良好な日豪関係を象徴するような記事を見かけました。「シドニー湾で追悼式」と題する本日付の日経夕刊記事です。
一般には余り知られていませんが、今から73年前の1942年5月31日、太平洋戦争のさなか、旧日本海軍の2人乗り潜航艇(全長約24メートル)3隻がシドニー湾に侵入し、6月1日未明に魚雷攻撃を行い、豪軍艦の21人が死亡したという事件がありました。潜航艇3隻はいずれも自沈または撃沈され、うち2隻は引き揚げられて、首都キャンベラにある豪戦争記念館に展示されているそうです。そして、73年目の今日、日豪双方の犠牲者の追悼式典が、豪政府主催で、シドニー市内の攻撃地点に近いガーデンアイランドのクッタバル基地で開催されたというものです。同基地のレベッカ・ジェフコート司令官は挨拶の中で、「この事件を知る者は少なくなったが、風化させてはいけない。亡くなった日本人搭乗員らの勇気も決して忘れない」と哀悼の意を表したと言います。
7年前、家族でキャンベラの戦争記念館を訪れ、潜航艇から引き揚げられた日章旗や身の回りの品を見たことがあります。その解説ボードには、日本の小型潜航艇が狙っていたのはアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」だった、とありました。そのあたりの認識もあるせいかどうか、Wikipediaには、以下のような経過が紹介されています。
(引用)
自爆した2隻の特殊潜航艇は6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。(中略) 戦時中に敵国である大日本帝国の海軍軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、毅然として豪州国民に訴えた。その弔辞の一部が今も伝わっている。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
(引用おわり)
敵ながら天晴れ、というような騎士道(あるいは武士道)の精神が、軍人にはしばしば見られます。当時の戦争観は、今のように正戦論華やかではなく、むしろ喧嘩両成敗(正義はいずれにもあり)の意識の下で、戦争は、クラウゼヴィッツが言うように「他の手段をもって継続する政治の延長」であり、軍人は政治とは別の次元で(つまり好んで戦うわけでもなく)、ルールに則って戦うことを宿命づけられた存在だから・・・なのかも知れません。戦争という不幸な出来事の中で、敵国同士でも、このように相手の勇気を称えることがあるというのは、人として救われます。そして73年経って、敵国同士が双方の犠牲者を共に追悼する関係になり得ることにも、やはり救われます。
かたや日本と共に戦ったにも係らず、ある時は「1000年経っても加害者と被害者の立場は変わらない」と加害者・被害者の関係をでっちあげ、またある時は図々しくも戦勝国の地位を要求(サンフランシスコ講和条約のときは米・英から拒否、日韓基本条約のときは日本から拒否されましたが)する国もあれば、国民党の陰に隠れて戦力を温存しながら、日本との関係では勝敗はつかなかったにも係らず、内戦で国民党を台湾島に追いやり、すっかり勝者ヅラする国もある・・・この違いは一体何なのかと愕然とさせられます(苦笑)。
一般には余り知られていませんが、今から73年前の1942年5月31日、太平洋戦争のさなか、旧日本海軍の2人乗り潜航艇(全長約24メートル)3隻がシドニー湾に侵入し、6月1日未明に魚雷攻撃を行い、豪軍艦の21人が死亡したという事件がありました。潜航艇3隻はいずれも自沈または撃沈され、うち2隻は引き揚げられて、首都キャンベラにある豪戦争記念館に展示されているそうです。そして、73年目の今日、日豪双方の犠牲者の追悼式典が、豪政府主催で、シドニー市内の攻撃地点に近いガーデンアイランドのクッタバル基地で開催されたというものです。同基地のレベッカ・ジェフコート司令官は挨拶の中で、「この事件を知る者は少なくなったが、風化させてはいけない。亡くなった日本人搭乗員らの勇気も決して忘れない」と哀悼の意を表したと言います。
7年前、家族でキャンベラの戦争記念館を訪れ、潜航艇から引き揚げられた日章旗や身の回りの品を見たことがあります。その解説ボードには、日本の小型潜航艇が狙っていたのはアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」だった、とありました。そのあたりの認識もあるせいかどうか、Wikipediaには、以下のような経過が紹介されています。
(引用)
自爆した2隻の特殊潜航艇は6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。(中略) 戦時中に敵国である大日本帝国の海軍軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、毅然として豪州国民に訴えた。その弔辞の一部が今も伝わっている。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
(引用おわり)
敵ながら天晴れ、というような騎士道(あるいは武士道)の精神が、軍人にはしばしば見られます。当時の戦争観は、今のように正戦論華やかではなく、むしろ喧嘩両成敗(正義はいずれにもあり)の意識の下で、戦争は、クラウゼヴィッツが言うように「他の手段をもって継続する政治の延長」であり、軍人は政治とは別の次元で(つまり好んで戦うわけでもなく)、ルールに則って戦うことを宿命づけられた存在だから・・・なのかも知れません。戦争という不幸な出来事の中で、敵国同士でも、このように相手の勇気を称えることがあるというのは、人として救われます。そして73年経って、敵国同士が双方の犠牲者を共に追悼する関係になり得ることにも、やはり救われます。
かたや日本と共に戦ったにも係らず、ある時は「1000年経っても加害者と被害者の立場は変わらない」と加害者・被害者の関係をでっちあげ、またある時は図々しくも戦勝国の地位を要求(サンフランシスコ講和条約のときは米・英から拒否、日韓基本条約のときは日本から拒否されましたが)する国もあれば、国民党の陰に隠れて戦力を温存しながら、日本との関係では勝敗はつかなかったにも係らず、内戦で国民党を台湾島に追いやり、すっかり勝者ヅラする国もある・・・この違いは一体何なのかと愕然とさせられます(苦笑)。