バングラデシュと言えば、昔から人口密度の高さと貧しさが記憶にある。実際に、日本の面積の40%の地に、日本の人口の126%の人々が住み、モナコやシンガポールなどの都市国家を除くと人口密度はダントツの世界一だ。1971年にパキスタンから独立した頃の報道が微かに記憶に残るが、その頃からアジアの最貧国と言われ続け、今も国連基準で後発開発途上国とされて、Wikipediaには、1日2ドル未満で暮らす貧困層は日本の人口に迫る1億1800万人、実に国民の75%を超えるとある。最近はその人件費の安さから「チャイナ+1」としても注目され、中でもユニクロやH&Mなどのアパレル産業が盛んに進出し、繊維製品がバングラデシュ全輸出の80%を占め、GDPの20%近くに達するという。実際にユニクロなどのシャツやパンツのタグにバングラデシュ製の文字を見ることが多くなったが、バングラデシュのアパレル産業については、ちょっと複雑な思いがある。
かつてインド(バングラデシュ含む)は木綿の原産地とされ、ルネサンスの頃にヨーロッパにもたらされると、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以降インドに進出したイギリス東インド会社やオランダ東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの「飛び杼」にはじまる技術革新を促し、18世紀後半の産業革命の興起を招くこととなる(Wikipedia)。
その波はインドにも押し寄せ、安価な機械紡績の綿製品は、それまで綿織物の輸出国だったインドを、19世紀半ばには輸入国に変えてしまう。そこで立ちはだかったのが、ダッカ産の綿織物、今もなお世界最高品質を謳われ、その薄さや柔らかさから「シルクを超える」とまで形容される伝説の「ダッカ・モスリン(Dhaka Muslin)」だった。ダッカ独特の湿気の強い土地柄の、しかもその作業は早朝の湿気を帯びた空気の下でのみ可能で、陽光の照る日中は糸が反って紡げなかったとされ、熟練工の手で織り上げられた布地は7枚重ねても肌が見えたと言われている。ダッカ・モスリンはムガール朝インドの皇帝にも献上され、熟練職人はムガール皇帝によって庇護された。嫉妬した英国の紡績業は、競争者をなくすため、ムガール朝の没落によって庇護者がいなくなったダッカ・モスリンの熟練職人の指を切り落とし、それでも足りないときは両目をくりぬいて、二度と手紡ぎ出来ないようにしたという。このエピソードは、マルクスが「資本論」の中で、「綿織物工の骨はインドの野を真っ白にしている」と、当時の東インド総督の報告を引用して述べたことの方でむしろ有名だろう。ある文献によれば、ダッカの人口は18世紀末の15万人から1840年頃には僅か2万人に減少したという。因みに隆盛を誇ったダッカ・モスリンの現物は、今ではロンドンのビクトリア&アルバート博物館に残るのみと言われる(ダッカの国立博物館にも一部が保存されているらしい)。
しかしマルクスが論じたように、当時の宗主国である大英帝国が、なりふりかまわず植民地からの収奪によって利益を得るという動機によって動かされながらも、結果としてインドに資本主義経済の諸要素の発生を促さざるを得なかったのであり、遅まきながらも今のインド(やバングラデシュ)の発展に繋がっていると言えなくもない。
今となっては昔の話ではある。
かつてインド(バングラデシュ含む)は木綿の原産地とされ、ルネサンスの頃にヨーロッパにもたらされると、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以降インドに進出したイギリス東インド会社やオランダ東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの「飛び杼」にはじまる技術革新を促し、18世紀後半の産業革命の興起を招くこととなる(Wikipedia)。
その波はインドにも押し寄せ、安価な機械紡績の綿製品は、それまで綿織物の輸出国だったインドを、19世紀半ばには輸入国に変えてしまう。そこで立ちはだかったのが、ダッカ産の綿織物、今もなお世界最高品質を謳われ、その薄さや柔らかさから「シルクを超える」とまで形容される伝説の「ダッカ・モスリン(Dhaka Muslin)」だった。ダッカ独特の湿気の強い土地柄の、しかもその作業は早朝の湿気を帯びた空気の下でのみ可能で、陽光の照る日中は糸が反って紡げなかったとされ、熟練工の手で織り上げられた布地は7枚重ねても肌が見えたと言われている。ダッカ・モスリンはムガール朝インドの皇帝にも献上され、熟練職人はムガール皇帝によって庇護された。嫉妬した英国の紡績業は、競争者をなくすため、ムガール朝の没落によって庇護者がいなくなったダッカ・モスリンの熟練職人の指を切り落とし、それでも足りないときは両目をくりぬいて、二度と手紡ぎ出来ないようにしたという。このエピソードは、マルクスが「資本論」の中で、「綿織物工の骨はインドの野を真っ白にしている」と、当時の東インド総督の報告を引用して述べたことの方でむしろ有名だろう。ある文献によれば、ダッカの人口は18世紀末の15万人から1840年頃には僅か2万人に減少したという。因みに隆盛を誇ったダッカ・モスリンの現物は、今ではロンドンのビクトリア&アルバート博物館に残るのみと言われる(ダッカの国立博物館にも一部が保存されているらしい)。
しかしマルクスが論じたように、当時の宗主国である大英帝国が、なりふりかまわず植民地からの収奪によって利益を得るという動機によって動かされながらも、結果としてインドに資本主義経済の諸要素の発生を促さざるを得なかったのであり、遅まきながらも今のインド(やバングラデシュ)の発展に繋がっていると言えなくもない。
今となっては昔の話ではある。