風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

バングラデシュとテロ(前)

2016-07-09 15:21:09 | 時事放談
 7月1日の夜、バングラデシュの首都ダッカのグルシャン地区にあるレストラン「ホーリ・アーティサン・ベーカリー」を、武装したバングラデシュ人7人が襲撃するテロ事件があり、民間人20人(内、17人は外国人で、JICA関係者の日本人7人も含まれる)と警察官2人が死亡し、犯人の内6人が射殺された。襲撃犯たちは「アッラーフ・アクバル」と叫びながら無差別に銃撃をはじめ、爆弾を数発爆発させ、その後、客の中から外国人を選別し、イスラムの聖典コーランの一部を暗誦させ、出来なければ惨殺するなど残虐極まりない犯行を行ったという。
 グルシャン地区は、大使館等も数多く存在する、ダッカの中でも裕福な高級住宅街らしい。バングラデシュで開発コンサルタントをやっていた原口侑子さんは、1年半ほど前、このレストランを訪れ、焼くためにフランス人を呼び寄せたというパンや、本場スペインで食べるのと遜色ないパエリアを楽しんだという。そのとき紹介されたこの店のオーナーはダッカ随一の和食レストランのオーナーの1人でもあり、「素敵なレストランの経営総ざらい、やはり途上国の金持ちたちのビジネスは手広く、お金もアイデアもひとところに集まる」ものだと述べている。そして、襲撃犯の中には教育を受けた裕福な若者も含まれ、報道によれば、レストランのスタッフや、その他のバングラデシュ人に対する襲撃犯たちの態度は「まったく礼儀正しく、心配りが行き届いていた」という。
 バングラデシュ政府が今のところISISの関与を認めていないのは、ISISのターゲットとされることで日本はじめ欧米からの投資に水を差すのを恐れているせいではないかと言われる。ムスリムが9割を占めながらも世俗国であるバングラデシュで、マレーシアなど外国で教育を受けた裕福な、しかしイスラム原理主義に洗脳された、若者たちが襲撃したのは、所謂ソフト・ターゲットの典型であった。世界を知るからこそ気付く矛盾があるのかも知れないが、何だかやりきれなくなる。バングラデシュをはじめマレーシアやインドネシアなど世俗的なイスラム国の安全とされる地域の高級レストランは、日本人を含む欧米人の憩いの場だが、それが原理主義者からすれば欧米的な頽廃した生活習慣を押しつけられているとの被害者意識を抱かせ恨みに思う象徴的な場となっているのだろうか。もはや世界は変わってしまったのか。
 我々日本人にとって、バングラデシュは、それほど遠い国ではない。日本は、独立したバングラデシュを早々に国家承認した頃から、単独援助でも世銀やADB(アジア開発銀行)経由の援助でも世界トップで、日本に対して恩を仇で返す中国共産党とは違って、バングラデシュの人たちは「日本の国際貢献でバングラデシュが発展したことは学校で社会科の時間に習った」、「日本とりわけJICAによる援助は欠かせないものだ」と語って、親しみを隠さないようだ。国旗は独立戦争の翌1972年に制定されたものだが、豊かな大地を表す緑の地に、中央やや旗竿寄りに、昇りゆく太陽を表す赤い円が描かれており、私たち日本人には、色のどぎつさは別にして親近感を覚えるのは錯覚ではなく、実際、初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンは、娘のシェイク・ハシナ首相によると、制定にあたって日本の日の丸を参考にしたとされる。
 そんなバングラデシュでも、最近は中国の影響力が増している。宮崎正弘氏によると、過去30年、中国はバングラデシュに対して橋梁、道路、港湾整備など多くのプロジェクトを手掛けてきて、ダッカにはチャイナタウン5万人構想があり、繊維産業では中国企業が100万人のミシン女工を雇用しているというし、中国の武器がバングラ軍と警察の武装の82%、ほかに民間企業の進出も目立ち、重層的な進出が見られるという。中国の「一帯一路」構想の中でも、バングラデシュのチッタゴンは地政学的に要衝とされ、この港湾からの輸送路は国内ばかりか、ブータン、ネパールを含むインド経済圏の貨物輸送のハブでもあり、またチッタゴンの南に位置するソナディア港は深海であることから、中国はこの港に巨大港湾施設を建設するプロジェクトを持ち掛け、度重なる協議を経て、2012年には政府は許可に前向きとなったらしいが、最終的に折り合いがつかず「白紙に戻す」ことが決まり、2016年2月、この事実がインドのメディアで報道されたという。代わりに港湾プロジェクトを仕切るのは日本だそうである。中国にとって、メキシコ新幹線、米国西海岸(ロス~ベガス)新幹線、インドネシア新幹線に続く挫折である。中国流が受け入れられなくなったのか、中国への傾斜が警戒されたのか。
 私がオーストラリア・シドニーに駐在していた頃、部下の一人にバングラデシュ出身の移民一世がいた。シンガポールに出稼ぎに出てホテルマンから始めた苦労人で、その後、経理の勉強をしてその方面に移り、真面目でよく働いた。なんて偉そうなことを書いているが、私よりもずっと年上で、日本人に対する親しさもあったのだろう、時折り、奥様手製の食事を差し入れてくれるなど、不慣れな私たちに何くれとなく世話を焼いてくれた。残念ながらその会社を清算することになり、私が帰国するときには、知人のバングラデシュ人を紹介してくれて家電製品や家具の売却を助けてくれたし、彼が転職するときには、要請を受けて(しかし受けるまでもなく)彼を最大限賛辞する紹介状を書き、転職を助けたこともあった、そんな移民の厳しさやしたたかさをも垣間見せてくれた人だった。
 バングラデシュ・ダッカでの痛ましいテロをほろ苦い思いで見ている。それはもう一つ、有名なある悲劇が連想されるからだが、長くなるので次回に。
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