風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

平成から令和へ(上)

2019-05-02 02:12:30 | 日々の生活
 昨晩から今日にかけて、さながら大晦日から正月がやって来たような華やぎだった。上皇陛下が譲位の意向を示された平成28年8月から一年も経たない平成29年6月に譲位を可能とする皇室典範特例法が成立し(我が国の官僚はやはり優秀だ 笑)、光格天皇以来202年ぶりとなる譲位がつつがなくとり行われ、新たな令和の時代を迎えた。生前退位は、高齢で公務を続けることの難しさと後進に道を譲ることの潔さという意味で、高齢化社会の現実と理想を示されるとともに、祝賀ムードとなるであろう譲位は上皇陛下の思し召しでもあったのだろう。昨日も今日も生憎の雨模様だったが、むしろ水をさすのがよいくらいの、多少のしめやかさが演出されたのは、これも天の配剤だろうか。
 振り返れば昭和から平成は、昭和天皇崩御を受けて自粛ムードの中で、まさにしめやかに行われた。忘れもしない昭和64年1月7日は、前月に友人と香港にふらふら遊びに行って、独身寮の電話当番をサボってしまった罰として、一日電話当番を命じられた日だった(涙笑)。小さなテレビが置いてある受付の部屋で、ひがな一日、テレビ三昧かと覚悟していたら、朝からどの局も特番に切り代わり、ひがな一日、昭和を振り返ることになってしまった。今回は、酒をちびちび飲みながら(電話当番では酒は飲めないからね 笑)、ネットをぶらつき平成を振り返った。
 今に至る象徴天皇を彷彿とさせる歴史的な事績として思い出されるのは、仁徳天皇の「民のかまど」のエピソードである。記紀によれば、人家のかまどから炊煙が立ち上っていないこと(すなわち満足に食にありつけていないこと)を気遣われた仁徳天皇は、3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったといい、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来すると言われる(Wikipedia)。似たような話として、東日本大震災の後、被災地を慮った両陛下は、寒い中でも暖房を控えられていた話を、故ダニエル・イノウエ氏の奥方アイリーン・ヒラノ・イノウエさんが披露されている(産経電子版による)。当時、全米日系人博物館の館長をされ、2012年の秋に国際交流基金賞を授与されて、訪日した際に御所にお呼ばれしたところ、両陛下は「部屋がとても寒いのでは」とお尋ねになり、申し訳なく思うと述べられた上で、そのわけを、被災地で苦しむ方々に思いをめぐらされ、ご自身も暖房や冷房を使わず、エネルギーの節約に努めているのだと説明されたというのである。私の勤める会社でも今なおエレベーターや執務フロアの電灯を間引いて室温も緩めて節電に努めているが、原発反対を叫ぶ人で節電に努めている(そして被災地の方々に思いを巡らせる)人はどれだけいるだろうか・・・とは余談である(笑)。
 ことほどさように、両陛下は、常に国民とともにあることを目指して来られた。即位後は早い時期に全都道府県に赴くことを希望され、平成15年に47都道府県を制覇され、29年には2巡目を果たされたという。三大行幸啓(国民体育大会、全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会)は毎年47都道府県が持ち回りで開催しているにしても、である。また、訪問先では高齢者や障害者、子供のための施設を視察されるなど、社会福祉にも関心を寄せられてきたし、災害直後だけでなく、復興状況の視察も繰り返された。さらに先の大戦の慰霊に心を尽くされているのは真に尊い。どうしても記憶しなければならない4つの日として、終戦の日の8月15日、沖縄戦終結の6月23日、広島と長崎に原爆が投下された8月6日と9日を挙げられ、これらの日には黙祷を捧げていることも明かされている。また、パラオやフィリピンを訪問されたのは記憶に新しいが、硫黄島やサイパン島などの激戦地や広島・長崎のほか、昭和天皇が果たせなかった沖縄訪問は、皇太子時代を合わせると計11回(平成だけで6回は、広島5回よりも多い)に及ぶという。「広島・長崎は原爆のため印象的でよく知られていますが、沖縄は逃げ場のない島で、たくさんの人が死んだのに、本土の人たちの視野から落ちがちです」と語られている(昭和62年8月)のを聞くと、頭が下がる思いであり、昨今の沖縄の米軍基地を巡る確執を見るにつけ、まさに国民統合の象徴と言えるように思う。
 ついでに皇室外交についても触れたいところだが、ちょっと長くなりそうなので、続きは次回・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする