風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

補足

2019-05-09 23:31:01 | 日々の生活
 前回ブログで触れたように書き損じのメモ書きを、備忘録として残しておきたい。
 巷間、批判される通り、ネットの世界ではGAFAやその中国版のBATHといったプラットフォーマーに牛耳られ、かつて世界に冠たる日本の「ものづくり」は台湾・韓国、更には中国や東南アジアにとって代われられ、世界的な、という意味での日本の存在感はすっかり薄れてしまった。これは象徴的な事例の一つに過ぎないが、平成の30年は長期低迷した時代と回顧されることが多い。産業界の片隅でひっそりと時代の風に触れた一人として、平成を「総括」するなどと大上段に構えるのではなく、「実感」を書き留める。

<産業構造の変化>
 平成の時代思潮を表現する言葉にはいろいろあろうが、前回ブログでは、「コモディティ化」が予想以上に進展したことを挙げた。昭和から平成にかけて、ムーアの法則が象徴的に語られたように(世紀末に提唱されたポラックの法則では、コンピュータのプロセッサ性能は比例より劣るらしいが)、半導体が産業のコメとして爆発的に普及し、産業界を様変わりさせてしまった。半導体産業自体は装置産業で事業サイクルが異なるため、分社化して別の管理に移行したのはいいが投資が続かず、韓国系財閥や国家資本主義の中国にその地位を譲って行った。日本に残ったのは半導体製造装置産業だけである。他方、コンピュータの性能は向上し、いまやスマホはかつて(例えばアポロ計画の頃)のスーパーコンピューターを超え、各人の掌に納まるほどになった。その流れを作ったのは、部品メーカーの存在もさることながら、意外にも、汎用コンピュータ産業の雄として君臨し、1990年代後半、ビジネス・シーンで服装のカジュアル化が進んでも最後まで保守的だった(笑)、IBMである。アップルに後れてパソコン市場に参入するとき、彼らの強みである垂直統合の事業モデルではなく、外部からOSをはじめキーコンポーネントを寄せ集めて組立てる水平分業の事業モデルを採用して、一気に市場を席巻したのであった。この画期的な出来事は、皮肉なことに自らの首を絞める結果となり、IBMの躍進は一時的なものに終わる。当時、車のガレージでパソコン会社を起業するといった話があちらこちらに転がっていたように、参入障壁が下がったことで競合が増えたからで、市場は急拡大し、アメリカ西海岸のシリコンバレーが活性化した(かつて「ボストン=垂直統合」と「シリコンバレー=水平分業」を比較した『現代の二都物語』というアナリー・サクセニアン教授の著作があった)。
 こうしたエレクトロニクス業界地図を、台湾のパソコン・メーカーAcerの総帥・施振栄(スタン・シー)会長は「スマイル・カーブ」で表現した。口元のカーブに見られるように、左(上流:素材・部品)や右(下流:システム・インテグレーションやサービス)は利益率が高いが、その間(中流:組立て)は儲からない、というものだ。その儲からない中流を請け負っていた台湾系のEMS(電子機器の受託生産)企業は、より上流の設計も取り込んでODMなどと呼ばれ(特にパソコン業界で)、あるいはフォックスコン(鴻海科技集団)のように80万人もの従業員を抱えるほどに巨大化し、その創業者は今や台湾・総統を狙うほどだ(笑)。このように水平分業はグローバルに進んで、日本のパソコン産業をはじめとするエレクトロニクス産業は空洞化し、数量で勝てなかったために急速に競争力を失って行く。
 数量で勝てなかった、つまり世界で受け入れられなかったのは、製品デザインがグローバルじゃなかったことも一因だろうと思う。四半世紀前、アメリカに駐在したときに現地で買い揃えた家電製品は安かったが、お世辞にも洗練されていたとは言えなかった。例えば(固定)電話機はごつごつしていて、日本人の小さな手には納まらないほどだったが、機能する限りにおいて、アメリカ人は満足するのだろう。それに対して日本人は生来の職人芸が疼いて、手が込んだものを愛する。その後、マレーシアに駐在したとき、日本のパソコンが売れないのは、余計な機能まで盛りだくさんで(当時テレビを見ることが出来たのは画期的だったが)コスト・アップになり、しかもソフトやオプション品との互換性評価のために時間がかかり、リリースされる頃には最新性能ではなくなっているから・・・といった話を聞いたことがある。それに対してアジアの人たちは、とにかく最新の性能で安いものを求めるという、分かり易い性格だった。こうして日本の製品が手が込んだものになりがちなのは、日本の消費者の要求レベルがそもそも高いからか、日本のメーカーがそのように誘導するからか、若しくはその両方なのだろう。今風に言えばこれも一つの「ガラパゴス」だと思う。挙句に、苦し紛れの製品戦略として、ハイエンド領域を狙うようなラインアップにすると、数は出ないし、いずれ「コモディティ化」の波にさらわれて、縮小均衡の罠に陥る。

<市場の変化>
 市場について一言で形容するなら、間違いなくグローバル化の進展であろう(かつては「グローバリゼーション」と英語そのままに呼ばれたが、最近はとりわけ悪“意”を際立たせるためかイデオロギーとしての「グローバリズム」が多用され、なんとなく混同されている)。平成とともに天安門事件は抑えられたがベルリンの壁やソ連邦が崩壊し、東欧や、やがて中国がグローバル経済に組み込まれた。水は低きに流れるという喩え通り、「コモディティ化」したエレクトロニクス製品の生産は、低賃金のこれら新興国に移って行った。その恩恵を最も受けたのは言わずと知れた中国で、改革開放の波に乗り世界の工場ともてはやされた。その実、その多くは外資によってもたらされたものであり、中国側では安い労働力を提供し続けるだけでは、いずれ経済原理に沿って頭打ちとなり、国家経済として中所得国の罠に陥りかねないことを懸念した中国共産党は、高付加価値化の取組みとして、2015年に「中国製造2025」というハイテク領域での国産化政策を策定し、折からの軍民融合政策とも相俟って、アメリカとの技術摩擦を深めて行くが、それは令和の時代の基調となるであろう。平成の時代には、日本は地の利もあって、裏庭のような中国に挙って進出し、生産コストを下げることで競争力を維持しようと躍起になった。長引くデフレの一端は、間違いなくこうした日本企業の努力にある。雇用を守るための善意の努力であったが、コスト弾力性を高めるために、雇用の非正規化をも進めざるを得なかったのは、飽くまで結果論だが不幸なことだった。

<日本社会の変化>
 この底流にある日本の社会状況は、間違いなく少子化と、結果としての人口減少、とりわけ生産人口の減少である。経済成長を実現するのはイノベーションだと主張する経済学者がいて、その限りではその通りだが、今の日本経済を説明するには十分ではなく、人口が減少すれば市場は萎むのだ。10連休前の日経に、人口がさほど増えていない中国でも二桁成長を続けてきたのだから、平成の日本は人口減少を言い訳にはできない、といった解説が見られたが、日経にしては随分と大雑把な議論である。中国では、高度成長期の日本のように、地方から都会(主に沿岸部)へ若者を中心とした民族大移動が起こり、拡大する労働需要を支えたのだ。あのときの日本には田中角栄という、自民党にありながら社会主義的な再配分政策を実行する奇特な政治家がいて、それは彼が越後という地方出身の立志伝中の人物だからであったが、世界でも稀に見る国土(ほぼ)均一な豊かさを実現した(その分、無駄も多かった)のだが、共産主義社会の中国で地方が置いてきぼりになったとは、何とも皮肉だ。中国で西部開拓が進められたのは、再配分政策と言うよりも、市場原理が働かない計画経済ゆえに過剰に積み上がった在庫の解消が目的だった。さらにかつての共産圏である中央アジアにも歩みを進め、それらの散発的な開発プロジェクトを纏めて「一帯一路」と称し始め、さも戦略的であるかのように偽装している。共産主義者はレトリックに優れるのだが、これは余談である。

<前時代(昭和)の成功体験の罠>
 日本的経営は、昭和という安定した時代背景のもとで成功体験として固定化され、次の平成の時代の変化に取り残されてしまった。所謂「成功体験の罠」である。実際のところ、昭和の冷戦時代は、米ソ核戦争の危機に晒され緊張感が高まったが、高まる緊張感のもとで、米ソの直接的な衝突は回避され、せいぜい地域限定の代理戦争(紛争)にとどまって、今から振り返れば却って平和だったとすら言え、こうした(逆説的だが)不安定な状態が安定的に続いた時代は、終身雇用で年功序列の日本的経営は、日本の企業が安定的に成長する基盤として機能した。キャッチアップ型の日本の企業は、先行する欧米を追いかけるという意味で目標も明確であり、長期的な経営が可能だった。ところが、平成のように地殻変動に見舞われた時代には、雇用の流動性に乏しいことが日本の企業の足を引っ張ることになる。
 そのため、平成の時代半ばになると、日本的経営が解体し始める。折しもネット・バブルで、アメリカの専業メーカーの躍進が目立ち、総合と名のつく産業(総合電機や総合商社や・・・)が不振をかこつや、コンサルタントがアメリカ式のKPIや成果主義などの手法を吹聴しまくり、本来、日本の文化に根差した一貫した体系だったはずの日本的経営に、アメリカ的経営が部分的に接ぎ木され、現場に腹落ち感がないまま、却ってモラールを下げてしまった。富士通で成果主義を推進していた人の告発本が出たのはその頃のことだ。
 また、日本の産業界は、昭和の時代に「ものづくり」に成功し過ぎて、その成功体験に拘り過ぎたのではないだろうか。そこには日本人の我慢強い性向もあり、農耕民族に特有の、持ち場で頑張り、否、頑張り過ぎる性向も作用していよう。資本の論理が働けば、アメリカ人のようにさっさと新たな市場の開拓を目指すところだが、日本人は生産コスト低減のために安い労働力を求めて中国で「ものづくり」し、国内の人件費すらも切り詰め、利益率が低いと投資家に非難されても、頑張ってきた。そこに一つ誤解があるとすれば、日本の「ものづくり」は、昭和の時代に安い為替のゲタを履かせて貰って、上手く行き過ぎたことだろう。平成が始まる寸前のプラザ合意で、Wikipediaによれば、「発表翌日の9月23日の1日24時間だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し」「1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった」のであった。日本人はつい目の前の現実に対処しようとするが、振り返れば、それまで円が安過ぎたのだと言えなくもない。
 もっと言うと、日本の社会自体が、昭和の時代の成功に最適化してしまい、平成の時代の変化について行けなかったということではないだろうか。例えば、日本でキャッシュレス化が進まず、ライドシェアも進まない一因は、現金による支払が安全に整備されて便利で安心だからであり、タクシーが安全で渋滞を避ける術を心得ていて安心だからである。日本は、昭和の高度成長の時代に、極めて精緻で安心できる社会インフラを構築することに成功した。成功し過ぎた。
 平成の激動を迎えて、企業経営を含む社会インフラの「調整」は痛みを伴った。エレクトロニクス業界で言うと、サンヨーはパナソニックに経営統合されて消滅し、シャープは台湾企業(鴻海精密工業)に買収され、かつてDynabookとして一世を風靡した東芝のパソコン事業はそのシャープに買収されて台湾資本の傘下となり、東芝の白物家電は中国企業(美的集団)に買収され、NECや富士通やIBMのパソコン事業はレノボに実質的に買収されて、かつてのIBMの人気ブランドThinkPadはNECの米沢工場で生産されて人気である(!)。

<安定志向>
 以上、長々と書いてきたが、組織体制はどうであれ、所詮はそれを動かす人の問題である。
 それにつけても思い出すのは、昭和の根性のまま平成に突入した私自身の意識である。あけすけに言うと、昭和の終わり頃、大学については、偏差値で(文系・理系も含め出来るだけ高いところで自分が入れそうな科目で)選び、入ってから何を勉強するか考えようとしていた、恐らく世の大多数と似たり寄ったりの主体性のない私は、会社についても、当時の就職人気でなるべく高くて無難なところで、OB訪問をしながらフィーリングで選ぶという、ミーハーぶりであった。世間知らずの学生はそんなものだとも思う。当時、日本の学生は就職にあたり財閥系の安定した大企業を志向するのに対し、アメリカの学生は起業を志向するという指摘を聞いて、驚愕したものだった。私自身のことに戻ると、大学選びより企業選びが多少は成長したと言えるのは、バブル崩壊前夜、文系学生の多くが給与水準の高さに目が眩んで金融機関(都市銀行は当時13もあった、ほかに生保など)に殺到したのに対し、天邪鬼なところもあって、そんな虚業ではなく、あくまで実業の「ものづくり」で、時代の風を感じたいと、まあそうは言っても右も左もわからない中で当時は上げ潮だったエレクトロニクス業界を選んだことだろう。実際に感じた時代の風は、しかし順風ではなく、逆風であった。
 因みに、官僚養成学校を起源とする東京大学の最近の学生は、中央官庁ではなく外資系やコンサル会社を目指すようになったと聞いて、時代の変化を感じる。もっとも、いい加減な政治を陰で支えてきた優秀な官僚組織が弱体化するのではないかと、気になるところではあるが、これも余談だ。

<まとめ>
 こうして平成を振り返るには昭和と平成を一連の流れとして捉える必要があり、そうすると平成の時代は、昭和の時代に安定的に成長することに最適化し、結果として固定化した体制を「調整」する、長い停滞の時代と言えるのだが、正確に言うと、巡航速度に戻ったということではないかと思う。勿論、それは少子高齢化で人口減少する社会での巡航速度である。今さらダーウィンでもないが、自然界でも経済界でも、最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、変化によく対応する者だけが生き残るのだ。
 どんな社会でも常に競争環境にある以上、比較優位を失って後発に譲らざるを得ない部分があり、時間がどれほどかかるかは別にして、「調整」は必要になる。問題はその「調整」にかまけている内に、何で食って行くのか、ドメインを確立することに出遅れてしまったことだろう。結果として、日本の企業は事業の切り売りや撤退で、ジリ貧に陥ったままになっている。
 今年1月、USニューズ&ワールド・レポート誌が発表した国家ランキング「ベスト・カントリー・ランキング」によると、日本は前年の4位から、過去最高の2位に浮上した。企業家精神、冒険的要素、市民の権利、文化的影響力、文化・自然遺産、原動力、ビジネスの開放度、パワー、生活水準など様々な要素を勘案し、言わば「その国を他国の人がどう見ているか」を数値化したもので、日本が対外的に高いブランド力を作り上げた結果だと言う意味では、GDP統計のようなフローの実力ではなく、長年にわたって育て積み上げてきたストックの実力であり、大いに自信をもってよい。ところが同誌は同時に、一般に日本以外の殆どの国は他国民が自国のことを評価する以上にポジティブに自己評価するのに対し、日本人ったら、他国民が日本のことを圧倒的に高く評価しているのに、過小評価していることにも注目している。そして、この日本特有の「自虐性」は、謙遜を尊ぶ文化や大東亜戦争での敗戦という歴史的な影響やバブル崩壊後の経済の停滞などによる(そして外国人はそのことに余り気づいていない可能性もある)のかもしれないが、そんな過小の自己評価は日本に良い影響を与えるはずがないと警告する。プラスに受け止めて日本ブランドを対外的に宣伝してこそ、外国人観光客を呼び込むにしても、投資を呼び込むにしても、良い循環ができるはずだ、と。
 令和という時代は、調整を終え、価値ある日本ブランドを礎に、謙虚に、しかし自信をもって、新たな世界に踏み出して行きたいものだ。
コメント
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