ました。今回の展示は、「国内外で人々を魅了し続ける広重の青色」、「その美しさの秘密に迫る展覧会」だということです(以上は太田美術館のHPより)。
この展示を見るまでは、ブルーと言えば、フェルメールか北斎だとばかり思っていました。10年ほど前、新宿の百貨店で開催されていた北斎展で見た「富嶽三十六景」の青が余りに鮮烈だったからですが、言われてみれば「東海道五十三次」でも青は鮮烈であり、実際に印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家に影響を与えた「ジャパン・ブルー」は「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれるようです。しかし私の思いこみはそれほど間違っていたわけではなく、北斎の「富嶽三十六景」は1823年頃から作製が始まり、1831年から35年にかけて刊行された(Wikipedia)一方、広重が初めて江戸から京都まで東海道を旅したのは1832年で、その往復路に描いたスケッチをもとに翌33年~34年にかけて「東海道五十三次」が作製されたと言われますので、時期はほぼ重なります。そして、40歳近い年の差を越えて、広重は、教えを乞うため、尊敬していた北斎老人のもとをよく訪ねたと言われますので、恐らく北斎老人から「ブルー」の着想も学んでいたことでしょう。
この「ヒロシゲ・ブルー」についてググっている内に、「藍色工房」という、「自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売」し、「日本製の藍顔料を、ある一定量を超えて定期的に精製しているのは、おそらく日本で私たちだけ」と自負される方のブログに辿りつきました。以下は、暫くはその方のブログ(http://aiiro.ashita-sanuki.jp/e544463.html)からの引用です。
「ベルリン藍」がなまったとされる「ベロ藍」が日本にやってきた最初の記録は1807年(ドイツで発見されてから100年後)で、浮世絵の絵具として一躍有名にしたのは、北斎の「富嶽三十六景」なのだそうです(企画展でも、天保年間の1830年頃と説明されていました)。当時、青色顔料には、植物の藍・露草や、鉱物由来の群青が存在しましたが、植物顔料は退色が速いことが難点でしたし(現に今に残る浮世絵の色の退潮が激しいのはそのせいです)、鉱物顔料の群青(銅が地中で化学変化を起こして青く発色したもの)は僅か60gが米一俵と同じ値段!と高価なため、浮世絵に使用されることは滅多になかったようです。だからと言って、安いからベロ藍に飛びついたわけでもない、と「藍色工房」さんは主張されます。日本人が慣れ親しんできた藍染めの藍色は、藍染めの布でこそ「鮮やか」な色合いが表現されますが、紙にうつされる顔料の藍は「鮮やか」と言うよりは「重厚な」もしくは「しっとりと落ち着いた」青色になり、濃淡を表現しようと、濃い色の部分を塗り重ねると、どうしても重く黒っぽい色になってしまうのだそうです。それは恐らく顔料そのものに含まれる植物由来の灰汁などが特有の濁りとなり、布に染まっているものなら水に通して洗い流して色の鮮やかさを演出することが出来るのに対し、紙ではうなくいかないせいではないかと解説されます。つまり、慣れ親しんできた理想の藍色を紙の上で表現することが困難だったところに、合成故の色鮮やかな青い顔料が持ち込まれたというわけです。
それからもう一点、「藍色工房」さんのブログでは、ベロ藍が再認識されたのが、ドイツで発見されてから150年以上経ったパリ万博(1867年)の、よりによって日本の浮世絵だったのは何故か、という問いについても解説されています。ヨーロッパの絵画は「油」性で、顔料を油に溶き、布のキャンバスの上に盛って行くという描き方で、絵の具に固着剤として含まれる膠などが酸化して若干の色彩の変化を促してしまうことも珍しいことではない一方、日本の絵画は「水」性で、顔料を水にとき、肉筆や版画で紙に色素をしみこませる描き方で、当然、水以外の不純物を多く含まず、顔料そのものの色合いが紙に再現されるというわけです。
さらにもう一点、「藍色工房」さんのブログで、当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ、と形容されているのに、大いに合点しました。実際に、当時、来日したイギリス人(後の小泉八雲)が「青があふれている国」と書き記した手紙が今でも残っているそうです。そんな生活をしていたからこそ、絵師が求める青色は、慣れ親しんできた藍染めのさまざまな藍色のバリエーションだったことだろうとも言われますが、まさにその通りでしょう。浮世絵は、絵師と彫り師と刷り師との合作と言われますが、刷り師の技量が藍色のバリエーションを紙の上で見事に再現しているではありませんか。
かつて、銀塩カメラ全盛の頃、富士フイルムは青を美しく見せるのが特徴であるのに対し、コダック・フイルムは黄色が強いと言われたもので、カメラ小僧としてもその印象を強くしますが、それは日本が四方を(青い)海に囲まれ(その青を映す)川や湖など水資源豊富な島国で(ロンドンの鉛色の空と比べるまでもなく)青空が澄み渡り、日本人が(青い)富士山を自然遺産としてのみならず文化遺産としても主張できるほど崇拝や文芸の対象にしてきた面目、というのは考え過ぎでしょうか(とすると、アメリカは砂漠の大地である黄色への思い入れ?というのも考え過ぎですね)。現に富士フィルムの技術者へのインタビューによると、同社は「人が見たときに心地良い色」を目指し、「撮影した人のみならず、その場にいなかった人が、その写真を見て心地良く見えるような写真をイメージ」していると言います。また、「色再現には3つの項目」があり、「一つめは階調性、二つめは忠実な表現、三つめがその記憶色の再現」で、「これらに加えて安定したオートホワイトバランス」、どれも重要ですが、「特に記憶色と呼ばれる部分を大事にしているのは確か」だとし、「記憶色といってもいろいろな色があるのですが、富士フイルムではマリンブルーやスカイブルーといった青、それから緑、そして肌。この3点に重きを置いて」おり、「青や緑は一般的に彩度が高い色が好まれますから、やや鮮やか目に」していると言います(http://camera.itmedia.co.jp/dc/articles/1308/19/news040.html)。
今回の企画展では、ベロ藍導入の前・後の色の発展をも示す展示になっており、幕末・明治の頃には、舶来の赤色の顔料が登場し、それまでの浮世絵ではどちらかと言うとワンポイントだった赤系統の色合いが、明治以降は多用されて途端に色鮮やかになることも分かります。その鮮やかさは、現代の私たちのみならず、当時の人々にとっても、ある意味で文明開化の象徴のようにも映ったことでしょうが、見ている内に、ちょっと食傷気味にも感じ、青色中心の世界を懐かしく思うのは気のせいでしょうか。古伊万里の世界でも、浮世絵と時間差はありますが、呉須(コバルトが使われます)で下絵を描き釉をかけた染付の青から、やがて色絵が登場し、華やかになりますが、日本人に馴染みの青の、単調に見えて、実はグラデーションによって深みが増す、いわば幽玄の世界にこそ、つい惹きこまれます。
藍は、「シルクロードを通って、インドから中国、そして日本へ」と伝わったとされ、「正倉院の宝物の中には、藍染めされた布や糸がいくつも納められ」ており、「奈良時代には既に栽培されていた」ことが文書で確認されるそうです。平安時代に編纂された延喜式には、「藍色が、濃淡の違うたくさんの呼び名で紹介され」、「(濃く青く染めつけることが出来ない)生の葉を用いたとする表記と、『乾葉』すなわち乾燥した葉を用いたとする表記」があるそうです。しかも、「乾葉を用いて『深縹(こきはなだ)』を染めた、とあることから考えれば、すでに(濃く染めるために、現在行われているような)『建て染め』がされていたと考えるのが自然」なのだそうです(http://www.blue-edge.jp/01_history_2.html)。
先に紹介した「藍色工房」さんのブログで、「当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ」、というのは、あながち誇張ではないのかも知れません。鎌倉時代には藍の濃紺のかち色(勝ち色)として武家に愛好されていた藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代の初め頃のことだそうで、野良着やもんぺなどの仕事着で木綿の着物を着るようになったのがきっかけと言われます。「広重ブルー」は、墨ひとつで無限のバリエーションを水墨画に表現したほどの繊細な日本人が、また、藍でもグラデーションを楽しんだ、日本人のモノトーン(今回は青)に対する思い入れの、いわば集大成(あるいは日本人にとっては些細なごく当たり前の選択?)と言えるのではないでしょうか。日本人の色に対する美意識の原点を見つめ直すのもよいと思いました。
太田美術館「広重ブルー ~世界を魅了した青」、実は既に後期に入りましたが、今月一杯、5月28日までの開催です(なお、前期は4月1日~27日でしたが、見逃しました)。