私にとって、ジバンシィ(GIVENCHY)は思い出深いブランドだ。
私の会社では入社1年目は海外出張できない習わし(!?)で、解禁された2年目の4月を待ちかねたように、担当していた台湾に出張に出さされた。当時、大学の「卒業旅行」=海外旅行などといった優雅な慣習はまだなくて(因みに私の卒業旅行は、友人とレンタカーを借りて日本海沿いに京都(「夢千代日記」の里)から鳥取(砂丘)そして島根(出雲大社)を巡りながらカニを堪能する、ささやかな冬の山陰の旅だった)、台湾こそ私が踏みしめた初めての“外地”だった。その台湾“初”出張帰りの空港のまばゆいばかりの免税店で、すっかり舞い上がって高級ブランド品を物色する中で、しかと選んだ生涯“初”のブランド品がジバンシィのネクタイだった。
その後、台湾には30回以上も出張し、ミーハーな私はそのたびに、ネクタイや財布や定期入れやベルトなどのブランドものの小物を一つずつ買い増し、いつの間にかディオールやグッチやエルメスやダンヒルといった、今思えば、およそペーペーのサラリーマンに似つかわしくない、高級品の数々で身を飾る、いけすかない若造になり果てたのだったが・・・まさに日本のバブル全盛の頃のことである・・・今でもお気に入りのブランドはダンヒルとジバンシィを以て双璧をなす。バブル崩壊と軌を一にするように、ここ20年ほどは、とんとご無沙汰しているが(苦笑)
その創業者で服飾デザイナーのユベール・ド・ジバンシィ氏が今月10日、死去した。享年91。
「麗しのサブリナ」、「おしゃれ泥棒」、「シャレード」、「ティファニーで朝食を」などの映画でオードリー・ヘプバーンの映画衣装を手がけたことで知られる。中でも、「ティファニーで朝食を」のオープニングを飾った黒いドレスはヘプバーンのアイコンになり、ジバンシィ氏の代表作の一つという。また、モナコ公妃グレース・ケリーやジャクリーン・ケネディ大統領夫人らも顧客に数えられ、ケネディ家の女性たちがJFKの葬儀でジバンシィ氏のデザインした喪服を着ていたことでも有名らしい。そんな贔屓客を知って、如何にもシックなジバンシィらしいと納得する。
私が次にアメリカを担当するようになってほどない1995年に、後任デザイナーにジョン・ガリアーノ氏を指名し、引退されたらしい。今、初めて拝見したご本人の映像は、氏のデザインそのままに、ダンディで気品がある。
心よりご冥福をお祈りしつつ、合掌。
私の会社では入社1年目は海外出張できない習わし(!?)で、解禁された2年目の4月を待ちかねたように、担当していた台湾に出張に出さされた。当時、大学の「卒業旅行」=海外旅行などといった優雅な慣習はまだなくて(因みに私の卒業旅行は、友人とレンタカーを借りて日本海沿いに京都(「夢千代日記」の里)から鳥取(砂丘)そして島根(出雲大社)を巡りながらカニを堪能する、ささやかな冬の山陰の旅だった)、台湾こそ私が踏みしめた初めての“外地”だった。その台湾“初”出張帰りの空港のまばゆいばかりの免税店で、すっかり舞い上がって高級ブランド品を物色する中で、しかと選んだ生涯“初”のブランド品がジバンシィのネクタイだった。
その後、台湾には30回以上も出張し、ミーハーな私はそのたびに、ネクタイや財布や定期入れやベルトなどのブランドものの小物を一つずつ買い増し、いつの間にかディオールやグッチやエルメスやダンヒルといった、今思えば、およそペーペーのサラリーマンに似つかわしくない、高級品の数々で身を飾る、いけすかない若造になり果てたのだったが・・・まさに日本のバブル全盛の頃のことである・・・今でもお気に入りのブランドはダンヒルとジバンシィを以て双璧をなす。バブル崩壊と軌を一にするように、ここ20年ほどは、とんとご無沙汰しているが(苦笑)
その創業者で服飾デザイナーのユベール・ド・ジバンシィ氏が今月10日、死去した。享年91。
「麗しのサブリナ」、「おしゃれ泥棒」、「シャレード」、「ティファニーで朝食を」などの映画でオードリー・ヘプバーンの映画衣装を手がけたことで知られる。中でも、「ティファニーで朝食を」のオープニングを飾った黒いドレスはヘプバーンのアイコンになり、ジバンシィ氏の代表作の一つという。また、モナコ公妃グレース・ケリーやジャクリーン・ケネディ大統領夫人らも顧客に数えられ、ケネディ家の女性たちがJFKの葬儀でジバンシィ氏のデザインした喪服を着ていたことでも有名らしい。そんな贔屓客を知って、如何にもシックなジバンシィらしいと納得する。
私が次にアメリカを担当するようになってほどない1995年に、後任デザイナーにジョン・ガリアーノ氏を指名し、引退されたらしい。今、初めて拝見したご本人の映像は、氏のデザインそのままに、ダンディで気品がある。
心よりご冥福をお祈りしつつ、合掌。